第二十三章 二度目の冬
二度目の冬が来た。
〈Bloom〉は変わらず、立ち飲み四席の小さな店だった。看板もメニューも、開店当初とほとんど変わらない。
ただ、カウンターの上の白い陶器の鉢は、もうなかった。あの世界に一本しかなかったかもしれないコーヒーの木は、徳田の温室で毎年少しずつ実をつけていた。
俺の店では月に一度、〈徳田農園〉と銘打って、その豆のハンドドリップを出すことがある。限定数。予約は取らない。その日に来た客にだけ、淹れる。
誰にも、説明しない。〈マスター、これ、何の豆ですか〉と訊かれた時は、ただ〈友人の温室で育った品種不明の豆です〉と答える。それで十分だった。
飲んだ客は皆、しばらく目を閉じる。目を開ける時、彼らの中で何かがゆっくり、息を吐いているように見える。
ブルーミング。
その瞬間が、俺の店のいちばん好きな時間だった。
栗原さんはいつのまにか、苗字ではなくなっていた。
彼女は店の二階の空き部屋を借りて、そこで書く仕事をしていた。
毎朝、店を開ける前に二階に湯を運ぶ。彼女は、ありがとう、と小さく笑ってそれを受け取る。俺は頷いて、降りる。それだけ。言葉は要らなかった。
彼女は時々、書いたものを店の閉店後に持ってきた。短いエッセイ、人物のスケッチ、誰かの記憶。読み終えた俺は感想を言わずに、ただもう一杯のコーヒーを淹れた。
彼女は、それで満足そうだった。
書く人は、誰かに読まれることが必要なのではなく、ただそばに〈読む可能性のある人〉がいることが必要なのかもしれない。
ある夕方、店のカウンターで二人だけになった。閉店前の三十分。
「マスター」
「はい」
「私が最初に、お店で〈味が違う〉と言った夜のこと、覚えていますか」
「もちろんです」
「あの夜、私は本当に誰でもよかったんです」
「誰でも」
「ええ。誰かに、何か声をかけたかった。ただ、それだけだった」
「そう」
「でも、マスターは〈ありがとうございます〉とも〈また来てください〉とも言わずに、ただ黙って頷いただけだった」
「すみません、愛想がなくて」
「いいえ。あの黙った頷きが、私には一番欲しかった反応でした」
「そう、ですか」
「説明しないでくれて、ありがとうございました」
その言葉に、しばらく答えられなかった。
代わりに、彼女のカップにお代わりを注いだ。
彼女は、ありがとう、と言わずに両手でそれを受け取った。
言わないということが、二人の間でいちばん丁寧な感謝の言い方になっていた。
夜、店を閉めたあと、ペンを止めて、長い間、新しい手帳の白いページを見ていた。
書こうとして、書かなかった。
書かない、という選択を、もう迷わずにできるようになった。
窓の外で、雪が降り始めていた。
帰り道、白い息を吐きながら、上を見た。雪が街灯の下で、橙色に輝いていた。大陸でも、こういう雪が降っているだろうか、と、ふと思った。リラエはもうちゃんと、外を歩けているだろうか。
その問いを、空に置いた。答えは要らなかった。答えがない、ということを、もう引き受けられる。
そのことが、雪の中で、温かかった。




