第二十二章 三年目の冬
〈Bloom〉が開店して、三年が経つ頃には、店はささやかながら、軌道に乗っていた。平日に十五人、週末に二十五人。
冬が深まった。ある朝、店の鍵を開けると、扉の前に、紙袋が置いてあった。今度は、栗原さんからの手作りの、蜜柑の砂糖漬けが入っていた。メモが添えてあった。〈いつもありがとうございます。栗原〉
彼女は、ほぼ毎日、来てくれていた。いつもの席で本を読みながら、ゆっくり二杯飲んでいく。時々、店がすいている時は、カウンター越しに、本のことや最近見た映画のことを話す。でも、まだ互いを苗字以上では呼ばない。
それが、ちょうどいい、と思っていた。
昼過ぎ、店はいつも通り、忙しかった。近所の医院の看護師が、お昼休みに立ち寄ってラテを二杯買って帰る。駅前の不動産屋の若い社員が、午後の仕事の前にエスプレッソをダブルで引っ掛けていく。常連の老人は、毎週水曜日にハンドドリップでケニアをゆっくり一杯。
誰も、俺の手帳を知らない。でも、皆、毎日来てくれる。
そういう関係が、心地よかった。
春が来た。徳田の温室の若木に、二度目の花が咲いた。
六月、徳田から電話があった。
「高瀬さん、咲きました」
「咲いた」
「コーヒーの花、咲きました」
「行く」
店を開ける前に、徳田の温室に走った。
葉の付け根に、小さな白い花がいくつも咲いていた。
ジャスミンに似た、けれどジャスミンとは違う、覚星石の青が混じったフローラル。
しばらく、その前で立ち尽くしていた。徳田が隣に立った。
「綺麗ですね」
「うん」
「実がなれば、たぶん半年後ぐらい、ですかね」
「そう」
「楽しみです」
「うん」
それしか言えなかった。
花を、長く見ていた。花のどこかに、リラエの面影があった気がした。それは、勝手な感傷だった。でも、感傷を否定する必要は、なかった。
翌日、栗原さんが店に来た時、ふと彼女に訊いた。
「栗原さん」
「はい」
「もし、よかったら、来週の日曜、ご一緒に、知り合いの温室を見に行きませんか」
「温室」
「はい。コーヒーの木の。花が、咲いているんです」
彼女はしばらく目を見開いて、それから笑った。
「ぜひ、お願いします」
初めて、店の外で会う約束をした。
彼女が帰ったあと、しばらくカウンターを磨いていた。手のひらが軽く震えていた。驚くほど、簡単に誘えた自分に、軽く笑った。
あの深夜のカウンターで、誰にも声をかけられなかった、二十八歳の俺は、もういない。
俺は変わった。誰にも見られず、独りで変わってきた。それが、すごく自然なことに思えた。
日曜日、徳田の温室に行った。彼女は白いブラウスに、薄い水色のスカートだった。徳田は嬉しそうに、彼女に温室を案内した。
「あの、これ、世界に一本しかない品種かもしれないんです」
「そうなんですか」
「葉の青、見てください」
彼女はしゃがんで、葉に顔を近づけた。長い間、見ていた。
「綺麗です」
彼女はそれだけ言った。
花の前で、しばらく無言だった。白い花が、温室の湿った光の中で、軽く揺れていた。
彼女がふと口を開いた。
「マスター」
「はい」
「この花、どこから来たんですか」
「内緒、です」
彼女は笑った。
「内緒の答え、教えてくれない、ですか」
「いつか、機会があれば」
「分かりました。気長に待ちます」
「ええ」
ゆっくり温室を出た。帰りの道、駅前で、彼女が立ち止まった。
「マスター」
「はい」
「私、今日、楽しかったです」
「俺もです」
「また、こういう日、ありますか」
「あります」
「ありがとうございます」
彼女は深く一礼して、改札に入っていった。
ホームを見ていた。彼女の電車が出発したあと、別の電車に乗った。
車窓の外で、夏の雲が白く流れていた。その雲を、長い間、見ていた。大陸の空の雲とは、違う形をしていた。でも、同じ風が動かしているはずだった。
目を閉じた。心の中で、誰かに、ただ頷いた。
夏の終わり、二度目の収穫があった。今度は四十二粒。少しだけ、増えた。
そのうち一粒を、また自家焙煎し、ハンドドリップで淹れた。一杯目とは、わずかに香りが違っていた。同じ場所で、同じ手で育っても、年が変われば、味は変わる。
書く動作と同じだった。同じ書き手が、同じペンで、同じ時刻に書いても、その日のページには、その日の指が残る。完全に同じものは、二度と来ない。
その意味では、〈待つ〉ことは、〈受け取る〉ことと、ほぼ同じだった。
ある秋の朝、店の扉の前に、また無記名の紙袋が置いてあった。
今度は、栗原さんのものではなかった。
封を切ると、便箋が一枚。
「高瀬さん」
「一冊、書いた。たぶん、誰も読まないだろう。でも、書き終えた」
「いや、書き終えてはいない。明日も、書く」
「ノートを握る練習は、もうしなくていい。今は、ペン先が紙に当たる音が、好きだ」
「返事は要らない。読んだら、捨ててくれ」
「C」
便箋を、二度読んだ。今度は、新しい手帳の後ろのページには挟まなかった。
代わりに、店のカウンターの、見えるところに貼った。いずれ、客がそれを読むかもしれない。誰のものか、わからない、署名Cの短い手紙。
でも、それでいい。
書く人は、書く人を待っている。誰かのそういう〈書きはじめの夜〉に、自分の店が何かの温度を提供できるなら、それでいい。
夜、店を閉めたあと、いつものように最後のショットを引いた。TDS、一・二九。EY、一八・七。ゴールデンカップ・レンジのど真ん中。
両手で包んで、香りを吸った。
いつかの覚星石のフローラルが、ふと混じった気がした。
いや、混じっていた。もう、気のせいではなかった。
舌の奥に、もう一つの世界の味の記憶がずっと住んでいる。その記憶が、こちらの毎日のショットにほんの〇・一だけ、彩りを添えている。
誰にも説明しない、その〇・一。
でも、毎日客の誰かが、それを無意識に感じ取っているはずだ。〈味が違う〉と、誰かが、いつかまた言ってくれるかもしれない。
その時、また黙って、頷くだろう。




