第二十一章 Cの便箋
ある火曜日の朝、店の鍵を開けると、扉の前に紙袋が置いてあった。
無記名。中に白い封筒が入っていた。
しばらく、それを開けるか迷った。
封を切ると、便箋が一枚。手書きだった。読み進めるうちに、息が止まった。
「高瀬さん」
「先日、駅ですれ違った。話せなかった。情けない」
「一年、地方のホテルで働いた。誰の役にも立たなかった。今は、別のもっと地味な仕事をしている。豆には、もう触っていない」
「ただ最近、ノートを買った。中身は、まだ何もない。何を書くのか、わからない。でも毎晩、ペンを握る練習だけはしている」
「書けるようになるかは、わからない。でもお前のことを思い出した時、あの夜の地下道の話を思い出した時、まず書く前にペンを握ろう、と思った」
「返事は要らない。読んだら、捨ててくれ」
「C」
便箋を長い間、見ていた。
〈C〉のサイン。
城島のCだった。いや、こちらの世界の城島のではない。あちらの世界のジョージアの、ではない。その両方であり両方でない、誰かだった。
便箋を丁寧にたたんだ。封筒に戻した。ゴミ箱には入れなかった。代わりに、新しい手帳の後ろのページに挟んだ。誰にも見せない場所。
返事を書こうか、迷った。彼が要らないと書いた以上、書かない方がたぶん、彼のためだ。書きすぎる、ということをもう知っている。書かない、という誠実さもある。
その日、店を開けた。いつもの客が来た。いつもの順序で抽出をした。いつもの夕方、栗原さんが来て、本を読んだ。でも午前中の便箋の薄い紙の感触が、ずっと残っていた。
書くというのは、何かを達成する行為ではなかった。
ただ、書こうとしてペンを握る。その握る瞬間に、自分の輪郭が戻ってくる。誰のものでもない、自分の輪郭。
彼がそれを知り始めている、ということが不思議と嬉しかった。
ペンを握れる場所まで彼がたどり着けたことを、責めない。誰の人生にも、それぞれの〈書き始めの夜〉がある。
夜、店を閉めて、新しい手帳のその日のページに書いた。
〈一通、届いた〉
書いて、消さなかった。残しておいた。
数週間後、店に取材の申し込みがあった。〈月刊コーヒー〉の編集者、菊池と名乗る男からだった。
以前は、こういう取材を何度か断ってきた。俺の店は、有名になることを目指していない。でも、彼の声に嘘がなかった。
来てもらった日、彼は二十代前半、襟付きシャツにジャケット姿だった。鞄を肩から下げていた。
「マスター、抽出ログをずっとつけていらっしゃるそうですね」
「はい」
「五年と二か月、毎日と」
「正確にはもう六年と九か月です」
彼はメモを取り直した。
「業界の方が皆さん、〈高瀬さんは、何かが違う〉とおっしゃるんです。それは技術の話だけではない、と」
「技術以外に、何かあるんですかね」
「あります、と皆さん、おっしゃる」
「私には、わかりません。私は、ただ毎日、書いて、淹れているだけで」
「それが答え、なのかもしれません」
彼は笑った。
しばらく、業界の話、豆の話、最近のロースタリーの話をした。話している間、ふと彼が聞いた。
「高瀬さん、抽出、ということを、ご自身では、どう、定義されていますか」
その質問に、長い間、答えなかった。
答えが出ない、わけではない。答えが複数出てきて、どれを言うか、迷った。
最終的に、こう答えた。
「〈待つ〉ことです」
「待つ」
「正しい時間と、正しい温度と、正しい比率を、待つ。焦って引っ張りすぎれば、過抽出。臆して足りなければ、未抽出。〈待つ〉という時間の中に、答えがあります」
「素敵な定義ですね」
「いえ、偉そうに言いましたけど、実際、毎日迷っています」
彼は笑った。
「マスター」
「はい」
「あなたのお店、長く続きそうですね」
「ありがとうございます」
「私、また来てもいいですか。客として」
「お待ちしています」
彼は深く頭を下げ、出ていった。
夜、店を閉めたあと、新しい手帳のその日のページに、その日の数字を書いた。書きながら、ふとペンを止めた。
〈待つ〉という言葉は、たぶんコーヒーだけの話ではない。
俺は、五年と二か月、誰にも見せない手帳を待っていた。誰かが見つけてくれる、いつかを。
でも、見つけてくれた最初の人は、燃やした。その絶望のその先で、自分自身を見つけた。
〈待つ〉ことの本当の答えは、誰かを待つことではなくて、自分の中の何かが息を吐くのを待つことだった。
ブルーミング。蒸らしの三十秒。あの時間が、人生にもある。
そう書いて、すぐに消した。書きすぎたのが、わかった。でも、消しても、心の中には残った。
外で、雪が降り始めていた。今年の最初の雪、だった。
ある夕方、栗原さんがカウンターに座って、いつものゲイシャを飲み終えてから、ふとこう言った。
「マスター、私、最近、文章を書き始めました」
「文章」
「はい。短いものを、誰にも見せずに。日記でも、エッセイでもない、何か」
「それは」
「こちらの店に来始めて、わかったんです。私、本を読むだけでは、足りないんです。読んだものを、自分の手で書き直さないと」
「いいことだ、と思います」
「書いて、見せたい、ですか」
「いいえ。今のところは、書くだけで、いい」
「ええ」
「ありがとうございます」
「いや、何もお礼を言われるようなことは」
「マスターのお店に来始めて、私は、書くということに、勇気を貰いました」
しばらく、何も答えなかった。
代わりに、彼女のカップにお代わりを注いだ。彼女はありがとう、と小さく言って、それを受け取った。
夜、店を閉めたあと、自分の手帳のその日のページに、彼女の言葉を書こうとして、やめた。
代わりに、ただ〈書く人、また一人〉と書いた。
短い、一行。でも、その一行が、特別に明るかった。
〈月刊コーヒー〉に菊池が書いた記事が、四月に載った。
四ページの、短い特集記事だった。〈待つ、というレシピ──〈Bloom〉、高瀬樹の抽出哲学〉
その雑誌を、店のカウンターに、一冊だけ置いた。お客がたまにそれを読む。でも、俺の店の客は、雑誌の影響では増えなかった。ありがたいことに、ほとんどが口コミで来てくれる、近所の人たちだった。
雑誌が出てから、しばらくして、菊池がまた来てくれた。今度は、客として。
「マスター、反響、どうですか」
「変わらず、です」
「それが、いいんですよね、たぶん」
「ありがとう、菊池さん」
「いえ、こちらこそ」
彼はエスプレッソを二杯飲んで帰った。帰り際、ふとこう言った。
「マスター、最近、わかったことがあります」
「はい」
「〈書く人〉と、〈淹れる人〉と、〈読む人〉は、全部、同じ仕事をやっている」
「同じ、ですか」
「ええ。誰も見ていない、誰にも頼まれていない、自分の手の中の何かに、ただ丁寧に向き合っている」
「そうかもしれませんね」
「私も、書くのは、その仕事のひとつなのかな、と思って」
「はい」
「それで十分、誇れる仕事だ、と」
頷いた。彼は深く頭を下げて、出ていった。




