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バリスタが異世界転生したら、異世界で『抽出魔術』の真理に辿り着き、世界を救った話  作者: もしものべりすと


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第二十章 収穫

翌朝、店に来て、いつものように白い鉢を湿らせた。


 ふと、土の表面に、緑色の小さな芽の先が出ていた。


 しばらく、信じられずに見ていた。手のひらで、土を優しく撫でた。


 芽は、確かに出ていた。


 店を開ける前に、しばらくその鉢の前で立ち尽くした。誰にも見られていない朝の、数分間。声を出さずに、笑った。


 梅雨の終わりかけ、店の扉に、見覚えのある男が現れた。


 元の店の若い後輩。徳田。俺が辞めた時、最後に「お疲れ様でした」と頭を下げてくれた、あの彼だ。


「高瀬さん、ご無沙汰してます」


「徳田くん。久しぶり」


 彼は店内を見渡し、軽く口笛を吹いた。


「いいですね、ここ。狭いけど、空気が違う」


「ありがとう」


「コーヒー、いただいていいですか」


 ハウスブレンドを淹れた。彼は味見すると、黙って頭を下げた。


「美味い、です」


「うん」


「変わってない、ですね、高瀬さんの味」


「ありがとう」


 徳田はしばらく、カップを両手で包んでいた。それから、ぽつりと言った。


「城島さん、知ってます?」


「知らない」


「あの後、業界、どこも雇わなくて、結局、地方の観光地のホテルのバイキングで、コーヒーを淹れる仕事に就いたらしいです」


「そう」


「で、最初の三ヶ月で、また揉めたみたいで」


「揉めた」


「そこの先輩バリスタと。〈俺の方が技術がある〉って、また突っかかって、結局、辞めさせられて」


「そう」


「で、その先輩が知り合いに愚痴ったら、その知り合いがたまたま業界の人で、〈ああ、あの城島か〉って話が広がって。今、城島さん、業界では、もう相手にしてもらえない、らしいです」


 頷いた。別に、嬉しくはなかった。


 ただ、ああ、彼は変わらなかったんだな、と思った。


 いや、違う。元の城島が変わらなかった、ということは、たぶん向こうの世界で地面に額をつけた彼は、こちらの世界には戻ってきていない、ということだ。


 それは、それでいい、と思った。


「で、最近、あの人、SNSで〈高瀬は俺の数字を盗んだ〉って、新しいアカウントで書き始めて」


「ああ」


「でも、誰も信じてないですよ。データの矛盾を、業界の人がすぐ指摘して」


「そう」


「俺、その指摘の中にいたんで、ご報告を」


「徳田くん」


「はい」


「ありがとう。でも、もう俺は追わないから」


「はい、わかってます。だから、俺たちが追います」


 彼はにっと笑った。


「あの人、もう店、出せないでしょうね」


 答えなかった。


 ただ、彼のカップにお代わりを注いだ。徳田はそれを嬉しそうに受け取った。


「高瀬さん」


「ん」


「俺、いつか自分の店、出したいんです」


「うん」


「その時、参考にしたい、って言ったら、笑います?」


「笑わない」


「数字、教えてくれますか」


「自分で書いて。教えても、それは君の数字にはならない」


「厳しい」


「でも、本当」


「ですよね」


 彼は頷いた。俺は店の鉢を彼に見せた。あの緑の小さな芽が、もう葉を二枚出していた。


「これ、コーヒーの木、ですか」


「たぶん」


「育ちますかね」


「育つ、と思う」


「育てるの、難しいですよ。日本の気候だと」


「うん」


「うちの店、温室、あるんで、もし、移したくなったら、預けてください」


 笑って頷いた。


 徳田は店を出る時、ふと振り返った。


「高瀬さん、五年分の手帳、本当に燃えなかった、んですね」


 しばらく考えて、頷いた。


「燃えなかった」


「はい。じゃ、また」


 彼は出ていった。扉の閉まる音を聞きながら、ふと笑った。


 徳田は俺の手帳が文字通り燃えた、ということを知らない。でも、彼がそう言った時、〈はい〉と答えられた。燃えなかった、と答えられた。


 夜、店を閉めて、新しい手帳に、その日の数字を書いた。書きながら、ふとペンを止めた。


 あの夜、城島の松明が俺の手帳を燃やした、その瞬間。確かに絶望した。でも、絶望した、その先で、自分の指の中に、五年分が残っていることに気づいた。


 あれがなかったら、たぶん〈Bloom〉を開いていない。


 燃やしたのは彼だった。でも、燃やされて、初めて、〈書くこと〉の本当の意味を知った。


 城島に感謝はしない。でも、恨みもしない。彼は彼の人生を生きていく。俺は俺の人生を生きていく。


 それでいい。


 ペンを置いた。窓の外で、夏の虫が鳴き始めていた。季節がまた動いていた。


 秋が来た。徳田の温室の苗は、半年で俺の腰の高さまで育っていた。葉は艶やかな緑で、光に透かすと、葉脈の中に、わずかな青味が混じっていた。


 徳田はそれを不思議そうに見ていた。


「この苗、葉の青、なんだろうな」


「品種の特性、じゃないかな」


「いや、葉緑素の構造が、ちょっと違うんですよ。電子顕微鏡まで出してないけど、肉眼でわかるくらいの差で」


「そう」


「これ、もしかしたら、世界初の品種、かもしれません」


「そう、かもね」


 それ以上、説明しなかった。徳田もそれ以上、聞かなかった。彼は、説明できないことを説明できないまま受け入れる人だった。


 冬を越え、二年目の春、温室の若木に、白い小さな花が咲いた。ジャスミンに似た香り、けれどジャスミンとは違う、覚星石の青味の混じったフローラル。


 夏に緑の実がつき、秋に赤くなり、三月の末、収穫した。


 三十六粒。


 俺は徳田に、ほとんどを預けた。


「全部、きみが引き受けて。ひとつだけ、僕に頂戴」


「ひとつ」


「うん。たぶん、一杯淹れる量、ぐらいでいい」


「いいんですか」


「うん。きみが、これから五年、十年育ててくれる方が、価値がある」


 彼はしばらく俯いて、頷いた。


「五年、十年、育ててみます」


「うん」


「いつか、品種登録、されるかもしれませんね」


「されたら、徳田くんの名前で登録しなさい」


「いえ、それは」


「いいから」


 帰り道、駅のホームで、電車を待っていた。


 向かいのホームに、コートの襟を立てた中年の男が立っていた。痩せていた。以前のような派手なジャケットは着ていなかった。黒っぽい、地味なコートだった。


 城島だった。


 目が合った。彼は何も言わなかった。ただ、頷くような、しないような、曖昧な動作をした。


 俺も、頷くような、しないような、動作を返した。


 電車がホームに入った。彼はそれに乗った。


 扉が閉まる前、彼が車内からこちらを見た。その目は、もう攻撃的な城島の目ではなかった。遠くを見るような、疲れた目だった。


 それで、何かを確認した。彼は彼で、別の場所で、別の毎日を生きている。それでいい。俺の側で、もう彼の影は動かない。


 電車がホームを離れた。


 向きを変えて、改札に向かった。


 帰り、店の自家焙煎の小さなロースターで、徳田から預かった一粒のうち、一粒を、ゆっくり焙煎した。火加減を慎重に。ハゼの音を聞きながら、ストップのタイミングを計った。ミディアムの、シティに近いところで止めた。


 冷ました豆をグラインダーにかけた。粒度、中細。ハンドドリッパーに敷いた。湯温、九十二度。比率、一対十六。


 最初の三十グラムを注いだ。


 粉が、息を吐くように膨らんだ。


 ブルーミング。三十秒。


 その三十秒を見つめていた。


 香りが立ち上った。覚星石のフローラル。胸の奥が、ぐっと熱くなった。


 残りの湯を二回に分けて落とした。最後の一滴。二百四十グラム。琥珀色の液体。


 その液体のふちに、ほんのりと、淡い青の輝きが走った。すぐに消えた。でも、確かに走った。


 両手で包み、香りを深く吸った。


 長く目を閉じた。目を開けた時、自分が笑っているのに気づいた。誰にも見せない笑い。


 ゆっくり口に含んだ。


 舌の上に、覚星石の味が戻ってきた。あの、麓の祭壇で、最後の一杯を皆で分け合った時の味と、ほぼ同じだった。


 ほぼ同じ、というのが、いい、と思った。完全に同じではない。こちらの世界で、こちらの土壌で、徳田の手で育った、新しい味。


 空のカップを、しばらく両手で包んでいた。外で、春の鳥が鳴いていた。


 新しい手帳に、その日のページに、書いた。


 〈三十六粒、収穫。一粒、抽出。味、覚星石〉


 短い、二行。でも、その二行の奥に、五年の独りの夜と、向こうの世界のすべてと、徳田の二年の手と、栗原さんの本の時間と、リラエの十一年の地下が、全部、束になっている気がした。


 書きすぎでは、なかった。書かないより、ずっとちょうど、よかった。

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