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バリスタが異世界転生したら、異世界で『抽出魔術』の真理に辿り着き、世界を救った話  作者: もしものべりすと


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第十九章 もう一人の記録者

〈Bloom〉は、相変わらず、立ち飲み四席のままだった。


 平日に十五人ほど、週末に二十五人ほど。決して繁盛しているとは言えない。でも、家賃と光熱費と豆代を払って、自分の生活が回るくらいにはなった。


 ある雨の日、午後、若い女性がカウンターに入ってきた。二十代後半、痩せた、髪の長い人だった。黒い傘をたたみながら、店内を見渡した。


「ホットで、何かおすすめを」


「お豆を選びましょうか」


 ショーケースの三種類を見せた。彼女はしばらく迷ってから、エチオピアのナチュラルを指した。


 ハンドドリップを用意した。彼女はカウンター越しに、俺の手元を見ていた。粒度を測り、湯温を確認し、湯を細く落とす――その一連の動作を、彼女は長い間、見ていた。目の動きが、不思議と見覚えのあるリズムだった。


 最後の一滴が落ちた。カップを出した。彼女は口に含んだ。しばらく目を閉じていた。


「美味しい」


「ありがとうございます」


「あの、失礼ですけれど」


「はい」


「マスター、抽出ログをつけていらっしゃいますか」


 驚いて、彼女を見た。彼女は軽く笑った。


「私、別の街で、小さなロースターをしています。同業者なんです。手の動きでわかりました」


「そうでしたか」


「私もつけています。十年、毎日」


「十年」


「ええ。誰にも見せません」


 目を合わせて、しばらく笑った。言葉が要らなかった。


 彼女はもう一杯、注文した。


「実は、私、知りたかったんです」


「はい」


「同じように、誰にも見られない数字を書いている人が、本当にいるのかどうか」


「いますよ」


「ええ、いるんですね」


 彼女は嬉しそうに頷いた。


「私、安心しました。もう、長くやっていく気がしなかったんです。誰にも必要とされない仕事を、続ける意味がわからなくなって」


「俺もよく思いますよ」


「マスターでも」


「ええ、毎日思います」


「でも、続けてるんですね」


「続けている、というか、書く動作を止めると、自分が、自分でいられなくなるので」


 彼女は目を伏せた。頬を何かが伝うのを、見ないふりをした。


 彼女が店を出る時、ふとショーケースの脇の白い鉢を見た。


「これ、何の豆ですか」


「種類がわからないんです。特殊な来歴の」


「芽、出るといいですね」


「出ない、と思ってます」


「でも、毎日湿らせていらっしゃるんですよね」


「はい」


「なら、出ます」


 彼女は断定するように、そう言って、傘を開いて出ていった。


 しばらく、その鉢を見ていた。雨が、店の窓ガラスに細い線を引いていた。


 別の月曜日の朝、店に、初老の女性が入ってきた。白いブラウス、紺のスカート。手に小さな革の鞄を提げていた。


 カウンターに座って、メニューをしばらく見ていた。


「マスター、決められないので、あなたが選んでください」


「はい」


「酸味は苦手です。でも、深煎りの苦さも苦手です」


「では、中浅煎りのコロンビア、いかがですか」


「お願いします」


 ハンドドリップで淹れた。九十度。中細。一対十六。


 彼女は湯気をしばらく吸ってから、口に含んだ。目を閉じてゆっくり味わった。


「美味しいですね」


「ありがとうございます」


「マスター、お豆を二百グラム、お土産にいただけますか」


「もちろんです」


 ショーケースから、コロンビアの豆を計った。彼女は両手で受け取り、鞄にしまった。


 扉の方へ歩きながら、ふと立ち止まった。


「マスター」


「はい」


「私、母がずっと、コーヒー屋をやっていたんです」


「そうですか」


「もう、五十年も前の話です。母は、私が小学生の頃に亡くなって。店もその時に閉めました」


「はい」


「母の遺品の中に、A5の、黒い革表紙の手帳がありました。中にぎっしり数字が書いてあって。でも、母も私も、それが何なのかよくわからないままで」


 息を、止めた。


 彼女は続けた。


「最近、母の手帳をもう一度開いてみたんです。何故か、開きたくなって。読み始めて、初めて、母が毎日、何を考えていたか、わかりました」


「お母様も」


「ええ。一日も、空白がありませんでした。湿度、気温、豆の鮮度、客の感想、自分の体調まで」


 彼女は目を伏せた。


「母は、私には、〈お前は外で好きに生きなさい〉と、よく言っていました。家業を継がなくていい、と」


「はい」


「でも、母の手帳を読んだら、わかりました。母は毎日、独りで書いていた。誰にも読まれずに。私に家業を継がせなかったのは、母自身が〈書くこと〉の寂しさを、私に味わわせたくなかったから、だと思います」


「はい」


「マスターのお店に入って、カウンターの動きを見て、母を思い出しました」


 俺は何も言えなかった。


 彼女は笑った。


「ごめんなさい、長く話してしまいました」


「いえ」


「お豆、嬉しいです。家で、母の手帳をもう一度読みながら、淹れます」


「はい」


「マスター、お母様の代わりに、ありがとう、と言わせてください」


 彼女は深く一礼して、出ていった。


 しばらく、カウンターの後ろで動けなかった。手のひらが熱かった。目の縁が滲んだ。


 〈書く人〉は、必ず、別の〈書く人〉に出会う。時を超えても、空間を超えても。


 五十年前に独りで書いていた誰かの母親に、心の中で頭を下げた。


 あなたの数字は、読まれずに消えなかった。時間を超えて、ちゃんと、ここに届いた。


 その夜、新しい手帳のその日のページに、初めて、数字以外のことを書いた。


 〈五十年前の同志に、出会えた〉


 書いて、消さなかった。残しておいた。

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