第十八章 〈Bloom〉
退院から三月後、自分の小さな店を開いた。
駅から徒歩で十分、住宅街の片隅。元々は小さな花屋だった物件を改装した。間口三メートル、奥行き五メートル。客席は、立ち飲みのカウンターに四席。それだけ。
看板には、〈Bloom〉と書いた。ブルーミングのブルーム。覚星石を知らない人にとっては、ただの英単語に見える。俺だけが知っている、別の意味がある。
開店の準備に、貯金をほとんど注ぎ込んだ。
マシンは中古の、信頼できる縦型シングルグループ。グラインダーは奮発して新品の業務用。あとはメーカーから直接買った、覚星石でも蒸らしの効く特性をもったコーヒー豆を何種類か。ハンドドリッパーも、ペーパーも、温度計も、スケールも、すべて自分で選んだ。
最後に、新品のA5サイズの黒い革表紙の手帳を買った。最初のページに、何も書かなかった。ただ、表紙の内側に、燃え残ったあの古い手帳の革の断片を、テープで貼った。誰にも見えない、内側。そこにだけ、俺の五年と二か月分の過去が残った。
開店初日。最初の客は、近所の中年男性だった。ふらっと入ってきて、「エスプレッソ、ある?」と訊いた。
「ダブル、お願いします」
「はい」
グラインダーを回した。ダイヤルインは、開店前に済ませてあった。TDS、一・三〇。EY、二〇・一。ゴールデンカップ・レンジのど真ん中。
二十六秒で、ダブルショットが落ちた。琥珀色の液体に、ヘーゼル色のクレマが二ミリ。
客は、香りを嗅いで、それから口に含んだ。しばらく目を閉じた。
「うまい」
彼はそれだけ言った。
「ありがとうございます」
「これ、いくら」
「四百円です」
「安すぎないか」
「これくらいで、続けたいので」
彼は笑って、もう一杯注文した。
二杯目、三杯目と、来てくれる人がぽつぽつ増えてきた。
夕方、栗原さんが来た。白いシャツにジーンズ。本を一冊、抱えていた。彼女はカウンターに座り、ゆっくり店の中を見渡した。
「いいお店ですね」
「ありがとうございます」
「いつもの、お願いします」
「ゲイシャ、ですね」
「覚えていてくれたんですね」
「もちろんです」
湯を九十一度に整え、ハンドドリップを淹れた。粒度を半クリック細目に。彼女のための、いつもの抽出。
最後の一滴が落ちる、その三十秒、店の中は静かだった。他の客が一人、本を読んでいた。外を自転車が通った。ベルが軽く鳴った。
カップを彼女に出した。彼女は両手で受け取った。香りを長く嗅いだ。それから口に含んだ。目を閉じて、しばらく動かなかった。目を開いた時、頬を何かがゆっくり伝った。
「すみません」
「いえ」
「美味しすぎて、なんだかふと泣きそうになってしまって」
俺は何も言わなかった。
ただ、彼女の隣のカウンターに、もう一杯、自分のためのコーヒーを淹れた。二人、並んで、同じ味を飲んだ。
「高瀬さん」
「はい」
「私、ずっと独りで、本を読んでばかりだったんです。誰にも、自分のことを話さない人生で。でも、あなたのお店に来ると、何か、自分の存在を確かめてもらえる気がして」
頷いた。
「俺も、そうでした」
「あなたも」
「ずっと、深夜のカウンターで、誰にも見せない手帳に、数字を書いていました。誰のためにでも、なくて」
「読んでもらいたかった、ですか」
「最初は、たぶんそうでした。でも、ある夜、誰のためでもない場所で淹れて、わかりました。書くこと自体が、もう答えだった、と」
彼女はしばらく考え、頷いた。
「私の、本を読む時間も、たぶんそれです」
「ええ」
それきり、言葉を交わさなかった。でも、沈黙が苦しくなかった。
夜、店を閉めて、カウンターを磨いた。最後のショットを、自分のために引いた。いつものようにTDSを測り、いつものように手帳に書いた。
今度は、初めて、〈自分のため〉と、ページの上に小さく書き加えた。誰にも見せない、その一行。書いて、消した。書いて、また消した。最後は、書かないままにしておいた。
窓の外で、月が澄んでいた。大陸の夜空とは違う月だった。でも、同じ月だった。
帰り道、駅前のコンビニの脇で、ふと誰かとすれ違った。
くたびれたジャケットの、痩せた男。顔は暗くてよく見えなかった。でも、その肩のラインに、見覚えがあった。
振り返らずに歩いた。
彼がもう一度、自分の人生で変数を書き始めているなら、それで十分だった。俺の知らない場所で。俺の見ていない場所で。




