第十七章 帰還
白い天井を見ていた。石ではなく、現代の塗装された天井だ。
左手の甲に、点滴の針が刺さっていた。右の頬と首筋に、薄い包帯が巻かれていた。
病院の、個室。窓の外は、晴れていた。
長い間、それを見ていた。
夢ではない。夢ではないことが、自分の身体の痛みでわかった。頬に軽い火傷の、ひりひりが残っている。ただ、それだけだ。
扉がノックされ、看護師が入ってきた。
「高瀬さん、お目覚めですか」
「はい」
「もう、大丈夫そうですね。三日、眠ってましたよ」
「三日」
「あの、お店の、ボイラー事故で。よく、命が助かりました」
頷き、ベッドの脇のテーブルを見た。そこに、俺の上着が畳んで置かれていた。
看護師が出ていったあと、上着の内ポケットに手を入れた。指先が何かに触れた。
一粒の生豆だった。艶やかな、緑がかった、健康なアラビカ種。でも品種がわからない。俺の知っているどのカタログにも載っていない種類だった。
もう一つ、上着の内ポケットの奥に、何かが入っていた。
黒い、焦げた、革の断片。
俺の手帳の表紙の、一部。燃え残った、それ。
出さなかった。ただ、ポケットの中で、強く握った。
熱いものが、目の縁を伝った。
まあ、いい。誰も見ていない。
午後、店のオーナーが見舞いに来た。
彼は椅子に座る前から、深く頭を下げていた。
「高瀬くん。本当にすまなかった」
「いえ、大丈夫です。火傷も、軽くて済みました」
「警察が調べてくれた。あのガスケットの劣化、君が何度も書面で警告していたのが、わかった」
「はい」
「城島は、君の警告を握り潰していた。それだけじゃない。彼が、君の調合した〈ハウスブレンド〉を自分の手柄にしていたことも、別の常連の方がSNSで、君の手帳の写しの一部を見つけて、教えてくれた」
「写し」
「君、いつだったか、僕に、ロールバック用の予備のページを渡してくれただろう。あの中に、ブレンドの試行錯誤がぜんぶ、記録されていた」
思い出した。半年前、店のシステムがダウンした時、念のため、と思って、オーナーにコピーを預けていた。オーナーはそれを、読まずに引き出しにしまっていたはずだ。
「読んでくださったんですか」
「うん。事故のあと、慌てて開けた。読んで、僕は、しばらく動けなかったよ」
彼は目を赤くしていた。
「君が何年、誰にも見られない夜中に、あの数字を書き続けていたか。僕はそれを知らずに、城島の動画ばかり見ていた。本当にすまない」
「いえ」
「城島は、退社させた。SNSで彼を擁護する声も、最初はあったけど、君のロールバックの内容が、業界の何人かに回ったらしい。今は、ほとんど、彼の擁護はなくなった」
「擁護をなくすつもりは、なかったです」
「わかってる。君は、そういう人だ」
オーナーはふと、何かを思い出した顔をした。
「店、戻ってくれる、よな」
しばらく考えた。考えるふりをした。もう、答えは決まっていた。
「すみません。辞めさせてください」
オーナーが小さく息を吐いた。怒ってはいなかった。長い間、見てきた何かが終わるのを知った人の、息だった。
「やっぱり、か」
「はい」
「自分の店、出すんだろう」
「狭い、立ち飲みのスタンドで、いいです」
「うちで続けてくれたら、と思ったけど、無理だな」
「ありがとうございます」
「いや、僕は、君にありがとう、と言わなきゃならない側だ」
彼は立ち上がった。ドアの前で振り返り、もう一度頭を下げた。
「高瀬くん、君のコーヒー、僕は大好きだったよ」
頷いた。涙が、こぼれそうになるのを堪えた。
彼が出ていったあと、ベッドに深くもたれた。窓の外で、雲が白く流れていた。
大陸の空とは違う、白さだった。でも、同じ風がその雲を動かしているはずだった。
ポケットの生豆を、もう一度出して見た。光に透かすと、緑色の中に、わずかに、覚星石の青い光が混じっているような気がした。気のせいだ、と思った。でも、消えなかった。
退院は、二日後だった。
その間、栗原さん――あの常連の女性客――が見舞いに来てくれた。彼女は、俺の知らない人なのに、見舞いに来てくれた。オーナーから聞いたらしかった。
「高瀬さん、無事で良かったです」
「すみません、ご心配を」
「いえ。あの、お店、辞められると、聞きました」
「はい」
「私、寂しいです」
彼女ははっきりと、そう言った。社交辞令ではない響き方だった。
「自分の店、出します。狭いですけど」
「場所、教えていただけますか」
「まだ決まってません。決まったら、ご連絡を」
「お願いします」
彼女は俺の連絡先を、メモに書いて、丁寧に財布にしまった。
別れ際、彼女はふと立ち止まった。
「高瀬さん」
「はい」
「あの夜、私が言った〈味が違う〉って、覚えてますか」
「覚えてます」
「あれ、お世辞じゃないんです。本当に違うんです」
「ありがとうございます」
「いえ。今度のお店で、またお会いできるの、楽しみにしてます」
彼女は笑って出ていった。
その夜、初めて、ベッドの上で声を立てて笑った。看護師が覗きに来て、不思議そうに笑い返した。
夜、消灯のあと、暗い天井を見つめていた。目を閉じると、リラエの最後の声が、耳の奥に残っていた。
ありがとう。
心の中で、答えた。
こちらこそ、と。




