第十六章 別れ
大陸の混乱は、その後、ゆっくり収まっていった。
各地の村で、瘴の斑点が薄れていった。子供たちが、外で走り始めた。王都の中央広間でも、ジョージア卿の最終抽出が〈失敗〉として、公的に記録された。代わりに、〈異邦の抽出師〉が最終的な希釈を成功させた、という報せが各地に回された。
俺は王都に戻らなかった。戻る必要を感じなかった。
麓の祭壇のそばに、しばらく留まっていた。仲間たちが、各地から戻ってきた家族と再会した。涙の場面を何度も見た。俺はその輪の少し外で、見ていた。
ある朝、俺の指先が、薄く光り始めた。
最初は、気のせいかと思った。半日経って、光ははっきり強くなった。
バルデスがそれに気づき、しばらく黙って俺を見ていた。
「樹」
「わかってます」
「帰る、時か」
「はい。たぶん、もうすぐ」
彼はゆっくり頷いた。
「お前のような者を、私は長く待っていた」
「俺は、ただ書いていただけです」
「それでいい」
彼は俺の肩に手を置いた。骨ばった、しかし温かい手だった。
「ありがとう、樹」
答えなかった。代わりに、彼の手の上に、自分の手を置いた。しばらく、そうしていた。
午後、城島に最後の挨拶をした。
彼はまだ、火傷の跡が頬と腕に残っていた。ローブを脱いで、ただの麻のシャツを着ていた。それが不思議と、彼に似合っていた。
「樹くん」
「閣下」
「やめろよ、それ。城島で、いい」
「はい」
彼は軽く笑った。
「お前、帰るんだろう」
「はい」
「向こうの世界で、また会うかもな」
「会わないと、思います」
「即答かよ」
「あなたが、こちらで生きていく方が、いいです」
彼はしばらく考えてから、頷いた。
「ま、そっか。お前のいない世界で、変数を書いていくのも、悪くない」
「はい」
「樹」
「はい」
「お前の手帳、燃やして悪かった」
「いいんです。中身は、燃えませんでした」
彼は目を閉じた。しばらくして、俺に何かを差し出した。黒い革の表紙の、燃え残った断片だった。俺の手帳の表紙の、一部。縫い目の糸が焦げて、それでも原型を留めていた。
「拾っといた」
「ありがとうございます」
「向こうに、持って帰れ」
両手で受け取り、上着の内ポケットにしまった。
夕方、リラエと、麓の高台に登った。そこから大陸の広い平原が見渡せた。風が軽かった。彼女の頬の斑点は、もうほとんど見えなかった。ただ、彼女の身体は、まだ十分には力を取り戻していなかった。ゆっくり歩く必要があった。
岩に、並んで腰掛けた。
「樹さん」
「はい」
「私、起きたら、寂しい、ですよね」
「リラエ」
「ううん、いいんです。寂しい、というのは、贅沢な感情です。十一年、地下にいた頃は、寂しい、と感じることすら、できなかった」
彼女は軽く笑った。
「樹さんが来てくれて、私は、寂しい、を覚えました」
しばらく、言葉が出なかった。
代わりに、両手でぬるい湯を沸かして、いつものハンドドリップを淹れた。
彼女のための、最後の一杯。九十二度。中細。一対十六。
最後の一滴が落ちる、その二十六秒の間、何も話さなかった。風だけが、髪を撫でた。
カップを差し出した。彼女は両手で受け取り、飲む前に香りを長く嗅いだ。そしてゆっくり、口に含んだ。目を閉じた。頬を、涙が伝った。
「樹さん」
「はい」
「あなたは、私の中で、一番、静かな場所になりました」
答えなかった。
代わりに、自分のカップにも湯を注いで、彼女と同じ味を含んだ。甘さと苦さが、舌の上で釣り合った。完璧ではない。でも、必要な、いつもの味だった。
夜、俺の指先の光は、ますます強くなった。もう、一晩はもたない、とわかった。
彼女の手を握った。彼女も握り返した。
何も約束しなかった。約束しないことが、彼女に対する最大の誠実さだ、と思った。
光が、俺の身体を包んだ。
最後に、彼女が小さく言った。
「ありがとう」
その声を、長く覚えていることになる。




