第十五章 最後のダイヤルイン
深く息を吸った。大陸全体に向かって、両腕を広げた。
覚星石の結晶が、共鳴を始めた。
「全脈、停止。流れを、一度、止める」
仲間たちが一斉に、魔導具をゼロに合わせた。
大陸の鼓動が、止まった。
ほんの一瞬、空気がすべて固まったように感じた。風が止んだ。雲が動かなくなった。
頂上のジョージアの方角から、悲鳴のような声が聞こえた。
「貴様、何をッ」
応えなかった。心の中で、三十秒を数え始めた。
一秒。二秒。三秒。
ブルーミング。
大陸という巨大な粉が、いま、息を吐いている。三百年の過抽出で溜まった毒のガスが、地脈の表面から、ゆっくり抜けていくのが感じられた。
空に、一筋、淡い灰色の煙が立ち上った。大陸の最初の、毒の息。
十秒。二十秒。三十秒。
目を開けた。
「再開」
各拠点が再起動した。今度は、すべての変数が〈正しい〉値に揃っていた。
圧、九・〇バール相当。温度、九十二度相当。時間、二十六秒。比率、一対十六。粒度、中細。覚星石の純度、青の中段階。
俺の手帳の、ど真ん中の値だ。
大陸の鼓動が、今度こそ〈正しい〉リズムに整い始めた。
各地で、瘴の黒い斑点が、ゆっくり薄れ始めた。空気の苦味が消えた。代わりに、フレッシュなフルーティーな香りが立ち上ってきた。
覚星石の本来の香り。誰も、もう三百年、嗅いでいなかった、本当の香り。
その時、頂上から何かが転がり落ちてきた。
ジョージアだった。ローブが半分、焦げていた。彼は自分の最大圧の魔法陣に巻き込まれて、火傷を負っていた。
俺の前に、よろめき、地に手をついた。
「樹くん、お前」
「閣下」
「お前のは、間違って、ない、のか」
彼の前に、しゃがんだ。手を伸ばし、彼の右手から計測器をそっと取り上げた。
針が揺れていた。
彼の最大圧抽出の、最終値。TDS、一・六一。EY、二六・三。完璧な、過抽出。
針を彼に見せた。
「過抽出、です」
彼はしばらく、針を見ていた。それから、声を出さずに息を吐いた。肩が震えていた。
彼の隣に、もう少し、しゃがんだ。
「閣下」
「やめろ。閣下は」
「城島さん」
初めて、その名前を呼んだ。
彼の頭が、ぐらりと揺れた。目の縁に何かが滲んでいた。
「樹」
「はい」
「俺は、ずっとお前の真似をしてきた。お前の数字を見ていた。コピーするのが精一杯だった。でも、誰にもそれを知られたくなかった」
「知っていますよ」
「知って、いた、のか」
「いえ、今、わかりました」
彼は地面に額をつけた。大魔導師のローブが、泥に汚れた。彼が、生まれて初めて、誰かの前で、頭を地につけたのかもしれなかった。
「止め方を、教えてくれ」
「もう、止まりました」
「いや、俺の中の、これだ」
彼は、自分の胸を軽く叩いた。
「俺の中で、ずっとお前を否定したくて、否定したくて、仕方なかった。でも、否定すれば、するほど、俺はお前から目を離せなかった」
何を答えていいか、わからなかった。
ただ、彼の肩に手を置いた。
「城島さん、止まらなくていいです。ただ、変数を書いてみてください。一日、ひとつでいい」
「変数」
「数字でも、味でも。何でもいい。書くと、自分が、どこにいるか、わかります」
彼は長い間、地面を見ていた。それから頷いた。
「やってみる」
立ち上がった。大陸の風が、軽く頬を撫でた。その風には、もう苦味がなかった。代わりに、覚星石の本来のフローラルが混じっていた。
目を閉じて、深く吸った。
仲間たちが、一人ずつ、そばに戻ってきた。彼らも目を閉じて、その香りを吸っていた。
誰も、何も言わなかった。
ただ、皆の頬を、涙が、ゆっくり伝った。
遠くで、村人たちが家から出てきた。空を見上げていた。彼らの頬の黒い斑点が、薄い灰色に変わっていた。
いつかの、村の少女と同じ色だった。
大陸が、息を取り戻した。




