第9章:風呼びの山、再会の誓い
風呼びの山は、近づけば近づくほど、その異様さを増していった。
麓に辿り着いた時、あたしは思わず足を止め、その威容に圧倒されていた。
まるで、天に向かって牙を剥く、巨大な黒い獣だ。
鋭く尖った峰々は、不規則に、しかし威圧的に連なり、空を切り裂いている。
山肌は、磨かれた黒曜石のように滑らかで、太陽の光を鈍く反射し、不気味な輝きを放っていた。
命の気配が、全く感じられない。
草木一本生えていない、完全な死の世界。
そして、風。 この山を取り巻く風は、明らかに普通じゃなかった。
絶えずゴウゴウと唸り声を上げ、岩の間を吹き抜けるたびに、まるで無数の魂が泣き叫んでいるかのような、甲高い音や低い呻き声を生み出す。
その音は、ただ耳に聞こえるだけじゃない。
あたしの左目に、ビリビリとした振動として伝わってくるのだ。
そして、その振動に呼応するように、左目の奥がズキズキと疼き、頭の中に響く声たちも、ざわざわと落ち着きなく騒ぎ出す。
『…チカヅイテキタ…』。
『…ココハ… チカラノ… フキダマリ…』。
『…気をつけよ… 多くの魂が、この山に囚われている…』。
様々な声が、混線したみたいに聞こえてきて、頭が痛くなる。
あたしは、強くこめかみを押さえた。
この山は、あたしの中の何かを、無理やり引きずり出そうとしているのかもしれない。
一人でこの先に進むのは、正直、怖かった。
「…無事だったか」。
不意に、背後からかけられた、低く落ち着いた声。
聞き覚えのあるその声に、あたしは驚いて飛び上がった。
振り返ると、そこにいたのは、見慣れた、しかし少しやつれたような顔。 キオだった。
彼の肩や腕にはまだ新しい包帯が巻かれているが、その足取りはしっかりしている。
「キオ!? どうしてここに…!?」。
「お前を追ってきた」。
キオは、表情を変えずに言った。
「あの後、傷が癒えるのを待って、お前の残した足跡や、折れた木の枝… わずかな痕跡を辿って、ここまで来た。 まさか、本当にこの『風呼びの山』を目指していたとはな」。
彼の言葉は淡々としていたけれど、その目には、安堵と、隠しきれない心配の色が浮かんでいるように見えた。
「…ごめん…勝手に…」。
「気にするな。 それより…」。
キオはあたしの隣に立ち、険しい表情で目の前の山を見上げた。
「…すごいな。 言い伝えは、本当かもしれん。 ここは、生者の来る場所じゃないのかもしれないな」。
彼の声には、普段の冷静さとは違う、わずかな怯えの色が混じっていた。
あたしは、キオが隣にいてくれることに、心の底から安堵している自分に気づいた。
さっきまでの心細さが嘘のように消え、力が湧いてくるのを感じる。
一人では乗り越えられなかったかもしれない、この山の異様な気配。
でも、今は一人じゃない。
あたしは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
確かに、禍々しい気配が満ちている。
でも、同時に、何か強い力に引き寄せられるような感覚もあった。
あたしの力の根源、あたしの失われた記憶の鍵が、この山のどこかにある。
そんな予感がしたのだ。
そして、老女も、ここにいるかもしれない。
「行こう」。
あたしは、キオを見上げて言った。
キオは、少し驚いたようにあたしを見たが、すぐに力強く頷いた。
あたしたちは、覚悟を決めて、山の麓にそびえ立つ、巨大な黒い岩が門のように見える場所へと向かった。
岩の表面には、風雨に削られたのか、それとも誰かが意図的に刻んだのか、赤い大きな渦巻きのような、あるいは蛇がとぐろを巻いたような、奇妙な模様が無数に描かれている。
その模様は、どことなく、あたしの左目の奥に見える紋様と似ている気がした。
岩の門をくぐり、山の中へと一歩、足を踏み入れた。
途端に、風の音が、まるで壁のようにあたしたちの行く手を阻む。
足元の黒い岩盤は、氷のように冷たく、そして驚くほど滑りやすい。
一歩一歩、足元を確かめながら、慎重に進まなければならなかった。
登り始めてすぐに、夜の帳が下りてきた。
山影に入ると、太陽の光はあっという間に遮られ、周囲は急速に深い闇に包まれる。
あたしたちは、風を避けられそうな、少し窪んだ岩陰を見つけ、そこで野営することにした。
キオが、苦労して小さな焚き火を起こしてくれた。
けれど、風が強すぎて、炎は頼りなく揺らめき、すぐに消えてしまいそうだ。 暖 かさも、ほとんど感じられない。
ふと、空を見上げて、あたしは息を呑んだ。 月なのか?
空の低い位置に、信じられないくらい巨大な、月が浮かんでいる。
それは、荒野で見た時よりも、さらに大きく、さらに近くに見えた。 まるで、この山の頂上に、手が届くかのように。
表面のクレーターや、影になった海の部分を、赤い大きな渦なのか雲なのかが覆っている…まるで大きな目が覗き込むような…気持ち悪い。
そして、その月が放つ、怪しく、赤い光が、黒い岩肌を不気味に照らし出し、まるでレンズに赤いフィルターを付けた写真のようで気味が悪い、歪んだ明るさを作り出していた。
なんて不自然な光景だろう。
美しい、というより、怖い。
こんなに巨大で赤い渦が掛かる月が、こんなにも近くにあるなんて、ありえない。
この世界の物理法則が狂っているのか、それとも、この月自体が、何か特別な、作られた存在なのか。
見上げていると、巨大な、感情のない一つ目に見つめられているような気がして、背筋がぞくりとした。
あれは、本当にただの天体なのだろうか。
それとも、この「揺り籠」という世界を監視し、あるいは操作している、巨大なシステムの「目」…?
「…見すぎるな」。
キオの声が、あたしを現実に引き戻した。
「あの月は、人の心を惑わすと言われている。 正気を失いたくなければ、あまり見ない方がいい」。
「…うん」。
あたしは頷き、視線を焚き火の小さな炎に戻した。
でも、あの巨大な月の冷たい光は、まぶたの裏に焼き付いて、離れなかった。
「敵の足跡は、この山の中腹に向かっているようだった」。
あたしは、不安を振り払うように言った。
「明日になったら、もっと登ってみよう。 老女も、そこにいるかもしれない」。
「ああ」。
キオは頷いた。 彼の声にも、緊張が滲んでいる。
「何が出てきてもおかしくない山だ。 気を抜くなよ」。
「うん」。
あたしたちは、少ない言葉を交わした後、交代で仮眠を取ることにした。
けれど、あたしはなかなか寝付けなかった。
吹き荒れる風の音、ズキズキと疼く左目、そして、空に浮かぶ巨大な月の、冷たい視線。 それら全てが、あたしの心を落ち着かなくさせていた。
夢の中で聞いた、古の魂の声が、頭の中で繰り返される。
『目覚めの時は近い… 風呼びの山で、汝は己を知るだろう…』。
あたしは、この山で、一体何を知ることになるのだろうか。
それは、あたしが求めている答えなのだろうか。
それとも、知りたくなかった、恐ろしい真実なのだろうか。
答えは、この山の奥深くで、あたしを待っているのか。




