鯛の押し寿司と泡盛
夏の最後の週。徹は桟橋でフェリーを待っていた。あるものを待っているのだ。
(まだかなぁ)
水平線には、白亜の神殿のような入道雲が立っている。その水平線に目を凝らしていると―かもめのように白い船の姿が、ぽつんと現れた。あれよあれよという間にフェリーは近づき、波をたてながら桟橋へと到着した。
「おう、待っちょってくれたか。頼まれたもんを、もってきたじゃ」
最初、徹をフェリーに載せてくれたおじさんが操縦室から顔を出す。彼はフェリーの運転だけではなく、こうして島の住人の必要なものなどの注文も受けてくれているのだった。
「すみません―。正式な住民じゃないのに、お世話をかけて」
「なぁに、よかってことじゃ。おいん趣味んごたっもんじゃっで」
フェリーのおじさんは、もともとこの悪石島を含むトカラ列島の住人だったそうだ。だが今はフェリーの運転手となり、その片手間に便利屋のような事をしつつ島の人々の面倒を見ているらしい。
「おいが出来っことなんて、それくれじゃっでなぁ。どん島も、人が減ってきちょっし」
「そうなんですね…」
この悪石島だって、お世辞にも人が多いとはいえない。きっと他の島も似たり寄ったりなんだろう。
「じゃっどん、外から故郷を支ゆっていう人生もあっかもしれんて思うてな…おっと、長話しちょっ暇はなかどった。運航ダイヤがあっでね」
おじさんは袋を徹に手渡したあと、他の住民を乗り降りさせ、船を出発させた。
「ありがとうございます―…!」
徹は袋を大事にリュックにしまい、歩き出した。東京ではコンビニで簡単に手にはいったようなものでも、ここでは時間と手間がかかる。それも人に頼まなければ、手に入らない。不便だが、こうした事が逆に人と人の間をつないでるのかもしれないな、となんとなく思った。
ここには都会にはない、人と人との綿密な関わりがある。隣に住む人の顔どころか、島民は全員が産まれた時から顔見知りだ。困った時は助けあい、台風などの際は総出で力を合わせる。
(そうしないと―暮らしていけないもんなぁ)
人間一人の力なんて、たかが知れている。車がなければ、人が一日に歩ける距離などほんの少しだ。大風や大波には勝てない。それらは容赦なく人間の体をなぎ倒し、流し去ってしまう。スマホの電波が入らないこの地で、徹は自分だけでなく、人間という存在そのものがいかに頼りないかをまざまざと感じた。
(だから―…神様が見えて、言葉も交わせるのかもしれない)
人間が弱い分、神様の存在が濃い。商店にも、恵さんの家にも、何かを祭っている神棚のようなものがあった。形式的なものではない。そこに向かって毎日祈りをささげ、食事のたびに一声かけるような、「生きた信仰」のようなものがあるのだ。誰かに強制されてするわけではない。自然と神様に、今日一日無事で過ごせた事を感謝する。そして明日もつつがなく迎える事ができるようにと、お願いする。
(そして、きっと、神様もそれに答えてくれているんだろうな)
かまどの面倒を見るのだというかまど神に、人間はみな可愛いと微笑むボゼ神。翡翠はちょっとよくわからないが―。徹はとくに霊感などがあるわけでもないのに、彼らの姿を見て、言葉を交わしている。
(俺がここに来たときになんとなく思った―天国の島っていうのは、案外本当なのかもな。)
そんな事を考えながら、徹はいったん家に帰って作業に取り掛かった。翡翠用の、お弁当作りだ。
(あの人はなんといってもまず、お酒だよなぁ)
徹は台所の床下収納を開けた。ここにたくさんの酒瓶が並んでいるのだ。おおすぎてチェックしきれないが、すべてがおそらく酒だ。
(よく隠していたよなぁ。というか、ため込んだまま忘れていたのかな)
ラベルはすすけて、もう文字が読めないようなものもある。ただ地下でひんやりしているせいか、どれも保存状態はよさそうだ。徹はたくさんの瓶の中からずんぐりしたものを適当に取った。
(お、これはラベルが読める。泡盛かぁ)
お店では扱ってはいなかったが、本格焼酎というイメージがあった。味は知らない。実はかまど神と同じく、徹は下戸なのだ。けど、手元の酒の味を想像して、それに合う料理を見つくろう事はできた。仕事で散々してきたからだ。
(濃い、生の焼酎なら…それこそ魚だな。さっぱりした軽めのつまみと、しっかりお腹にたまる物があるといい)
徹は冷蔵庫を覗き―献立を決定した。作業工程を頭の中で組み立て、即実行すべく包丁を取り出す。この一つ一つタスクを潰していく工程が、徹は好きだった。料理はその繰り返しだ。
まずはゴーヤを薄い輪切りにし、軽くゆでてから水にさらす。冷蔵庫の中の淡い紅色の鯛を取り出して、そぎ切りにする。それらを白い琺瑯びきのタッパーに盛り、切ったゆで卵とシークワーサーをそえる。塩、胡椒とごま油をかるく振りかければ、軽いつまみのできあがりだ。
(えーっとなんだっけ、カルパッチョ、って言うんだよな)
これだけだと、物足りないにちがいない。徹は別のタッパーにラップを敷き、薄く切った鯛をその上に敷き詰めた。さらにみじん切りにした青じそを散らし、タッパーの半分まで酢飯を詰める。ちょうど半分には錦糸卵を敷き詰め、また酢飯をフチまでつめて、まな板で押す。しばらく抑えれば、薄紅と緑と柔らかな黄色がちりばめられた押しずしの出来上がりだ。
(これは翡翠さんの前で型をぬこう。喜んでくれるかな)
徹はにこにこしながらタッパー2つと酒をリュックにつめ、家を出た。
海辺の桟橋に向かうと、すでに翡翠が腹ばいになって待っていた。
「遅いわよ、徹。もう日が沈んで2分たったわ」
「ごめん翡翠さん」
そういってから徹は桟橋のコンクリートの上に持ってきた茣蓙を敷いた。
「そこじゃ痛いでしょ。上に座りなよ。」
「いいの?濡れるわよ」
「あとで乾かすから問題ないよ」
言いながら、徹は茣蓙の上にタッパーを並べた。翡翠が興味しんしんで手元を覗き込む。
「それは何?」
「まぁ、見ててよ」
徹は持ってきた小さなまな板の上にタッパーを伏せ、スルっと容器から中身を出した。まるで四角いケーキのような押し寿司だ。それを切り分けたあと、泡盛を注ぐ。
「今日は本格焼酎だよ。どうかな」
待ってましたと言わんばかりに、翡翠はコップに口をつけた。
「くぁぁ~、濃いわね!とろっとしてて、芳醇なのにまろやか…」
一瞬で空になった器にお替りを注ぎながら、徹は思わず笑った。
「人魚はみんな、お酒が好きなのかい?」
「そんなの人によるわ。人間だってそうでしょ」
「まぁそうだね…海にはどんなお酒があるの?」
「いろいろあるわよ。海藻のお酒とか、貝がらで作るお酒とか―。でも私はココヤシのお酒が一番好き」
「ココヤシ?海の中にも椰子があるの?」
「いいえ。地上からおちてくるココヤシよ。海の底に沈んで、ずっと放っておくの。そしたら中身が発酵して、甘いお酒になるのよ」
「へぇぇ。それは美味しそうだね」
「何言ってるの、あなた飲めないでしょう」
「はは、ばれてたか」
「下戸なのは見ればわかるわ。―ねぇ、このお寿司は、前のと違って大きいのね」
「ああ。押しずしって言うんだ。二人分にはちょうどいいかなって。当日のメニューにするかは、まだ考え中だけど」
「たくさん作って皆で分け合うのは、いいかもしれないわ。いも子はそういうの、好きそうだし」
その名前を聞いて、徹は少し落ち込んだ。
「翡翠さんは、かまど神様を見かけた?俺、ここ数日会ってなくて」
「私も会ってはいないわ。でも―この島にいるのはわかる。大丈夫よ」
「誰にも会いたくないほど、落ち込んじゃったのかな?」
「…一人で考える時間が欲しいんじゃない?」
子どもらしく無邪気な彼女に、そんな行為は似合わないような気がした。何も答えず黙り込んだ徹に、翡翠は話題を変えるように言った。
「そういえば、話してたものは届いたの?」
「えっ、ああうん。今日ちゃんと届いた。家に保管してあるよ。湿気らないようにね」
翡翠は押し寿司をもぐもぐ食べながら感心したように言った。
「陸はなんでもあるのね。火でできた花なんて、あの子きっと喜ぶわ」
「だと、いいんだけど」
翡翠は徹の背中をばしんと叩いた。
「しみったれた顔はよしなさい!私たちはお祭りをするんだから、いい顔してなきゃダメでしょ」
たしかに、徹がしょぼくれていたら、かまど神は申し訳なく思うに違いない。彼女を楽しませたければ、まず自分笑っていなくては。
「その通り、だね…」
徹は少し反省して、翡翠を見た。
「ありがとう。おかげで元気が出たよ」
翡翠はちょっと顔をそらして、唇をとがらせた。
「別に、どうってことないわよ。それより―これ、見てくれる」
翡翠は長い髪の間に手を差し入れて、何かを取り出した。
「なんだい?」
「これ、いも子にあげたいと思うの」
彼女の手のひらの上には、大粒の真珠がのっていた。
「あの子ほら、古い貝がらの髪飾りをしてるでしょ?だからこれを新しく髪飾りにしてあげたいの。徹、何とかしてくれない?」
徹はその宝石のような欠片たちを受け取った。
「わかった。髪飾りにできないか―やってみるよ」
真珠はずしりと重みを感じた。ビールの王冠ほどもある大きさなのだ。真珠といえば白いものだと思っていたが、見る角度によってさまざまな色に変わる。淡い桃色だったり、ラベンダー色だったり、クリーム色だったり…。徹は目を奪われた。その色たちはどれも淡く明るく、まるで海の中で反射する光そのものを映しているようだった。
「すごい真珠だね。翡翠さんの宝物なんじゃないの?」
徹が聞くと、翡翠は首を振った。
「いいのよ。海底じゃ、たいして珍しくないし」
「へええ。すごいんだなぁ。海の底にはお城とか、あるのかい?」
まさか―と、翡翠は笑いそうになったが、徹が楽しそうな顔をしているので、乗ってあげることにした。
「そうよ。そりゃ立派な御殿があるの。亀や鯛が召使よ」
「まるで物語みたいだね。俺も見てみたいなぁ、竜宮城」
なんの屈託もなくそういう彼を見ていると、翡翠の中に、焦るような切ない思いが沸き起こる。
「じゃあ、一緒にくる?見せてあげようか、竜宮城?」
「ははは、それで俺は、浦島太郎になるのかな?」
「いいえ、あなたを浦島太郎にはしないわ」
私は、乙姫のような事はしない。いったん手に入れたものを、地上に戻すなんて―。しかし翡翠はその思いをぐっと飲みこんだ。
「きっと地上に戻る前にサメに食べられちゃうわね。危なくて連れていけないわ」
「息もできないしね」
そう、人間と人魚では生きる世界が違う。翡翠はぐいっと泡盛を煽った。陸には、海にはないものがたくさんある。美味しいお酒、食べ物、そして―人間の男。
それもこれも、きかっけは彼女―いも子だ。あの子が居なければ、翡翠はこうして海の外を知る事はなかった。
「こっちもどうかな?ゴーヤと鯛なんだけど」
穏やかに微笑んで白い皿を差し出す徹を見て、翡翠は胸の内側がぎゅっとつかまれたように苦しくなるのを感じた―。




