締めの一杯
「あんた―ほんと悪趣味。大嫌いよ」
海の上を漂っていると、すぐ後ろで刺々しい声がした。ボゼ神は振り向いて微笑んだ。
「俺の前に来てくれるってことは―やっと妻になる気になってくれたのかな?」
ボゼ神の軽口に、翡翠はドスの効いた声を出した。
「ふざけないで。その減らず口を齧るわよ」
「いいとも。君に口をかまれるのはさぞ楽しいだろうねぇ」
何を言っても無駄だと悟った翡翠は、深く深呼吸したあと、本題に入った。
「なんであんなものを、いも子に飲ませたのよ!」
「おやおや。のぞき見してたのかい?助兵衛だな」
「うるさい。あんたはいも子が苦しんだっていいわけ?」
すると、へらへらしていたボゼ神は鋭く言った。
「このまま苦しみを先延ばしする方がいいと?」
「…っ」
翡翠は悔しそうにボゼ神を睨んだ。
「いつかはしなければならないことだ。君だってそれは知っているだろう」
「言われるまでもないわ!でも、今でなくてもいいじゃない。せっかく徹が、来てくれたんだから」
「あの子はただの人間だ。こういった問題に巻き込まれれば、簡単に命はなくなる。これは彼のためでもあるよ」
「でも!徹は料理で、いも子に思い出させてくれるって言ったのよ!それが成功するかも、しれないじゃない!」
「成功したって、影響は受けるだろう。人間は儚い生き物なんだよ。我々とは違ってね。」
ボゼ神は肩をすくめた。
「人間とのかかわりを断っている君たちは、忘れてしまったのかもしれないが―私は現役でかかわっているのでね」
翡翠がいきり立つ。
「私をバカにしてるのね。世間知らずだって―!」
「そうは言っていないよ」
彼女は悔しそうに拳を握った。
「そうよ。あんたの言う通り。私たちは世海中のご先祖様の失敗から学んで―人間とは関わらないって決めた。だけど…今の私は、徹を知っているわ」
するとボゼ神はくいっと翡翠のあごを持ち上げた。
「責めてはいないさ、癸姫。君たちは美しく、しかし陸では無力な存在。姿を現せば虐げられるに決まっている。ルサルカしかり、豊玉姫しかり。だから海にひきこもるのは賢明な判断だ。君は徹と関わるべきではなかったよ。」
「私だって―そんなつもりなかったわ。でも…」
「ずっと口伝えでしか人間の事をしらなかった君が、徹一人を見て人間を分かった気になるのは危険だ。人間は良くも悪くも、脆くて儚い。けれども強い。我々の存亡を左右するほどね。だから付き合うときには、気を遣わねばならないよ」
「わかってるわ!そんなことっ―!」
「いいやわかっていない。今日の事を怒るのが良い証拠だよ。姫―。人間に恋した人魚たちはどうなった?海底にもぐって、少しゆっくり考えるといい。また会おう、スイートハート」
そういってボゼ神は手で波をかいた。強靭なその腕で海面をひとかきすれば、彼方の海までひとっとびだ。しかしいくら遠くへ泳いでも、癸姫の罵り声が追いかけてくるような気がした。
(まったく―徹はもてるな?俺が目を付けただけの事はある)
人間とはなんて、面白くて小さくて―そして可愛い生き物なのだろう。自分にはそんな彼らを守る義務があるのだ。ボゼ神の唇に、ふたたびあだっぽい笑みがうかぶ。
(しばらくは俺がいて、様子を見たほうがいいな―。けど、俺はずっとここに居られるわけじゃないからなぁ)
徹が肩を落として片付けに取り掛かっていると、後ろからずるりずるりと翡翠が現れた。
「徹、まだお酒は残ってる?」
徹は目を丸くしたあと、瓶とコップを彼女の前に置いた。
「たくさん。鶏飯もね。よかったら食べていって」
「言われるまでもないわ」
彼女は手酌で勢いよく酒をついだ。どくどくどくと荒々しい音がコップから響く。
「ぷっは~!うん、美味しいわ。」
前と同じく、彼女は豪快に飲みほした。
「…でも、かまど神様は気に入らなかったみたいで」
落ち込む徹に、翡翠はなんでもない事のように言った。
「そう。じゃ、これは私が全部飲むことにするわ。あの忌々しい男にやるのももったいないし」
「ボゼ神様が来たの、知ってたんです?」
彼女は顔をしかめた。
「様づけなんてする事ないわよ。あんな図々しい男。」
「翡翠さんは、あの人が苦手?口説かれたから?」
すると翡翠の目が険しくギラリと光った。
「あいつ、そんな事まで徹に言ったわけ」
彼女の怒りをなだめるため、徹は肩をすくめて笑った。
「俺も嫁にこないかって言われて」
しかしそれは逆効果だったようで―翡翠は髪を逆立てんばかりに怒った。
「な―な、なんですって!?あいつ、徹にまで手を出そうとしたの!?」
「いや、冗談でしょう、たぶん…」
翡翠は徹の肩をつかんでゆさぶった。
「あんた平気だったでしょうね?!何もされてない!?」
「何も、って―…一緒にご飯を食べただけで」
徹はそう言って、椀を翡翠に差し出した。
「鶏飯だよ、どうぞ」
すると彼女はほーっと息をついて、それを受け取った。
「はぁぁ…ま、とりあえずいただくわ…」
無言で匙を口にしながら、翡翠はふうと息をついた。
「温かい…。鶏って、こんな味がするのね。それにスープが美味しいわ。不思議な匂いと味がする。貝がらの中身を飲んだ時みたい」
人魚らしい感想に、徹は少し笑って礼を言った。
「ありがとう。たしかに貝の出汁とも似ているかもれない」
「ねぇ徹。あなたはいつまでこの島にいるの?」
唐突な質問に徹は驚いたが素直に答えた。
「とりあえず、夏の間は。そのあとは―まだ考えてなくて。どうして?」
翡翠は目を伏せた。湯気の立つ椀。その向こうの黒い濡れた睫毛が、白皙の頬に影を落とす。
「徹に―もっといろんなご飯を作ってほしくて」
「かまど神にも同じような事、頼まれてるんだ」
「知ってるわ。でもそうじゃなくて―ね。ただのご飯を、あの子にたくさん食べてほしいの」
「名前を見つけるために食べるんじゃなく?」
徹がそう聞くと―翡翠は、何かを振り払うように頭をふったあと、にっこり笑って徹を見た。
「そうだ!いい事考えたわ。私たちでお祭りを開くのよ、徹」
「お、お祭り?」
「そうよ。いも子のためにね。ねぇ、地上ではお祭りってどんな事をするの?」
「うーん、踊ったり、食べたり、花火をしたり…でも、なんで突然お祭り?」
すると翡翠は言った。
「私ね…。あの子に、もっと楽しい思いをしてほしいの。今、こうして徹が滞在している間にね」
「つまり…夏の思い出作り、的な?」
散々手垢のついた表現だったが、その言葉に翡翠はパン!と手を打ち合わせた。いい音がした。
「そう、そうね!その通りよ!徹、いい事いうじゃない!」
「いや、まぁ―夏休みといえば、思い出づくり?だし…」
「いい言葉ね。そうよ、私―あの子に思い出を作ってほしいの」
そういう翡翠の頬は、興奮のためかほっと紅く染まっていた。大事な宝物を見つけたようなその笑みを見て、徹もつられて笑った。もういい大人だけど、夏休みの思い出を今から作る―。そう思うと、年甲斐もなくわくわくしている自分がいた。
「いいね。俺、考えてみるよ。名前を思い出すための料理じゃなくて、純粋に食べて楽しんで、みんなでわいわいできるような催しをさ」
すると翡翠は強くうなずいた。
「お願いするわ!私も手伝う。2人でアイディアを出して考えましょう」




