あごだしスープ
ポットから急須にお湯を移し、三角のティーバックの入ったカップの中にそっと落とす。お湯は緑茶用に、一度沸かしたあと60度前後に調整してある。嫌いな相手だからこそ、徹は丁寧にお茶をいれた。カップから湯気が立ち上り、綺麗なうぐいす色に出たお茶を、徹は五十嵐に出した。
「……」
五十嵐は放心したように、じっとそのカップを見下ろした。
「別に毒なんて入ってないよ」
徹がそう言うと、五十嵐はポツンとつぶやいた。
「そんなの、わかってる」
お茶の隣に徹はスープの残りをついで置いた。
「なんだこれ」
「あごだし。風雲に居た時よりも、いいやつ使ってる」
「そんな事してたら、あっというまに潰れるぞ」
ぼそりとしたその声は、拒絶の色だけではなかった。ぶっきらぼうで、フラットな声。
よかった。五十嵐はさっきよりも少し、平常心に戻れたみたいだ。徹はそう思いながら淡々と言った。
「いや、このへんじゃかつおぶしもあごだしも、東京にいるより安く手に入るんだ。産地だから」
そう説明する徹に、五十嵐はふうんと気のないあいずちを打った。
「それだけでも、飲んで。そしたらもう、帰っていいから」
徹がそう言うと、五十嵐はしぶしぶコップに口を付けた。
「……ずいぶん薄味だな。屋台向けじゃない。これじゃ客は満足しないだろ」
「メニューは、そこにいろいろつけたして売ってる。だからそれは純粋な出汁だよ」
お互い、腐っても料理人。料理の事となれば、さきほど殺し合いかけた相手だとしても、ついつい口が出る。
「へぇ。おれだったらもっと昆布を入れて、安く、しっかり味がつくように仕上げるな」
「でもそうすると、他の風味が失われるんだ」
「いいじゃんかそれで。だいたい俺は上澄みだけの出汁が好みじゃないんだ。日本食はどれもこれもお綺麗すぎて、食った気がしない」
それでよく日本料亭にいたな、とおもいつつ徹は聞いた。
「じゃあ五十嵐さんだったら、どんな汁物にするわけ」
「そうだな……」
五十嵐は腕を組んだ。
「ドラム缶に、牛豚の内臓をぶちこんで一日煮る」
「え、えぇ?」
徹は困惑した。それはどんな料理なんだ。
「あんたも見てたろ。風雲の料理は清潔でお綺麗だ。彩りは完璧に美しい。けど、その清潔さのあまりの部分の方が美味いんだよ」
「あまりって、つまり……」
「おろした魚の捨てる部分。それに動物のしっぽとか、耳とか、内臓。栄養もあるし美味い。どうしてみすみす捨てるのかわからなかった」
たしかに、風雲ではそうして捨てる部分は多かった。ことに魚を一尾捌いた時なんかは、内臓や骨をまるまる捨てる。
「魚の骨だって、炙ってもよし、酒で煮て飲んでもよしなのにもったいねぇ」
「へぇ……」
徹は思わず感心して聞き入っていた。たしかにふぐのひれ酒など、魚の一部を酒にする調理法はある。しかし徹は師匠から基本の料理を教わることが精いっぱいで、そうした野趣あふれる料理を学んではいなかった。
「捨てる部分が勿体ないとか……考えたこともなかったな」
「ふん。それが甘ちゃんの証拠だよ。苦労したことがないから、そんな贅沢でいられるんだ」
「俺、もう両親いないし、どちらかといえば貧乏育ちだけど」
「ふぅん。そうなんだ」
「そう。だから自分で料理覚えたっていうか」
「得意料理は?」
「え」
「子どものときの、あんたの得意料理だよ」
五十嵐がカウンター越しに、徹を見上げた。無表情で、ただ聞くために。嘲りも憎しみも含まれていない彼の顔を見るのは初めてだ。さっきお互いに凶器を向け合ったというのに――徹は少し考えて、真剣に答えた。
「炒め物、かな……」
するとふっと五十嵐の口元が緩んだ。
「ああ、炒め物は楽だよな。もやしとかでかさましできるしな」
皮肉ではなく、素直に五十嵐は同意したようだった。もしかして彼も、幼少時から料理に手を染めていたクチだろうか。
「……五十嵐さんの、得意料理は」
「そうだな……もやし丼かな」
「もやしだけ?」
「そう。もやしにめんつゆをぶっかけて、電子レンジで煮る。それを飯にかけて食う。一食20円くらいかな」
思わず黙ってしまった徹を無視して、五十嵐はつづけた。
「なんだそれ、って思うだろ。でももやしは何にでもあう、万能の野菜だよ。毎日あれこれ工夫して美味しく食ってた」
ふ、と軽いため息がその口から漏れる。
「だから本当は、料亭で捨てる食材がずっともったいなかった。なんだろうな、小さいころに染みついた価値観って、そう簡単には消えねぇんだよな」
その言葉に、徹は思い出した。
「ああ……だからだったんだ」
「なんだよ」
「風雲の中で……五十嵐さんの賄いが一番うまかった。それって、余り物の食材の調理に、長けていたからだったんだ」
「なんだ、バカにしてんのか」
徹は首を振った。
「覚えてる。モツ入りの味噌汁。鯛の皮削ぎの湯引き。それに、まぐろの心臓が、あんな焼肉みたいだなんて初体験だった」
語る徹の声に、力がこもる。そう、まるで残り物のオンパレードなのに、五十嵐のその料理たちはそれぞれ野性味があって美味しかった。自分の知らない料理の扉があるのだと、そのたびに徹は感じ入っていたのだ。
だから、自分をけなしてくる嫌な人間でも――一定の尊敬の念をもっていた。この人も、料理に関しては努力していて、徹にない良い腕をもっているのだと。
「正直言って、驚いた。どの教本にも乗っていないような料理ばかりで、なのにうまくて。皮削ぎの湯引きは俺も真似してみたけど、あんまり食感がよくなくて失敗して」
「ははっ。厨房じゃゴミ漁りみたいなメニューだって大不評だったけどな。そんな風に思っていたのはあんたぐらいだろうよ」
徹は首を振った。
「そんな事ない。他の若い連中も、五十嵐さんの賄いの日はメニューに興味津々だった。今日はどんなアイディアが出てくるんだろう、って。それに俺は……少し悔しかったし」
「は? どこが」
「いつも、あんたの料理を、俺の作る賄いと比べてた。でも、コスパを考えるといつも負けだった……」
思い出しつつ真面目にそう語る徹を見て、五十嵐は肩をすくめた。
「俺も……あんたに勝てる所があったってことか」
「勝ち負けっていうか、誰でも得意不得意あるでしょう」
徹がそう言うと、五十嵐はふぅーっと眺めのため息をついた。
「そうか……まぁ、そうだよな」
コップを置いて、すっと五十嵐はテーブルを離れた。もう、行くのだろうか。
「……飲んだから、もう戻るわ」
「そうですか」
二人の視線が一瞬交わる。さよならを言うべきだろうか。そう考えて、思わず笑ってしまいそうになる。
(五十嵐さんは俺を刺そうとして、俺は焼こうとしたのにな)
そんな相手に、礼儀正しく挨拶とは。さすがにおかしくないか。
でも、徹はもう以前の徹ではない。
(そうだ。俺は知ってる。どんな相手だって、次があるかはわからない、って)
かまど神とは、永遠に分かれた。翡翠やボゼ神とも、また会える日が来るのかはわからない。
(五十嵐さんだって、そうだ。だから良かれ悪かれ、伝えたいことはちゃんと言っておいたほうがいい)
「五十嵐さん」
「なんだよ」
一つ一つ、自分の気持ちを整理しながら、徹は言葉をつむいだ。
「あんたのやった事、俺は許していません。料理を使って人を害するのは許されないことだと、思っている」
ここで徹は、一呼吸した。
「それはそれとして――だからって、あんたがこのまま料理を辞めればいいとは思わない。あんただって、料理人として認められて、『風雲』に勤めていたんだ。料理の腕は、ちゃんと本物だ。だから……次はあんなことしないで、まっとうにその腕を使っていってほしい」
すると五十嵐は低くつぶやいた。
「……お前に何がわかるんだ。知ったような事言いやがって」
「わからないから言ってんだ!」
徹は声を荒げた。
「なんであんたが、あんな事したのかわらない。普通に仕事してれば、料亭は回ってそれでよかったのに! あんな親方の言うことなんか聞いて、お客を巻き込むようなマネ……!」
「何か勘違いしてるみたいだけど、俺がお前をハメたのは、親方の命令なんじゃじゃなくて俺の意思だ。俺はお前が、落ちぶれて追い出される所が見たかったんだよ!」
五十嵐も声を荒げたが、その声はどこか子どものかんしゃくのようだった。
「だから、そうなったじゃないか。俺を追い出して、もう満足でしょ」
「ふざけんなよ、落ちぶれてなんかないじゃないか!」
その言葉を受けて、一瞬ぽかんとしたあと、徹は笑った。
「そう。俺、今充実してる。あんたのした事は最低だけど、そのおかげで、ここにこうしていれる」
五十嵐の顔が歪む。この時、五十嵐が一番聞きたくない言葉が、徹にはわかった。笑顔に少しの皮肉をくるんで、明るい顔でそれを口にする。このくらいの仕返しは、許されるだろう。
「ありがとうございます! こうして店を開けたのも、五十嵐さんが料亭から追い出してくれたおかげだから」
あそこにこれまで通り残っていれば、今頃徹は板前になっていたかもしれない。けれどもう、そんな事は徹にとってはどうでもよかった。さまざまな人間や、人間でない者との出会いと別れを経て、今はこうして広い外へと飛び出して、料理をしている。
「そこは本当に、偶然とはいえ――感謝してます」
さぁ、五十嵐はまた怒るだろうか。顔を真っ赤にして、バカにしやがってとまたナイフを突きつけてくるだろうか――。
しかし以外にも、五十嵐は口元を歪めて――笑った。
「そうかよ。あんたマジで、言うようになったな」
そして今度こそ、彼は徹に背中を向けた。
「俺も無駄なことしたよ。アンタみたいなやつは――結局どんな目に遭ったって、関係ないんだな」
「え?」
どういうこと、と聞き返したかったが、そのまま五十嵐はすたすたと歩いていってしまった。彼はナイフを忘れていったが、当然返すわけにもいかないので、徹はそのまま無言で彼の背中を眺めていた。




