お茶飲んだらかえって
顔の前にバーナーを突きつけると、五十嵐の顔が焦りに歪んだ。徹はそれに介さず畳みかけた。
「ほら、刺せよ!そしたら俺もスイッチ入れてやるから……!」
二人の目線が、刃のようにお互いに突き刺さる。
徹は五十嵐を、視線で射殺すかの目で。
五十嵐は徹を、憎しみに満ちた目で。
しかしお互いに凶器を突きつけているその刹那、五十嵐の目が揺れた。五十嵐は内心、動揺していた。
(くそっ……こいつが、こんなもん持ってくるなんて)
五十嵐は正直に言って、ここまで徹が自分に反撃してくるとは思っていなかった。
(だってお前は……お前は、『いい子ちゃん』なんだろ……っ!)
料亭では、何をしても抵抗してこなかったくせに、最後にこんなとんでもない武器を持ち出してくるとは……。
そう思った瞬間、五十嵐は徹に押し負けていた。手からナイフをもぎ取られ、手加減なしで横っ面を張られる。衝撃に体が後ろに飛び、車の外へと無様に倒れる。
「くっ……! てめ、ぇ……っ」
再び起き上がろうとした五十嵐に、徹はナイフを見せた。
「もうあんたは、何もできないっすよ」
その顔は、以前のなにもかもこらえて飲み下していた徹の顔ではなかった。
小さいとはいえ、自分で立ち上げた店を、そして自分の誇りを守らんとする男の顔だった。
五十嵐の地面についた手が、悔しさで震える。
(この俺が、こいつに……力で負ける、なんて)
徹は冷徹な目で五十嵐を見下ろしていた。前よりもその姿は、ずっと大きく見える。
「一つ聞きたい。俺を店から追い出すのに、なんでお客を巻き込んだんだ」
冷静な徹のその声に、五十嵐はどこかぞくっと恐怖を感じながらも、へらへら答えた。
「あ?そんなの……手っとり早くお前を追い出したかったからだよ」
「五十嵐さん……あんたはなんで、料理人になろうと思ったんだ?」
思いがけない質問に、五十嵐は呆けた。
「は? そんなの……深い理由なんてねぇよ」
「本当に? 生きていくためなら、仕事は他にもある。なんでわざわざ下積みのきつい料理人なんて仕事を、あんたは選んで、そして続けていったんです?」
徹の淡々としていた声に、気迫がこもり始める。
「俺だって、最初はくいっぱぐれないためんだった。けど料理をするうちに、それだけじゃなくなって……。今はこの仕事しかないって、そう思ってる。あんただって、大なりそうなりそんな瞬間があったんじゃないか? そうじゃなきゃ、とっくにあの親方の弟子なんてやめてるだろ!?」
その声に、五十嵐はどこかで安心していた。ああ、やっぱりコイツは。
「お前、甘ちゃんだな。俺に……金を稼ぐ以外の高尚な理由なんて、これっぽっちもねぇよ。俺が親方の下に居たのは、ただ――」
自分と似たような人間だったから、下にいるのは居心地がよかった。それだけ。
徹の事を、そのポジション以上に人間性を嫌っているのも同じだった。
(そう、親方も俺も、こいつの事が嫌いだったから)
努力。夢。希望。徹が持っているこれらが、どれも唾を吐きたくなるほど嫌いだ。
そんな事は都合のいい夢幻た。
だって努力した所で、夢は叶わない。こんな世界で希望を持ち続ける事ができるのは、徹のような甘ちゃんだけだ。
(だって――俺は夢なんて、持つことすら叶わなかった)
なりたいものも、したいこともない。ただ貧しい家で毎日親に殴られて育った。だから早く家を出たい、その一心で料理人となった。人の機嫌や弱みを伺う事が上手い五十嵐は親方に見つけられ、その汚い右腕として数年を過ごした。まっとうな料理の修行をせずに、人を陥れる事ばかりしていた。
だから、徹の事が鬱陶しかった。憎しみを覚えた。
コツコツとした努力で、溌剌なエネルギーで、料理人として成長していくその姿が。
自分が出来なかった事を、達成しようとしている彼が。
そこまで考えて、五十嵐ははっとした。
(待て、俺は今……何を考えた?)
まさかこの自分にかつて、『夢』なんてものがあったというのか?三笠徹の事を、『羨ましい』と思っていたのか……?
乾いた呼吸が、口から漏れる。その息は笑い声に徐々に変わっていった。
「はは、は、はははははははは!」
突然壊れたように笑いだした五十嵐を、徹は驚いたように見つめた。そして迷いつつ、携帯にその手が伸びる。
(五十嵐の事を、通報したほうがいいか……?)
そう思いながら徹は携帯を握りしめたが、110の番号を押せない。なぜか今の目の前の五十嵐から、寄る辺ない痛々しさを感じたからだ。
(待て、通報は少し待とう。様子を見て……)
徹とて仕事中だ。店の評判にもかかわるから大事にはしたくない。そう思いながら五十嵐に目線を落とす。彼は徹に突き飛ばされ倒れた格好のまま、まだ笑っていた。その目は虚ろに徹と後ろのキッチンカーを見ていた。隠しきれない飢えと絶望が、その顔から感じられた。
すると徹の胸の中に、後悔の念が湧いた。
(この人のした事は……許されない事だし、実際俺は許してなんかない。お客様の命を危険にさらす行為は、断固許さない。けれど……)
なんでだろう。あれほど嫌いで憎らしかった五十嵐が、今はなんだかみじめで、可哀想にすら見える。
(俺も、あんな心無い言い方をしない方がよかった。これ以上逆恨まれても嫌だし……)
先ほど怒りに我を忘れて彼を殴り飛ばし、暴言を吐いたことを、徹はすでに後悔しはじめていた。かまど神の言葉が、ふたたび頭の中によみがえる。
――徹、徹の料理で、人を救ってあげて……
権力者に痛めつけられ、ひどい目にあって記憶を失っていたかまど神は、切実に徹の助けを求めていた。しかしもしかしたら今目の前にいる五十嵐も、歪んではいるが助けを求めているのではないだろうか。
なんらかの手を差し伸べられるべき人間じゃないだろうか。
(コイツの事、嫌いだけど)
東京からはるばる、鹿児島までやってきたのだ。無職で資金もないだろうに、徹に復讐をする、それだけの気持ちで。
(リスクを取りたがらないタイプの人間、のはずなのに)
人を殺せば、当然罪に問われる。だから普通は、よほどのことがなければ人は人を殺さない。五十嵐が飛行機に乗ってまで、そんな非合理な事をしにきた理由はもしかして。
(すごく……辛かったからじゃ、ないのか)
今初めて、徹は五十嵐の目線に立って、彼の気持ちを想像してみた。
(俺を追い出したはずなのに、今度は自分が首になって、俺みたいにかまど神もいなくて。だから復讐でもしないと、気持ちが救われない。そんな所まで、心の状態がきてしまっていたんじゃ……)
徹自身も、かまど神に出会えなければ、悪石島に行かなければ、今こうして立ち直れていないかもしれない。
(いや、その原因を作ったのは目の前のこの人なんだけども! でも……)
こんな遠くまで、五十嵐は徹に会いにやってきた。自分の心の救済を求めて。
もしその救済が、復讐ではなく別の事によってもたらされるのなら――相手がどんなに憎い相手でも、それに越したことはない。
(刃傷沙汰も、喧嘩も、俺は得意じゃない。俺が得意なことは別のことだ)
いったん、彼への憎しみは脇へ置こう。かまど神だったらきっと、徹がそうする事を望むだろう。彼女の笑顔を思い浮かべながら、徹は冷静になろうと努めた。ふぅとため息をつく。
そして、車のキッチン部分へと向かった。
「前に座って。茶を出すから。それを飲んで行ってくれれば、何も言わない」




