秋が来た
銀杏並木を歩きながら、五十嵐の方はどこか吹っ切れた気持ちだった。その唇には、諦めと馬鹿らしさを含んだ笑みが浮かんでいた。
(今まで必死に!あいつを追い落とそうとしていたが――俺のした事なんて、全部無駄だったんだ。俺の嫌がらせなんて――あいつにとっては、ただのちっちゃい障害物でしかなかった)
甘ちゃんのあいつに、世間を思い知らせてやる。まっとうな努力は無駄なんだと教えてやる。そう思ってせっせと動いていた俺の方が、無駄な努力をしていたのだ。
(お人よしの甘ちゃんなんかじゃない。あいつは、ある意味バケモンだ。だってこんな目に遭わせた俺にたいして、『ありがとう』だなんて……)
とてもまともな神経をしていては、言えないだろう。限に五十嵐だったら怒り狂って殴っている。実際、こうして刺しに来た。
けれど徹は五十嵐と対話をし、五十嵐のなけなしの良い部分を見つけたうえで、そう言ってのけたのだ。
(あーあ、くそ。真面目に潰そうとした俺が、バカだった)
敵でも観察し、優れていれば認めてしまうほど、徹は料理バカだった。
徹に認められてうれしい、とは口が裂けても言えないが、呆れて戦意喪失してしまうほどには、彼の言葉は五十嵐の中に響いた。
(……俺、無駄に努力してたんだな)
料理ではなく、徹に嫌がらせするという努力を。そう思うと、がっくり肩から力が抜けるような気持ちだった。
(ほんっっとに、無駄だった)
うつむく五十嵐のまわりを、秋風が吹き抜けていく。黄色の銀杏や紅色の紅葉を吹き流しながら。そばの川に、その葉たちが落ちて流れていく。その景色は、まるで料亭で見かけたご婦人がたの着物の帯のようだった。
(ああ、錦の帯みたいだ)
その鮮やかな秋の色の上に、しばし五十嵐の目はとどまっていた。こんな状況なのに、場違いに綺麗だったからだ。そしてある事に気が付いてふっと皮肉に笑った。
(人間、平等でない事ばかりだけど……目に映るこの景色は、吹き抜ける風は、平等だ)
不平等と平等の入り混じったこの世の中。自分の持てるものは少なかった。けれど。
少なくとも、平等なものも存在はするのだ。徹も自分も、スタート地点は似たようなものだった。それなら。五十嵐は思った。
(他人を蹴落とすんじゃなくて、自分の持てる武器を増やす――無駄じゃない努力をしてみるほうが、得なんじゃないか)
自分も努力できる事がある。皮肉だけれど、その事がわかった。
(あーあ、遠回りしちまったな)
こんな事なら、最初から真向に徹とぶつかっていればよかった。わずかな後悔がよぎる。
しかしその後には、真新しいやる気のようなものが、身体の中に湧いて来る。
(よし――俺も一から、やり直しだ。今度はきっちり、あいつを負かしてやりたい)
落ち葉の降りしきる中、徹は出したお茶類を片づけていた。さきほどの乱闘もやりとりも、何もなかったかのように公園は静まり返っている。
(あぁ、何事もなくて――とりあえずよかった)
胸に手をあてて、ほっと息をつく。どっどっど、と心臓が生々しい脈を打つ。平静を保っていたものの――五十嵐が去ると、どれほど体がこわばっていたか、わかった。
(人生のうちで、まさかナイフで脅される日がくるなんてな)
再び徹はため息をついた。なかなか落ち着かない。
そんな中、たったった、と落ち葉の向こうから、跳ぶように軽い足取りで誰かがやってくるのが見える。
(ああ、西野さんだ!)
彼女が手を挙げて、徹ににこっと笑うのが見えた。この時間少し仕事を抜けて、徹のところにお茶でも飲みにきたのだろうか。公園の色づいた木々を、風がゆらす。赤や金色の落ちばが舞う中、笑う彼女の栗色の髪と、深い赤色のスカートが、一緒に風で煽られる。もう何度目に見るか、眩しいほどの笑顔。そんな彼女に、徹の目はいつも釘付けとなるのだった。先ほどの乱闘沙汰の事などすっかり頭から消え、徹は彼女に、見とれていた。
――なんだか、秋の妖精みたいだな
その瞬間だけ、徹の中からは五十嵐の事も、料理の事も、消えていた。
昨日も見たはずのなんてことのないこの公園だけれど、彼女がいる事によって、ひどく美しく楽しい場所のように見える。それは徹にとって、初めての体験だった。料理以外の事に、心が傾くのは。
だけどまだ、徹はその感情の名前を知らない。だからひとりぼんやりとつぶやいた。
「綺麗だなぁ…」
自分の仕事。新しいスタート。そして、初めて知った気持ち。
徹の人生の季節は今、移り変わったのだった。
夏は、終わってしまった。けれど。
この場所にも、島にも、そして徹にも―――秋が来たのだ。




