二話「七年前の悪夢」
夜が開ければ、将真たち九人はようやく退院を許可される。
そんなめでたい日の前日でも、柚葉の仕事が無くなる訳ではなく。
ここ数日、悩みを抱えている彼女は、思うように眠れず、集中力を欠いていた。
その為、自分の仕事にあまり手がつかず、日が変わってしまうような時間まで学園に残る事が増えていた。
睡眠不足で朦朧とする頭で、柚葉は眠気に耐えながらも書類を片付けていく。
(……今寝るのは避けたいわね。やな夢見そうだし)
彼女の寝不足の原因は明らかだった。
将真の処遇を決める為の会議があったのは二日前のこと。
結論は処分とはならず、柚葉としては一安心と言ったところだが、それでも懸念は残っている。
将真が魔王化してしまえば、身体が馴染む前に処分されてしまうだろう。
それは勿論起きて欲しくない事態だが、絶対にないとは言えない。
そしてそれ以上に、そんな事を他の誰かにやらせるのもまた、彼女には許容出来ることではなかった。
もし、本当に覚醒してしまったのなら。
「……私がやらなきゃ」
七年前の、あの日のように。
もう既に十字架を背負う身だ。
まして自分の弟なのだから、他者に責任を負わせるつもりはない。
その十字架を背負うのは自分だけで十分だと、柚葉は言い聞かせるように呟く。
だが、覚悟は出来ていても、辛くない訳では無い。
「……将真、なんであなたまで」
睡魔は徐々に強くなって、仕事も手につかない柚葉は机の上に突っ伏して嘆く。
(……いやだ、こんな気持ちのまま、寝たくないのに……)
そんな思いとは裏腹に、意識は少しずつ眠りへと落ちていく。
最近は睡眠がまともに取れていなかったせいで、その睡魔は自然な事だと思い、柚葉は気づくことが出来なかった。
まるで眠らせようとする、不自然すぎる、強烈な睡魔に。
「……しょうま、わたしは……、あなた、まで……うしない、たく、な……」
無意識のうちに呟いた言葉は最後まで形になること無く、一筋の涙と共に柚葉の意識は夢の中へと落ちていった。
深く沈んだ意識の中で、懐かしい夢を見る。
今から約十年前。
柚葉はその才能を見出され、中学生になると同時に魔術師を育成する学園へと入学した。
彼女が今、学園長を務めている〈日本第一魔術学園〉がまさにそうだ。
編入生として中等部に編入した彼女の成績は、〈表世界〉の人間でありながら非常に優秀だった。
生徒間の実力差が大きくない中等部とはいえ、序列は試験二回目で十位以内に入る事が出来たくらいだ。
編入生が絡まれる光景は当時から珍しくなかったが、柚葉はその上で優秀だったせいで目立ち、差別の酷くない中等部でありながら、徐々に目の仇にされる事が増えていった。
それでも、彼女は大して気に止めることはなかった。
返り討ちに出来るだけの実力があったからだ。
だが、集団で絡まれてしまえばその限りではない。
ある日、柚葉は嵌められ、今までの鬱憤を晴らそうとした生徒たちから暴行を受けそうになったことがある。
そんな時に出会ったのが、一つ年上の先輩である、三人の少年たちだった。
一人は、現自警団団長の鐡剣生だ。
残る二人のうち、一人は七年前の事件の時に、消息を絶っていた。
そしてもう一人。
彼が高等部に上がる頃に、柚葉と恋仲になるほど、一番彼女と親密だった少年。
彼は七年前の事件で亡くなっていた。
他の誰でもない、柚葉の目の前で。
事件が起きたのは七年前の初夏。
新年度に入ってすぐに柚葉も高等部へと進級し、その実力は一年生の中でも特に優秀だった。
同じく学年の中でかなり優秀な二人の友人と組んで、学園内でも優秀な小隊として知られつつあった頃。
「__樹先輩!」
その姿を目にした柚葉は、まだこの頃は茶色だった髪を揺らして、満面の笑みと共に手を振りながら、二年の小隊へと駆け寄る。
そして名前を呼ばれた少年は振り向くと、優しい微小を浮かべた。
「柚葉ちゃん、ただいま」
「おかえりなさい。今回の任務、結構大変だったって聞きましたけど、大丈夫でしたか__わっ!?」
心配していた柚葉の頭に、樹と呼ばれた少年が手を置いて撫で回す。
照れ臭そうに手を払い除けて、上目遣いで睨みつける柚葉を見て、彼はクスッと小さく吹き出した。
「心配してくれてありがとう。この通り、無事だよ。まあ僕たちを脅かすようなものなんて、中々ないんじゃないかな?」
「むぅ、心配なんて当たり前です。それに自信過剰は危ないと思います」
「そうかな?」
「そうですよ__わっ!?」
惚けたように首を傾げる樹に、膨れっ面で言い返す柚葉だったが、再び頭を撫でられて少し目を回した。
樹も本気で、自信過剰な発言をした訳ではない。
柚葉を安心させる為のちょっとした冗談だったのだろう。
それに、彼らが強いのは事実だ。
自警団からも将来が期待されるほど有望で、現時点でも学園最強の小隊なのだから。
そうして柚葉の頭を撫で回しながら、優しい声で彼は囁く。
「__気をつけるよ」
「ふぁっ……」
柚葉の耳元で。
「もうっ、樹先輩!」
「フフ、ごめんごめん。本当に君は可愛いな」
「うぁっ……」
面と向かって可愛いと言われ、思わず顔を真っ赤にする柚葉。
二人が付き合い初めてもう一年は経っているが、傍から見ている樹の仲間である二人もやれやれと首を振って呆れるくらいには、その反応は初々しいものだった。
「じゃあ柚葉ちゃん。僕らは任務達成の報告に行かなきゃ行けないから、また後でね」
「ふんっ、意地悪な先輩なんて知りませんから! べーっ!」
揶揄われてへそを曲げた柚葉は、小生意気に舌を出すと、その場から駆け出してしまった。
そんな彼女を見送るように手を振る樹に、剣生は苦笑を浮かべていた。
「全くお前は、本当に片桐が好きだな」
「反応が可愛らしくてね。つい揶揄い過ぎちゃうんだよ」
「そうか。でもさっきのは言い過ぎだったな?」
「うん? 何がだい?」
剣生の言葉に首を傾げると、もう一人の少年が代わりにそれを口にする。
「『僕たちを脅かすようなものなんて、中々ない』……だったか? 今回の相手は、どう転ぶか分からなかったぜ」
「そうだね。何せ吸血鬼の超級に三体の上級つきだ。普通は学生が相手にしては危険なレベルだね」
二人の言うように、今回の任務が危険なものだったのは間違いなく、樹も重々理解している。
だからやはり、先程の発言は柚葉を安心させるための冗談だったのだ。
「まあ、どうした所で学年の違うあの子は一緒に行けないし。心配をかけるよりはね」
「……まあ、お前の憂いが無くなるならそれでいいけど」
柚葉が樹を心配するように、樹もまた柚葉を心配し、誰よりも気にかけている。
編入生として〈裏世界〉に来ている彼女は、あまり両親にも会えてないのだそうだ。
だから、代わりに支えになって上げたいという思いが強くあった。
出来れば彼女に心配をかけたくはない。
愛され、守られていてくれればそれでいいとすら、樹は思っている。
だから、自身の中に抱えた爆弾を、誰にも言えずにいた。
何処から柚葉の耳に入るかも分からなかったから。
だが、彼女を想って黙っていた事が、後に大きな悲劇を招く。
樹たちが任務を終えた、その日のうちに自警団の魔術師たちに緊急の出動命令がかかった。
学園でも特別優秀とされる樹たちは、呼び出しが入り出撃する。
その要因は、都市近辺で確認された、高位魔族が率いる魔物や魔獣、魔族の大群だ。
自警団と学園生の中で有力な小隊が、都市の外で防衛線を張り侵攻を食い止める。或いは殲滅する。
それが今回の任務だ。
だが、その任務には大きな誤算があった。
一体一体は強くないが、総数が尋常ではなく、塞き止めきれなかったのだ。
それだけではない。
今回の侵攻で参戦している高位魔族らが、防衛線を張る魔術師たちに、ろくに興味も示さず進行を続けたのだ。
当時も十分頑丈だったが、今ほど強固ではなかった都市の結界。
否、むしろこの日をきっかけに更にその性能を向上させることになっていったのだが。
その結界は、繰り返される魔族の侵攻により破られ、〈日本都市〉は大惨事へと見舞われる事となったのだ。
他の生徒同様、避難誘導を命じられていた柚葉の小隊は、指示通りに一般市民の避難を急がせていた。
それもようやく半分くらいまで来たところで、街の至る所で爆発が起き始めた。
「えっ、何?」
爆音の方を振り向くと、遠くの方で異形の化け物の姿が目に入る。
都市の住民はこの時、都市の結界が破られた事を理解した。
非常に大変な事態だ。
魔族の侵攻も大変だがそれ以上に、結界に穴が空くことで外の魔力が流れ込んでくる。
都市の外の魔力は、無策で長時間留まれば、魔術師ですら死に至るほど濃く、それ故に有毒だ。
一般人が触れてしまえば、即死に至るのは間違いない。
「わあぁぁぁんっ!」
「きゃあぁぁっ!」
「こ、こんなのどうすれば……」
「おい、前線の魔術師は何をしている!?」
街のあちこちから火の手が上がり、当然のように阿鼻叫喚の地獄絵図が出来上がる。
子供の鳴き声。大人の悲鳴。学園生の動揺に自警団員の怒号まで。
そして対応に悩んでいたのは、柚葉も当然同じだった。
タダでさえ実戦経験の足りない学園生だ。
加えてこんな事態、自警団員ですら経験した事があるものはいるのだろうか。
それほどの惨事なのだ。
それに、前線で抑えきれなかったという事は。
(……大丈夫、ですよね。樹先輩?)
最悪な可能性が脳裏を過り、不安に心を掻き乱されるが、ここで任務を放棄する訳には行かない。
住民はパニックに陥っているが、避難はまだ半分以上が済んでない。
こんな所を襲撃されれば、目も当てられない被害が出るだろう。
前線に戦力が集中し、手薄になっている都市内を狙うとは、相手の指揮官は相当やり手で性格が悪いのだろう。
だが、愚痴を言ったところでどうにもならないのだ。
前線の魔術師たちを信じ、避難誘導を再開しようとする柚葉だったが、そこへ更に畳み掛けるように事態が悪化する。
魔族が、もうすぐ側まで迫っていたのだ。
「……くそっ!」
悪態をつきながら、柚葉は身体強化魔法をかける。
事ここに至っては、守る為にも戦いを優先する他ない。
避難は住民たちでそれぞれしてもらうしかない。
そうでなければむしろ被害は拡大するばかりだ。
そう判断したのは柚葉だけでは無い。
避難誘導に割かれた自警団員たち大勢と、一部の学園生が、柚葉同様に臨戦態勢へと入っていた。
「住民の皆さんは避難を! 敵は私たちで食い止めます!」
一体、どれほどの時間が経っただろう。
どれだけの被害が出ただろう。
何人、殺られてしまっただろう。
それを数えるだけの余裕は、等に失われていた。
「ハァ……、ハァ……!」
激しい戦闘を繰り返し、荒い呼吸を繰り返す柚葉。
建物にもたれ掛かる彼女の状態は、あまりいいとは言えない。
身体中に傷を負い、魔力もかなり消耗していた。
疲労も溜まって、もう動くことすら辛くなってきていた。
周りにも幾らか他者の姿が目に入るが、それは敗北して息絶えた、自警団員や学園生だ。
そして彼女も、同じような運命を迎えようとしていた。
十は下らないほどの吸血鬼に囲まれるという、絶体絶命の事態に陥っていたのだ。
「……どうしよ、樹先輩。私、もう、死んじゃうかもしれない……!」
思わず、恐怖で涙が零れた。
彼女自身、上級の吸血鬼を二体、それ以下の吸血鬼を五体と、一年生が一人で出す戦果としては化け物じみたものだったが、それを嘲笑うかのように魔族の侵攻は留まることを知らなかった。
(死にたくない! こんな所で死にたくない!)
絶望で諦めてしまいそうで、声にもならない悲鳴を胸中で叫び、それでも涙を貯めた瞳で強気に前を見据える。
だが、覚悟を決めたところで、どうにかなる戦力差ではない。
だから、目の前で吸血鬼たちが一瞬で蹴散らされた光景は、あまりに現実離れしすぎていて__それを実行した樹に、思わず目を奪われる。
「…………え? 樹、先輩……?」
「……良かった。間に合ったね」
何が起きたのか理解出来ず、呆然と呟く柚葉の方を振り向いて、樹は微笑み返す。
但しそれは、少し寂しそうだった。
そして、彼の容姿が普段とは大きく異なる事に、柚葉は気がついた。
浅黒い肌に白髪。魔族のような黒い瞳に金の虹彩、鋭い瞳孔。
袖の長い黒衣の上に、異形の化け物の如き鎧を身に纏い、漆黒の剣を握るその姿は、魔術師と言うよりも魔族のようですらあった。
「……樹先輩。その姿は……?」
「…………ごめんね」
柚葉の問いかけに、長い沈黙の後に謝罪を口にすると、樹に追いついた二人の仲間と共にすぐその場を飛び出して行った。
「ま、待って下さい! 先輩! 樹先輩__!」
柚葉の声に、樹は止まらない。
彼はもう、柚葉の傍には居られない。
もう、止まることは出来ない所まで来てしまったのだ。
都市内に侵入した魔族たちを倒し回っていた樹たちだが、彼らが如何に優秀だろうと、無尽蔵な体力がある訳では無い。
そもそも、前線から大急ぎで駆けて戻ってきたのだから、疲弊していない方がおかしいのだ。
その点樹は、仲間二人から見てもかなり異常だった。
「おい、樹! 流石にこれ以上はキツいぞ……!」
「情けない話だけどな、俺も無理だ……」
だから、この発言は当然のものであり、樹もそれは十分に理解している。
すると樹は、二人にとんでもない事を告げる。
「……二人はここを離れて、他の小隊のサポートに入って」
「……は?」
「おい、まさかお前一人でやる気か……!?」
二人の少年は非難混じりの声を上げる。
確かに愚行だろうが、それでも樹はやるつもりだった。
そしてその事で、仲間二人を巻き込む訳には行かなかった。
「……二人がなんと言おうと、僕は行くよ」
「……お前」
「もしかしたら最期になるかもしれないからね。一つだけ、君たちを親友と見込んで、頼んでもいいかな」
「……すきにしてくれ」
ため息をついて諦めた様子の少年たちに、申し訳ないと思いながらも、樹は更に衝撃的な発言をする。
「もしも僕が、僕でなくなってしまったら。出来るだけ速やかに、僕を殺してくれ」
「はっ……、はっ……!」
少し休憩を挟んだ柚葉は、見るも無惨な光景へと変わり果てた街の中を駆けていく。
とてもじゃないが、あんな状態の樹を放って置くことなど出来るはずもなく、追いかけて来たのだ。
辺りには街の残骸だけではなく、どうすればこんなことができるのか理解できないほど、原型を留めない魔族や魔物たちの屍が無数に転がっていた。
彼女には分かる。
ずっと一緒にいたから分かる。
樹のもとに近づいている事に。
そして、いつも感じる彼の魔力とは、大きく違う事に。
こんなに離れていても、これだけ強く魔力を感じとれるというのは、初めての経験だった。
「__樹先輩!」
目的地に辿り着いた柚葉は、その名を呼んで開けた場所へと飛び出す。
その瞬間、黒い何かが自分へと迫っている様子を確認すると、慌てて回避行動をとる。
ギリギリで頬を掠めたそれは、すぐに霧散して消えていった。
「…………」
それは、樹を取り巻く黒い瘴気。
原型を留めないそれが、圧縮されて鞭のように柚葉の頬に傷をつけたのだ。
柚葉の声に反応したようだが、今の樹に正気があるようには見えない。
普段の彼からは想像がつかないほど、冷たい目で柚葉を見ていたのだ。
その視線に、柚葉は一瞬怯んだ。
無理もない事だ。
むしろ、その時間が短かった事は、褒められてもいいことだろう。
(……今の樹先輩は正気じゃない。このままじゃ魔族の侵攻に関係なく、あの人が街を破壊しちゃう。最悪、街の人達にも被害が……!)
〈日本都市〉は、今回のような都市への侵攻も想定し、地下に相当頑丈かつ巨大なシェルターを有している。
だが今の樹は、それすら破壊しかねないほどの魔力を撒き散らしている。
今の樹は、その気が無くとも容易く他者の命を奪えてしまうだろう。
そんな事をさせる訳にはいかない。
「樹先輩……、私が、あなたを止めます!」
後に彼の力は魔王由来の物だと知る事になったのだが、この時は〈神気霊装〉だとばかり思っていた。
そして柚葉は未だ、〈神気霊装〉を解放していない。
まず勝てるような差では無いのだが、大切な人を取り戻したいという想いは、そんな事で諦められるようなものでは無い。
だが、柚葉がどれほど樹を想おうとも、正気を失った樹が彼女を慮る事などない。
向かってくる柚葉を、その手に握る剣で容赦なく薙ぐ。
「うぐっ……!」
防御はしたが、それでも軽々と吹き飛ばされて地面を転がる柚葉。
それでもすぐに立ち上がると、再び樹に向かって駆け出していく。
大した策はない。
ただ、いつもの樹を取り戻したい一心で、無謀な突撃を繰り返す。
そして樹も再び、剣を薙いで振り払う。
また吹き飛ばされ、立ち上がり、振り払われて。
「う……、あ、くっ……!」
そんな事を繰り返す内に、遂に柚葉は立てなくなった。
元より、尽きかけていた体力だ。
精神論だけでは、どうにもならないのである。
すると今度は、樹の方から柚葉へと歩み寄っていった。
ただしその目は、恐ろしく冷たいままだ。
そうして彼女の元までたどり着き、その手を柚葉の首へと伸ばす。
その恐ろしい行動に、柚葉は何とか手を振り払い、倒れそうな体をそのままの勢いで樹へと抱き着いた。
(絶対に殺されてなんか上げない……! あなたに私を、殺させない!)
その行動に、樹はなんの反応も示さない。
「__」
「……樹先輩。あなたのお陰で、多くの人たちが命を拾いました。私もそうです。あなたが救ってきた人は、みんな無事です……!」
「__ぁ」
「もう、戦いは終わります。もう、大丈夫です。大丈夫だから、戻ってきて……!」
「……ッ!」
「キャッ!」
柚葉の悲痛な声による呼び掛けに、樹から反応が返ってきた。
彼の中で何があったのかは分からないが、柚葉を強く突き飛ばしたのだ。
意識が飛びそうになるのを耐えて体を起こすと、樹は自分の体を抱いて蹲っていた。
そして樹を中心に蠢く正気は、再び彼を飲み込もうと収束していく。
「ぐ、あ、うぅぅぅ……ッ!」
「樹先輩……!」
「ゆ、ゆず、は……、ちゃ、ん……!」
「そ、そうです……! 私です!」
良かった、正気に戻ったのだ、と。
柚葉はそう安堵し、樹の元へとゆっくりと歩み寄っていく。
だが、柚葉の安堵はすぐに打ち砕かれる。
樹の言葉によって。
「ごめ、ん、ね……」
「いいんです、大丈夫、ですから……!」
「そうじゃ、なく、て……、きみ、に……、おねがいが、あるん、だ……」
「お願い、ですか……?」
酷く嫌な予感がした。
「……ぼくを、ころして、くれ……!」
「…………、……で、できません」
当たり前だ。
そんな事は、柚葉に出来るはずがなかった。
それでも、樹は繰り返す。
「じかん、が、ない、んだ……! ぼくが、わるい、のは……、わかって、る……!」
「な、何を……!」
「おさえ、られない……! もう、とめられ、ないん、だ……!」
もう暴走は止められない。
心配をかけたくないがためにひた隠し、更には無茶を繰り返してしまった。
限界が近いと、自覚していながら。
完全に飲まれてしまえば、樹は更に深刻な被害を齎すだろう。
それこそ、魔族の侵攻を鼻で笑うような被害を。
そして頼みの少年二人はまだ戻ってこない。
唯一止める方法は、柚葉が今、ここで樹を殺すことだ。
「これ、は……、まおうの、ちから、なんだ……。このまま、では、かれが、めざめて、しま、う……」
「でも、そんなの……!」
少しずつ、たどたどしくなっていく樹の口調に、いよいよ限界が近いのだと、柚葉はひしひしと感じていた。
「ゆず、は、ちゃん……」
「……なんですか」
「ぼく、ね……、きみが、すき、だよ……」
「……私も、好きです。だから、これから、もっとって……」
これがチープな物語だったら良かったのに。
樹はちょっと力の調節を間違えただけで、魔王の力なんてなかった。
或いは、実は人類を滅亡させるだけの力はなかった、とか。魔王の力を抑え込む術が実はあるとか。
そんな、都合のいい物語だったら良かったのに。
目の前の光景は。体が感じてる痛みは。押し潰されそうになるほど苦しい胸は。
嫌という程、現実を突きつけてきた。
両目から大粒の涙が溢れて、ボロボロと零れていく。
ボロボロと泣きながら、柚葉は樹を強く抱き締めた。
「……樹先輩」
「……うん」
「……あなたを殺したら、私も、一緒に__」
「__ダメだ」
「ッ!」
柚葉が全てを言い切るのを待たず、ギリギリの意識で、樹は強くハッキリ却下する。
「きみ、には……、おと、うとが……、いるん、でしょ……?」
「……家を捨てたも同然の私なんて、絶対嫌われてますよ」
「……でも、だめ」
「……あなたを殺して、あなたがいない世界で生きていけって言うんですか!?」
「……ごめ、ん、ね。でも、それ、が……ぼくの、ねがい、だよ……」
樹の言葉は、今でも呪いのように、柚葉を苦しめている。
当時ならば、尚更の事だ。
「……樹先輩」
「……うん」
「……大好きです」
「……ぼくも、だよ……」
「……でも、一生恨みます」
「……うん」
「一生……ッ、恨んでやるんだから……!」
柚葉は、酷くぐしゃぐしゃな顔で、高く拳を掲げる。
魔王は絶対に目覚めさせてはいけない。
殺るなら、確実に、一撃で致命傷を。
「__あああぁぁぁぁぁッ!」
柚葉は、今までに経験の無いような絶叫を上げて、その拳を振り下ろす。
なけなしの力を振り絞り、一瞬で心臓を破壊する。
肉が潰れ、骨が砕ける感触は、今でも忘れられない強烈なトラウマになってしまった。
〈日本都市〉の歴史において、〈都市侵攻〉と同時に発生した〈魔王覚醒未遂事件〉と呼ばれる惨劇は、前者と異なり、たった一人の犠牲で済んだ。
だが、二つの事件は、〈日本都市〉に大き過ぎる傷跡を残していった。




