傷跡のアルケイン
圧倒的な質量が床を打ち据え、世界が一度、真っ白に砕け散った。
直後、鼓膜をつんざくような轟音が過ぎ去り、不気味なほどの静寂が巨大な廃工場を支配した。
もうもうと舞い上がる分厚い土煙が、夕陽の赤銅色を遮り、視界を灰色のぬかるみへと沈めていく。
パラパラと小石が崩れ落ちる音だけが、耳鳴りと共に遠くで響いていた。
追手たちもまた、突如として降り注いだ崩落の規模に警戒し、瓦礫の向こう側で息を潜めている。
ほんの数十秒。
嵐の目のような、無機質な空白の時間だった。
「……っ、が……」
泥水に沈んだ瓦礫の隙間で、ページは喉の奥から込み上げる熱い鉄の味を吐き出した。
痛い、という感覚すらない。
下半身から腹部にかけて、巨大なコンクリートの塊に押し潰されている。
神経が焼き切れ、自分の体がどこまで繋がっているのかすら曖昧だった。肺がひしゃげているのか、浅い呼吸をするたびに、内臓がヤスリで削られるような異音が鳴る。
致命傷だ。
スラムの泥水を這いずり回って身につけた、冷徹な生存本能がそう告げていた。
金と契約書だけを信じ、自分の保身を徹底してきた男の、あまりに惨めな末路。
だが、薄れゆく視界の中で、ページはピクンと指先を動かした。
己の腕の中。庇うようにして抱え込んだ空間に、温かい体温がある。
「……あ」
土埃に塗れ、端が焼き焦げた患者衣を着た少女が、信じられないものを見るような目でページを見下ろしていた。
彼女は軽傷だった。直撃を免れ、呼吸を繰り返している。
それだけで、なぜか致命傷の痛みがふっと和らいだ気がした。
「……なんで」
少女のひび割れた唇が震え、掠れた声がこぼれ落ちる。青銀の瞳が、血の海に沈むページを覗き込んでいた。
「なんで、助けた……!」
悲痛な問いだった。傷だらけの腕に刻印された無機質な数字が、微かに震えている。
なぜ助けたのか。
そんなことは、ページ自身が一番聞きたかった。
何の得もない。
契約書も交わしていない。
他人の命など知ったことか。
自分の命が一番重い。
それが俺の絶対のルールだったはずだ。
なのに、あの瞬間、彼女の抗う瞳を見た時、身体が勝手に動いていた。
「……わかん、ねぇ……」
血泡を吹きながら、ページは力なく口の端を歪めた。
皮肉な笑みすら上手く作れない。ただ、裏の一切ない、空っぽの言葉だけがこぼれ落ちる。
「……わかんねぇ、が。……お前は……無事、だ……」
それ以上は、声にならなかった。
視界の端から黒い靄が浸食してくる。
意識が、泥の底へと沈んでいく。
その体温の籠もった純粋な言葉に虚を突かれ、少女の呼吸が浅く、鋭くなった。
大きな青銀の瞳が揺れる。
彼女は無意識に、右手首に不器用によりあわされた白い髪留めの紐にすがるように指を食い込ませた。
目の前で、不器用な温もりが冷たくなっていく。
嫌だ。
もう誰も、私の前で死なせない。
少女は足元の泥に突き刺さっていた鋭利なガラス片を掴み取ると、躊躇なく自身の腕を深く引き裂いた。
直後、少女の体内で限界を迎えていた銀の血が、傷口から沸騰するように溢れ出した。
「――っ」
ページは、泥に沈みゆく視界の中で目を見開いた。
自分の目を疑うような、美しい変異だった。
少女の白い肌の下で、無数の毛細血管が青鈍色の魔術回路めいて浮かび、異様な脈動を打っている。
限界を超えた圧力が、その生身の肉を内側から焼こうとしていた。
陽だまりのようだった黄金の髪は、苦痛に反して根元から白銀に侵されていく。
傷口から溢れた血は赤を捨て、毒々しく光る液状の水銀となって宙に舞った。
足元の泥水が沸き、青鈍色の蒸気が立ち昇る。
次の瞬間、ガラスのひび割れるような微かな音とともに、空気は一気に氷点下へ落ちた。
鉄と水銀の匂いが肺の奥に張りつく。
銀の飛沫は水面に霜の花を咲かせ、すぐに散る。
煤と泥に塗れたスラムの底に、それはあまりに不似合いな冬だった。
美しく、痛々しい、融解。
次の瞬間、少女の傷口から滴り落ちた銀色の血液が、ページの胸の致命傷へと真っ直ぐに落ちた。
圧倒的な魔力の奔流を前に、少女はページを見下ろした。
傷つく恐怖を必死に押し殺し、恩人を繋ぎ止めるため、彼女はあえて極寒の氷のような冷酷な仮面を貼り付ける。
「……馬鹿な奴だ」
低く、地を這うような獣の声。
「私に関われば、地獄を見るぞ」
それは警告ではなく、宣告だった。
彼女はページの胸ぐらを掴み、選択権を完全に奪い取る。
「死なせはしない。お前の命は、地獄の底まで私がいいように使ってやる」
有無を言わさぬ、呪いの強要。
それは理不尽で、暴力的で、ひどく不器用な救済だった。
迫り来る圧倒的な銀色の燐光を前に、ページは激痛で痙攣する口元に、彼らしい自嘲の笑みを張り付けた。
「……最悪な、取引だ……」
――カッ!!
視界が白濁する。
魔力ゼロの空っぽの身体に、規格外の純度を誇る異物が強引に流し込まれた。
血が沸騰する。神経が内側から千切られ、焼き切れた魔術回路が無理やり溶接されていくような、発狂寸前の激痛。
「ぐっ、ぎぃあああああッッ!!?」
全身の毛細血管が青鈍色に発光し、皮膚の下を暴れ狂う。
命を燃やし、魂を削り落とすような熱量。
死の淵にあったページの心臓が、無理やりエンジンを吹かされたように爆発的な脈動を再開する。
血による直接刻印。
理を破壊する禁忌の術式が、二人の命を物理的に繋ぎ合わせた。
瓦礫の向こう側で、血肉のワイバーンと研究所の追手たちがその異常な気配に気づき、一斉に殺到してくる。
彼らは一切軋まない最高級の魔法杖や短銃の触媒を構え、冷酷に少女を処分しようと魔力を練り上げた。
だが、遅い。
「名は、アワユキ……ッ!」
少女の青銀の瞳が、黄金色へと燃え上がった。
「覚えておけ!!」
叫びと共に、彼女の全身から溢れ出した銀色の血が濃霧となり、周囲の空間を呑み込んだ。
濃霧の中で骨と肉が軋み、再構築される異様な音。
霧が晴れた瞬間、そこに少女の姿はなかった。
代わりに顕現したのは、体高数メートルにも及ぶ、圧倒的な暴力を具現化したかのような『巨大な銀狼』だった。
――ガァァァァァァッッ!!!
大気を震わせる咆哮。
研究所の猟犬たちが魔法を放つより早く、銀狼は視認できない速度の弾丸となって宙を蹴った。
最初に餌食になったのは、宙を舞っていた血肉のワイバーンだった。銀狼の強靭な顎がワイバーンの首筋に喰らいつき、そのまま巨大な体躯を瓦礫の壁へと叩きつける。
グチャリ、と悍ましい音を立てて、悍ましい血の魔術がひしゃげ、霧散した。
「なっ――撃て! 殺せ!!」
防弾の外套を羽織った追手の一人が絶叫し、杖から炎の魔術を放つ。
だが、銀狼が前肢を無造作に振り抜いた瞬間、放たれた炎ごと、男の上半身が不可視の質量によって消し飛ばされた。
速度、質量、すべてが規格外。
決して軋むはずのなかった高級な杖が、無残に折れ曲がって泥水に沈む。銀狼がステップを踏むたびに、宙には美しい銀色の霜がガラスの花のように咲いては消え、残された追手たちを次々と氷点下の絶望へと叩き伏せていった。
反撃の隙すら与えない、一方的な蹂躙だった。
「ハァッ……ハァッ……」
激痛と過呼吸に苛まれながらも、ページは血塗れの瓦礫の中から自身の身体を引きずり出した。
傷口は焼け焦げ、ただ無理やり『死を先延ばしにされている』だけの歪な再生。
だが、その脳裏には、アワユキの銀の血を共有したことで、極めて冷徹でクリアな思考が蘇っていた。
追手の増援が上層階の穴から次々と降りてくるのが見えた。
このまま力任せに暴れ続ければ、いずれ銀狼の魔力も底をつくだろう。
ページは血反吐を吐き捨てながら、周囲の構造と残された時間を瞬時に再計算した。
ここは水没した廃工場。そして、壁の向こう側には……。
「アワユキッ!!」
ページは、残るすべての気力を振り絞って怒鳴った。
脳内に浮かび上がった周辺地図を睨みつけ、指を差す。
「雑魚はもういい! そこだ! 頭上の太い配管と、その奥の壁をブチ抜け!! 」
意図を本能で理解した銀狼が、群がる追手たちを咆哮だけで弾き飛ばし、低く身を沈める。
次の瞬間、眩い銀色の彗星となって空を蹴った。
強靭な顎と爪が、限界を超えて圧力を溜め込んでいた太い蒸気管と、その奥にある脆弱な壁面を跡形もなく噛み砕く。
ズガァァァァァンッッ!!!
破滅的な破壊音。
壁が崩壊し、せき止められていた外の濁流が一気に工場内部へと雪崩れ込んだ。
数千トンの泥水と超高圧の蒸気が混ざり合い、凄まじい渦を巻いて、残っていた追手たちを呑み込んでいく。
悲鳴すら上げる暇もない。
圧倒的な自然の暴力と魔力の残滓が、工場の底にある地底湖へとすべてを鉄屑もろとも洗い流していった。
……ザアァァァ……。
濁流が静まり返り、冷たい水音だけが廃工場に響き渡る。
魔力を使い果たし、限界を迎えた銀狼は霧散していき、空中で元の少女の姿へと戻る。
意識を失い、糸の切れた人形のように落下してくるアワユキを、満身創痍のページがふらつく足取りで受け止めた。
「……ぐっ、お、も……」
細い身体の重みと、その体温。
間違いなく、自分が生かした命であり、自分を呪縛した元凶。
「……ほんと、三流はこれだから困る」
ページは誰に言うでもなく悪態をつきながら、自身の懐に指を這わせた。
そこにあるはずの『血で錆びた銅貨』の冷たさよりも、今は腕の中の少女の重さの方が、圧倒的に存在感を放っている。
当初の依頼であった例のケースはどこかへ流されてしまっていた。
彼は崩壊を続ける廃工場に背を向け、泥水の中を這うようにして進んだ。
少し離れた瓦礫の影。
無傷で隠してあった相棒のスクーターのシートにアワユキを押し込み、無理やりエンジンをかける。
鈍い駆動音が、煤けた夜気の中に響き渡る。
「……最悪な夜だ。給料分は、きっちり働いてもらうからな」
気絶した少女に向けたその声には、自分でも呆れるほどの未練がましい優しさが混じっていた。
スロットルを回す。
スクーターは泥を跳ね上げ、スラムの暗闇の中へ――もう二度と『普通の世界』には戻れない、深く冷たい夜の底へと姿を消していった。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
小説投稿はまだまだ初心者なので、読みづらい部分もあるかもしれませんが、楽しんでもらえたら嬉しいです。
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今後も少しずつ更新していく予定なので、よろしくお願いします。




