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泥水に咲く銀の花

 ――ガンッ!


 空中で無理やり上体を捻った少女は、頭上から降ってきた巨大な瓦礫を裸足で蹴り抜いた。

 硬質な金属音が赤銅色の空間に反響する。

 常人なら容易く粉砕されるはずの衝撃を、彼女はしなやかな獣のバネで完全に殺し、そのまま砲弾のように泥水の浅瀬へと着地した。

 

 凄まじい水飛沫が数メートルの高さまで跳ね上がり、周囲の水面がすり鉢状に大きく弾け飛んだ。


 その瞬間、彼女の足元から、尋常ではない銀色の魔力の圧力が爆発的に広がった。


 夕陽が反射する赤銅色の空間を、冷たく無機質な光が力ずくで塗り替えていく。

 水飛沫に混じって明滅するのは、ギラギラと輝く銀色の燐光の残滓だった。

 肺の奥まで凍りつくような、鉄と水銀の匂いが混ざった濃厚な魔力の気配。

 

 彼女の傷だらけの身体から漏れ出すその異常な力の波動に、ページは柱の影で思わず息を呑んだ。


 水煙が晴れていく。

 泥に塗れ、ひざまずくようにして体勢を立て直した少女の輪郭が浮き彫りになる。

 頭の横にピンと立った黄金の獣の耳と、水を含んで重くなった豊かな先の白い尻尾。ボロボロの患者衣の隙間からは、目を背けたくなるほど無数の生々しい傷跡と、腕に刻まれた無機質な数字の烙印が覗いていた。

 だが、それ以上に彼女の全身から立ち昇る銀色のプレッシャーが、ただの人という枠を大きく逸脱していることを物語っていた。


 バシャリ……バシャリ……。


 息をつく暇もなく、ぽっかりと空いた天井の穴から、さらなる影たちが音もなく降下してきた。

 乱れのない、完璧な着水音。

 

 水面に降り立ったのは、統一された黒の装束に身を包んだ五人の男たちだった。

 スラムの泥など一度も舐めたことのない、塵一つついていない洗練された装備。

 そして何より、体温や感情を一切感じさせない、まるで精巧な機械のような無機質で統制された動き。


 彼らを見た瞬間、ページの脳内に警鐘が鳴り響いた。


(……上層の連中か)


 圧倒的な異物感。

 ここには存在してはならない捕食者たちの気配。

 アジトでフリントたちに常日頃から言い聞かせている鉄則が、思考の最前列に立ち上がる。

 

『上層には絶対に関わるな』


 ページの脳内で、瞬時に冷徹な損益計算が弾き出される。

 奴らの視線も、研ぎ澄まされた殺気も、完全にあの獣人の少女ただ一人に向いている。柱の影に潜む自分には、まだ誰も気づいていない。

 

 ならば、答えは一つだ。

 

 あいつらが少女を狩るために動く数秒間。その時間を囮にして、自分は背後の暗がりに隠してあるスクーターの横を抜け、崩れた配管跡の隠し通路から外へ脱出する。

 スラムの運び屋として、最も正しく合理的な判断だ。


 右足に力を込め、音もなく退路へ向かって踵を返そうとした、その時だった。


 チャキ……。


 上層の追手たちが、一斉に懐から小ぶりの真っ白なナイフを引き抜いた。

 無表情のまま、彼らは一切のためらいなく、自らの左腕の動脈を深く切り裂いた。


 どくどくと溢れ出した赤い血が、足元の泥水へと滴り落ちる。


 ぽたり。ぽたり。

 

 ページは眉をひそめた。自傷?

 何を狂った真似を。何かの触媒に血を吸わせる気か?


 だが、次の瞬間、ページは自分の目を疑い、泥水にブーツを縫い付けられたように足を止めた。


 水面に落ちた血が、拡散しない。

 それどころか、まるで一本の赤い糸のような意思を持ち、濁った水の上を滑るように這い回り、複雑な幾何学模様――『術式の陣』を不気味な速度で描き始めたのだ。


 ありえない。

 

 術式は、金属や石などの『固体』にしか刻印できない。それが絶対の理だ。流体である血や水の上で陣を維持するなど、狂気の沙汰だった。

 

 流体である血や水の上で陣を維持するなど、理に対する明らかな違反。

 狂気の沙汰だった。


「……ッ」


 肺の奥で、空気が完全に凍りついた。

 水面を這い回る血の陣。

 その冒涜的な行動のすべてが、ページの記憶の奥底に堅く封印していた忌まわしい記憶と、寸分の狂いもなく完全に重なり合った。


(まさか……あれは、俺が、考案した……ッ!)


 視界が激しく明滅する。

 

 冷たく暗い実験室。

 拘束具。

 無理やり刻まれた魔術回路の激痛。

 

 危険すぎるが故に未完成のまま葬り去ったはずの『血の刻印技術』が、今、上層の手によって完璧な兵器として目の前に現れようとしていた。


 圧倒的な絶望と悪寒が、ページの背筋を氷のように突き抜ける。


 ブォンッ!


 水面の血の陣が、不気味な脈動と共に一気に膨張した。

 周囲の泥水を強引に巻き込みながら、巨大な肉の塊が形成されていく。

 数秒後、そこに顕現したのは、赤い血と黒い泥だけで構成された、全長数メートルに及ぶ禍々しい『ワイバーン』だった。

 咆哮すら上げず、ただ圧倒的な殺戮の意志だけを放ち、血の化け物は一直線に少女へと突進する。


 対する少女は、驚異的な反射神経で泥を蹴り、鋭い爪の最初の一撃を間一髪で回避した。

 だが、丸腰の彼女に反撃の手段はない。圧倒的な質量と暴力の前に、彼女は防戦一方で、後ろへ、後ろへと追い詰められていく。


 ズガァァァンッ!!


 少女を掠めたワイバーンの巨大な爪が、空振りの勢いのまま、工場の天井を支える太い主柱を深く抉り取った。

 メキィッと、建物の骨組みが悲鳴を上げるような、致命的な軋み音が工場全体に響き渡る。


 ページは血の気を失った。

 その主柱は、つい先ほど、ページ自身が三下を一掃するために仕掛けた蒸気管の爆破トラップの至近距離にあった。

 

 爆発の余波で脆くなっていたコンクリートに、ワイバーンの暴力的な一撃が重なる。

 致命的な臨界点を超え、水没した廃工場がついに本格的な崩落を始めた。


 ゴゴゴゴゴッ、という地鳴りと共に、巨大なコンクリートの塊と鉄骨が、大雨のように天井から降り注ぐ。

 瓦礫の巨岩が、工場の正規の出入り口を完全に塞ぎ、逃げ惑う少女の周囲の空間を物理的に削り取っていく。


 終わった。

 

 少女の逃げ場は、完全に塞がれた。

 ワイバーンと上層の追手たちの意識は、逃げ場を失い潰れゆく彼女にのみ向けられている。誰も、壁際の暗がりにいるページなど見ていない。


 今だ。

 

 今なら、背後の隠し通路から自分だけは無傷で抜け出せる。スクーターもそこにある。

 

 他人の命など知ったことか。

 自分の命が一番重い。

 それがスラムで生き抜くための、俺の絶対のルールだ。


 ページは奥歯を噛み締め、少女に背を向けようとした。


 だが、その一瞬。

 ほんのわずかな未練のように、視界の端に映った彼女の姿が、ページの身体を金縛りのように硬直させた。


 巨大なコンクリートの塊が頭上に迫り、血のワイバーンの爪が目前に迫る、完全な死の淵。

 圧倒的な絶望を前にしても、彼女は決してあきらめてはいなかった。


 泥に塗れ、傷口から赤い血を流しながら、それでも彼女の青銀の瞳は、理不尽な死を力強く睨み据えていた。

 

 怯えはない。

 諦めもない。

 

 あるのは、ただ泥臭く、不格好に、理不尽な運命に抗い『生きる』ことだけを渇望する、純粋で暴力的なまでの命の輝き。


 ――ドクン。


 胸の奥で、ページの魂が致命的な音を立てて弾け飛んだ。


 冷たく暗い実験室で、拘束具に繋がれ、何もできずにすべてを奪われた無力な自分。

 運命に屈し、手切れ金としての銅貨を握りしめ、冷徹な計算という名の『諦め』を鎧にして生きてきた自分。

 

 その対極にある、絶対に折れない彼女の瞳が、ページの視界を、脳髄を、魂を、一瞬にして焼き尽くした。


 目が離せない。

 こんなにも美しく、不格好に生き足掻く命を、俺は知らない。


(……ここで見捨てれば、俺はあの時の『見下ろしていた奴』と同じになる)


 自分の矜持が、摩擦熱で溶解していく。

 助ける理由などない。

 金にもならない。

 命の危険しかない。

 だが、そんな理屈はどうでもよかった。ただ、あの青銀の瞳が、理不尽な暴力によって永遠に失われることだけは、ページの魂が絶対に許容できなかった。


 彼が長年かけて完璧に組み上げてきた『冷徹な運び屋』という分厚い仮面が、音を立てて粉々に砕け散った。


「……ああクソッ、俺のバカがッ!!」


 自分自身への悪態を吐き捨てながら、ページは懐の銅貨から手を離し、泥水を蹴り飛ばした。


 非合理極まりない衝動のままに、安全な退路へ向かうはずだった足を反転させ、崩落の中心へと弾かれたように駆け出す。

 コートを翻し、落下してくる鉄骨をすり抜け、ワイバーンの殺気の渦中へと飛び込む。


「ッ――!」


 少女が驚きに目を瞠った瞬間。

 巨大な瓦礫が彼女を押し潰そうと落下してきたその真下へ、ページは滑り込むように身を投げ出し、彼女の小さな体を庇うように上から強く抱きしめた。


 ドッ、ゴォォォォンッ!!!


 世界が反転するような凄まじい衝撃と轟音。

 背中の上空で巨大なコンクリートの塊同士がぶつかり合い、奇跡的にできたわずかな隙間に、二人の体は完全に閉じ込められた。


 埃と泥の匂い。

 腕の中にいる少女の、激しい心音。

 背中を叩き潰すような鈍い激痛が全身を貫き、視界が急速に狭まっていく。


(……柄じゃ、ねぇのに……)


 肺から漏れ出たのは、後悔ではなく、微かな笑い混じりの息だった。

 暗闇の中、ページの意識は、彼女の熱だけを腕に残したまま、深く冷たい赤銅色の底へと沈んでいった。

ここまで読んでくださりありがとうございます!

小説投稿はまだまだ初心者なので、読みづらい部分もあるかもしれませんが、楽しんでもらえたら嬉しいです。

評価・ブックマーク・感想などいただけると、かなりモチベになります。

今後も少しずつ更新していく予定なので、よろしくお願いします。

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