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血と錆の廃工場

 南区へ向かうスクーターの低い駆動音だけが、煤けた風に溶けていた。

 歪んだ建物の隙間を縫うように走るうち、空気がじっとりと重さを増していく。

 肺に吸い込む風には、下水と古い鉄が酸化した匂いが混じっていた。

 

 エンジンの微かな震えがシート越しに内股へ伝わってくる。

 ページはスロットルを握る自分の指先が、妙に白く強張っていることに気づき、乱暴な手つきでグリップを握り直した。


 手は、震えていない。

 冷たい風が体温を奪っているだけだ。


 深く息を吐き出し、緑色のゴーグルの奥で視線を鋭く細める。


 指定された座標は、スラムのさらに底。地盤沈下によって半分が水没した、巨大な廃工場だった。

 歪んで半開きになった鉄扉の隙間に身を滑り込ませると、外の喧騒が嘘のように分厚い静寂が鼓膜を塞いだ。


 広大な空洞。

 床の大部分は、どこから流れ込んだのか分からない濁った地底湖に浸食されている。

 崩れ落ちた天井や壁の隙間から、夕暮れの斜陽が槍のように差し込んでいた。


 その光が、水面を叩く。


 工場全体を覆う無数の鉄骨と、へばりついた分厚い錆。

 夕陽を吸い込んだ水面の乱反射と交じり合い、空間のすべてが揺らめいていた。


 赤銅色。

 生々しい、血と錆の色だった。


 ぴちゃん、と。

 遠くで水滴が落ちる音が響いた。


 ページの足が、泥濘の中でピタリと止まる。

 視界を埋め尽くす赤い揺らめきが、網膜の裏側にこびりついた記憶を引きずり出そうとする。

 

 床を這う赤い飛沫。

 拘束具の冷たさ。

 暴走する術式が放つ青鈍色の燐光と、狂気に満ちた眼差し。


 呼吸が、無意識のうちに浅くなる。

 ページは微かに引きつりそうになる頬の筋肉を奥歯を噛んで押さえ込み、コートの右ポケットに突っ込んだ右手でピンと血で錆びた銅貨を親指で弾いた。


 ざらついた縁が、指の腹に食い込む。

 冷たくて、硬い。

 親指で弾いた金属の痛覚だけを頼りに、ページは強引に現実へと意識を引き戻した。


 ブーツの底で泥水を踏みしめ、影の濃い場所を選んで歩き出す。


 時間はまだある。

 視線を鋭く巡らせ、空間の構造を解体していく。

 

 柱の強度。

 足場の崩れ具合。

 逃走に使える頭上の梁。

 そして、水面にどろりと浮いている虹色の膜――大量の廃油の吹き溜まり。そのすぐ横には、かつての稼働を思わせる、大人一人が抱えきれないほど太い蒸気管が這っていた。

 表面には赤錆が浮いているが、繋ぎ目からはまだ微かに白煙が漏れている。


 ページは音もなく蒸気管に近づくと、工具差しからコグに作らせた小さな起爆装置を引き抜いた。

 配管の脆くなった継ぎ目にそれをねじ込み、導線の一部を水面の廃油へと垂らす。


 誰が来ようと関係ない。

 盤面を支配するのは、いつだって先に仕込んだ者だ。

 無機質な作業の反復が、赤い光の中でささくれ立っていた神経を平坦に均していく。


 準備を終え、死角となる柱の影に身を沈めてから十数分後。

 チャプ、チャプという不規則な水音が、重い静寂を破った。


 五人。いや、六人。


 夕陽を背にして現れた影たちは、足並みこそ揃っていないものの、隠しきれない刃物や鉄パイプの輪郭をコートの裏に覗かせていた。

 足取りには、狩り場に踏み込んだ獣特有の重さがある。

 先頭を歩く大柄な男の右手に、黒いケースが提げられていた。


 その中身が、かつて自分が生み出してしまった悪夢の残骸。

 ケースの無機質な黒が赤い光を弾くのを見た瞬間、再び血の匂いが鼻腔を突いた気がした。

 だが、ページの表情は凍りついたように一ミリも動かない。


 彼は影からゆっくりと歩み出た。


「早いな。そっちも暇じゃないってことか」


 声は、泥水のように低く平坦だった。

 男たちが一斉に足を止める。先頭の男がニヤリと下卑た笑いを浮かべ、ケースを軽く持ち上げた。


「運び屋のページだな。話はついてる。これが例の『プロトタイプ』だ」


 ちゃぷり、と男が泥水を蹴る。


「確認させてもらおう。こっちの――」


 ページの言葉が終わるより早く。


 チャキ、と。

 無骨な金属音が、水没した工場に響き渡った。


 六つの銃口が、一斉にページを捉えていた。

 誰も交渉の席になど着いていない。彼らの目は、初めから路地裏のネズミを駆除する時のそれだった。


「悪いな、運び屋。上からの指示でね。お前にはここで消えてもらう。そのケースも、お前の命も、俺たちが頂くって寸法だ」


 男が勝ち誇ったように喉を鳴らす。

 

 静寂。

 夕陽に照らされた水面が、ゆっくりと揺れる。


 向けられた銃口の群れを見回し、ページは短くため息をついた。


「……ほんと、三流はこれだから困る」


「あ?」


「いつも自分が優位だと勝手に勘違いする」


 言いながら、ページは懐から細工付きのライターを取り出した。

 親指で蓋を弾く。

 カチン、と澄んだ音が赤銅色の空間に反響した。


 男たちの顔に微かな戸惑いが浮かんだ瞬間、ページは指先のライターを、足元の水面――虹色の廃油の溜まり場へと無造作に放り投げた。


「なっ――」


 着水。

 同時に、小さな炎の種が油の膜を舐め取った。


 チロリと生まれた火の手は、一瞬にして鮮やかな火蛇へと姿を変え、水面を滑るようにして古い蒸気管へと駆け抜ける。


 ドゴォォォォンッ!!


 腹の底を物理的に殴りつけるような大音響。

 限界を超えて圧力を溜め込んでいた太い配管が、起爆装置の衝撃によって内側から弾け飛んだ。

 超高圧の蒸気と煮えたぎる熱水が、爆発的な勢いで吹き荒れる。


「ぎぃああああッ!?」


 絶叫は、轟音と分厚い白煙に一瞬で掻き消された。

 銃に魔力を込める暇すら与えられず、男たちの体は宙を舞い、濁った水の中へと次々に沈んでいく。


 もうもうと立ち込める白い蒸気の向こうで、ページは一歩も動いていなかった。

 襲い掛かる熱風が、黒いロングコートをばさりと翻す。

 ページはゴーグルを額にずらした。

 

 視線を落とすと、男の手から離れた黒いケースが、泥水の浅瀬に転がっていた。

 ページはゆっくりと歩み寄り、泥にまみれた取っ手を掴み上げる。

 ずしりとした重み。留め金に異常はない。


 ふぅ、と。

 肺の底に溜まっていた重たい空気を、一つ残らず吐き出す。


 蒸気が徐々に晴れていく。

 水に浮かんだ男たちはピクリとも動かない。水面が、静かに壁際へと消えていく。


「……結局は、ただの三下か」


 昨夜から胃の腑にへばりついていた嫌な胸騒ぎも、ただの杞憂。

 自分が組み上げた冷徹な計算は、今日も完璧に機能した。

 歯車は正しく噛み合い、不要なリスクはすべて排除された。


 仕事人の仮面が、音もなくひび割れる。

 

 もう、強張る必要はない。


 安堵の息を吸い込もうと、ページが僅かに天を仰いだ。


 ――その、瞬間だった。


 ドッ、バァァァァンッ!!


 頭上。

 廃工場の巨大なドーム型の天井が、内側から吹き飛ぶような轟音と共に木端微塵に爆ぜた。


 光が乱反射する赤銅色の空間に、本物の夕暮れの空がぽっかりと口を開ける。

 巨大なコンクリートの塊と、ひしゃげた鉄骨の雨が、工場の湖面に向かって凄まじい質量で降り注いできた。

 

「は……?」


 ページは咄嗟に後退り、信じられないものを見るように上を見上げた。


 崩落する瓦礫と土煙の只中。

 夕陽を背にして、一つの影が落ちてくる。


 なんだ、あれは。

 獣?犬?


 空を舞うそのシルエットには、黄金の耳と、豊かな毛並みのしっぽが見えた。

 上層の区画から、野良の獣でも落ちてきたのか。咄嗟に現状を処理しようとしたページの脳は、一瞬だけそう錯覚した。


 だが、土煙を裂いてその影が近づくにつれ、認識のズレが暴力的なまでに修正されていく。


 獣じゃない。

 サイズの合わない、裾が焦げたボロボロの患者衣。

 風に激しく煽られる布地の隙間から、無数の生々しい傷跡に覆われた華奢な手足が覗いている――

 

 少女。

ここまで読んでくださりありがとうございます!

小説投稿はまだまだ初心者なので、読みづらい部分もあるかもしれませんが、楽しんでもらえたら嬉しいです。

評価・ブックマーク・感想などいただけると、かなりモチベになります。

今後も少しずつ更新していく予定なので、よろしくお願いします。

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