ヘラルドの招待
夜の帳が完全に降り切った頃、ページはアジトの重い扉をそっと閉めた。
子供たちの穏やかな寝息と、わずかに残るトースターの焦げ臭い匂いが、冷たい鉄の扉一枚で完全に遮断される。
白い上質な紙に流麗な文字で記されていたのは、西区にある地下貯留槽という指定場所だけだった。
肺を満たしたのは、錆とヘドロが混ざったような、スラム特有の冷たい夜の空気。
アジトのある区域から、さらに底の底へ。西区を目指して泥濘の路地を歩く。
愛用のスクーターを使えば早いが、あのエンジン音は不用意に敵を呼ぶ。
誰がどこで耳を澄ませているか分からない西区では、靴底を泥に沈ませながら静かに進むのが最も合理的だった。
西区に足を踏み入れた途端、肌にまとわりつく空気が一段と重くなった。
崩れかけた煉瓦の壁。
半分水没した廃屋。
暗がりの至る所から、ねっとりとした名無しの視線が絡みついてくる。
ただ歩いているだけで、命の値段を品定めされるような不快感。
目的地の近くまで来たところで、ページはふと足を止めた。
懐から細工付きのライターを取り出し、カチンと蓋を開ける。
小さな炎を灯すふりをして、磨き上げられた金属の表面で背後の路地を映し出す。
……尾行はない。
見張られている感覚はスラムの標準だ。
安全を確認し、半壊した小さな小屋へと身を滑り込ませた。
かつては何かの管理室だったのだろう。壁にはひしゃげた配電盤が張り付き、床には腐った木製のタンスが倒れている。
ページは無造作にそのタンスを蹴りのけ、瓦礫を退けた。下から、錆びついた鉄のハッチが顔を出す。
ここは以前から知っていた、地下への隠し通路だ。
ギギギとハッチを引き上げると、真の暗闇と、じめじめとした冷気が下から這い上がってきた。
あらかじめ用意していた魔石油ランプに火を灯す。
ガラスの向こうで、不純物の混じった薄緑色の炎が不健康に揺らめき、暗闇をぼんやりと照らし出した。
長い長い階段を下り、通路を抜け、下水道の巨大な貯留槽へと出る。
広大な空洞の中では、どこからか滴り落ちる水滴の音が、不規則に反響していた。
ページは立ち入る前に、黒いブーツの先で壁の配管をカン、カン、と叩いた。
仕掛けられた罠や、待ち伏せの気配を探るルーティン。今日ここで会う相手に、こんな物理的な警戒が何の意味も持たないことは百も承知だ。
それでも、冷たい鉄を蹴る感触が、自分の心に余裕をもたせるためには必要だった。
ぴちゃっ、と遠くで水が跳ねる。
そして。
――コツ、コツ。
優雅な靴音が響いた。
前方の暗闇からではない。
頭上からだった。
ページが視線を上げると、巨大な垂直のコンクリート壁を、一人の男が歩いて降りてきていた。
重力を完全に無視し、垂直の壁に『水平』に立ち、優雅に歩みを進めている。
皺一つない仕立てのいいスーツ。両目を覆う藍色の法衣のような眼帯。
男の全身は、目を凝らさなければ見えないほどの薄く青い膜に覆われていた。
理を捻じ曲げる、異常な魔術の光。
ヘラルド。
裏社会のフィクサー。
彼は垂直に立ったまま、舞台役者のように胸に手を当てて一礼した。
貯留槽の中に、重たい沈黙が落ちる。
背筋を冷たい汗が伝う。
重力を操るなんて聞いたことがない。
一体どういう原理の魔道具なのか、頭の片隅で興味が粟立ったが、それ以上に目の前の存在が放つ異物感がページの神経を逆撫でした。
ペースを握られれば、飲み込まれる。
ページは微かに引きつりそうになる頬の筋肉を気力で押さえ込み、皮肉屋の笑みを貼り付けた。
「……ついに重力まで、アンタには関係なくなったのか?」
静かな空間に、ページの少し低い声が響く。
「こんばんは、ページ君」
ヘラルドは片眼鏡の奥で青い光を細め、心底楽しそうに微笑んだ。
「壁を歩くのも優雅なものだよ? スラムの泥で、靴を汚したくないからね」
上品で気軽な挨拶。
その響きだけで、自分がいる底辺との圧倒的な格差を突きつけられる。
「今回の依頼もよくやってくれたよ。さあ、報酬を選びたまえ。金、モノ、情報。どれにするかい?」
ページは少しだけ間を置いた。
モノは今の装備で十分だ。情報——昼間にフリントが嬉々として語っていた、上層の連中が騒がしいという噂が一瞬頭をよぎる。
だが、関わって得をする匂いが全くしなかった。
「……金をくれ」
余計な言葉は削ぎ落とし、短く答える。
ヘラルドは小さく頷き、懐から手のひらサイズの四角い魔道具を取り出した。カチリと鳴った瞬間、彼の体を覆っていたのと同じ青い膜が空中にぽっかりと形成される。
ヘラルドはその膜の中へ、金の入った革袋を無造作に放り投げた。
重いはずの袋は地面に落ちず、青い光に包まれたままフワフワと宙を浮き、ゆっくりとページの手元まで滑るように飛んでくる。
ページはその技術の無駄遣いに呆れたようなため息を一つこぼし、青い膜から袋を引き抜いた。
中身の額が正確であることを指先の重さで確認する。
「――確かに。しばらく店じまいさせてもらう」
これ以上の接触は危険でしかない。
長居は無用とばかりに、ページは踵を返し、緑のランプが照らす暗い通路へと歩き出そうとした。
「時に……」
背後から、声が滑り込んできた。
「君の探し物が見つかったのだけど」
ぴたり、と。
ページの足が、地面に縫い付けられたように止まった。
心臓が嫌な音を立てる。
罠だ。
直感が、経験が、絶対に振り返るなと全身の警鐘を鳴らしていた。
ページは振り返らないまま、無意識のうちに懐へ手を突っ込んだ。
そこに忍ばせている『血で錆びた銅貨』を親指で弾く。
カチャ……カチャ。
静かな貯留槽に、無意味な金属音が響く。
ページはゆっくりと振り返り、顔から一切の感情を消し去って、無言でヘラルドを見据えた。
ヘラルドは口角を吊り上げた。
「君が探している『血の刻印技術』……だったかな。あれは随分と高値で取引されるようだが、一体、どこの誰がそんなイカれた技術を思いついたのだろうね?」
知っていて、わざと聞いている。悪趣味極まりない。
ページは銅貨を握り込み、喉の奥から絞り出すように声を低くした。
「アンタには関係ない話だ。――で、俺に何をさせたい?」
「おや、私は何も言ってないが」
ヘラルドは両手を軽く広げ、無害を装うように肩をすくめた。
「ただ、依頼を受けてくれるのなら、この情報は前払いで渡してあげてもいいと思ってね」
狡猾な蜘蛛の巣だ。
それでも、あの欠陥技術がどこかの三流組織に渡ればどうなるか。
過去の亡霊が、喉元に刃を突きつけてくる。
……あんなものが広まれば、俺の仕事の邪魔になる。ここで回収して処分した方が、後々の厄介事を思えば高くはない。
あくまで合理的な損益計算だと自分に言い聞かせ、ページは暗い赤銅色の瞳でヘラルドを睨み返した。
その視線を、ヘラルドは極上のワインでも味わうかのように受け止める。
「場所は放棄された南区の廃工場さ。君にはその取引に一枚噛ませてあげるよ」
一歩、ヘラルドが近づく。
その目には、純粋な愉悦だけが濁りなく光っていた。
「奪うもよし、燃やすもよし、好きにしていいからね」
「……アンタはそれでどんな得をするんだ?」
「別にどうでもいいさ」
ヘラルドはふふっ、と喉の奥で笑った。
「君がどうするのかが気になって仕方がないんだ。さあ行ってらっしゃい? 取引は明後日の夕刻だよ」
盤上の駒を眺めるような、残酷な眼差しを布越しに感じる。
ページは忌々しげに息を吐き出す。
「チッ、俺はアンタにとっちゃただの遊び道具ってことか」
微かにヒビ割れかけた仕事人の鎧を皮肉で縫い留め、ページは今度こそ振り返ることなく、緑のランプが照らす暗闇へと歩き出した。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
小説投稿はまだまだ初心者なので、読みづらい部分もあるかもしれませんが、楽しんでもらえたら嬉しいです。
評価・ブックマーク・感想などいただけると、かなりモチベになります。
今後も少しずつ更新していく予定なので、よろしくお願いします。




