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泥の街の運び屋

 劣化した配管から滴る泥水が、ひび割れた石畳を規則的に叩く。

 その淀んだ音を黒いブーツで無造作に蹴り飛ばし、黒いコートをまとった少年――ページは息を切らして薄暗い路地裏を駆け抜けた。

 

 湿った空気が肺に絡みつく。

 鼻につくのは錆びた鉄と泥の匂い。そこに、古い油と腐った水の臭気が混じる。

 スラムの夜は、だいたいこういう匂いがした。


 背後で怒鳴り声が跳ねる。


「待て、このガキ!」

 

「ブツだけ置いてけ!」

 

「ガキが一人で抱えるにゃ重てぇだろ、手伝ってやるよ!」


「はいはい、元気だねお前ら……」

 

 親切の押し売りにもほどがある。


 ページは肩で息をしながらも、片手でコートの内ポケットから数字がところどころ抜けた懐中時計を引き抜いた。

 ぱちん、と金具を外し、時計の針を一瞥する。


 配達期限まで、あと七分。


「最悪だ。追われるのはまあいいとして、遅配は普通に困るな」


 軽いぼやきを置き去りにして路地の角を曲がる。


 抱えたケースを脇に引き寄せる。

 中身は高価な医療物資。

 おそらく臓器あたりだろう。

 

 ページは裏路地を身を低くして駆ける。

 曲がり角を一つ、二つ。

 頭上では蒸気の抜ける唸りが響き、頭のすぐ横を古い配管が這っている。

 

 ページの黒いロングコートが、狭い路地の湿った風を孕んでばさりと翻った。

 

 使い込まれた装備。

 泥に塗れた逃走。

 そして、いつも通りの荷運び。


 のはずだった。

 

 スラムの泥水はそう簡単に思い通りには流れない。


 次の角を曲がった瞬間、ページは舌打ちした。

 

 行き止まりだ。


 正面の壁が崩れ、煉瓦と鉄骨の残骸が路地を塞いでいる。

 ケースを抱えたまま乗り越えれば、確実に背中を討たれる。

 

 迫る足音。


「市街図の更新を怠ったツケ、ってわけか」

 

 壁の高さ、残骸の角度、配管の位置。

 視線を素早く走らせながら、ページは足を止めるふりをして、ブーツのつま先で小さな打ち金を石畳の隙間に滑り込ませた。

 

 背後からチンピラたちが路地へ雪崩れ込んできた。


「追い詰めたぞ!」

 

「へへ、袋のネズミだなぁ」

 

「大人しく渡せば痛い目みずに済む。ほら、よこせ」


 ページは振り返った。

 錆色の瞳が、暗がりで鈍く光る。


「そんな顔で言われてもなぁ?」


 言いながら、指先だけは静かにコートの裏へ滑り込ませる。

 

 工具差しに忍ばせていた小型の筒。

 真鍮のシリンダー。

 掌に収まる程度の、簡易展開式の射出機構。


 だが、その前に。


 チンピラの一人が、足元で何かを踏み抜いた。


 ばきっ。


「え」


 次の瞬間、打ち金に繋がれた細い鋼糸が石畳の隙間から跳ね上がり、男のすねを深く裂いた。

 男は悲鳴を上げて転がり、傷口から滲んだ赤が石畳に飛び散った。


「ぎ、ぁああっ!」


 ぴたりと、ページの呼吸が止まった。


 血。


 石畳の割れ目に沿って滲む赤。

 湿った泥の上で、それだけが妙に生々しかった。


 その瞬間。

 胸の奥で回っていた思考の歯車が、錆びたような不快な軋みをあげる。


 ――赤い飛沫。

 ――投げ捨てられる銅貨。

 ――誰かの手。

 ――置いていかれる音。


「……っ」


 ページの指先が、わずかに強張った。


 ほんの一拍の硬直。

 

「今だ、やれ!」

 

 その隙を見逃さず、残った二人が距離を詰める。勝利を確信した醜い顔が迫る。

 ページは浅く、鋭く息を吸い込んだ。

 視線を滲んだ赤から強引に引き剥がし、現在へと思考を叩き戻す。

 

 今の立ち位置。

 残された逃走経路。

 使える手札。

 

「……ほんと、気分悪いな」

 

 口の中に残る血の匂いを吐き捨てるように呟き、コートの中で引き金を弾いた。


 真鍮のシリンダーが重々しい音を立てて噛み合う。

 ぎち、がちり。

 金属の軋む摩擦音のあと、両端から粘着質な鋼糸が撃ち出された。


「なっ!?」


 糸は壁の突起と反対側の配管に絡みつき、瞬く間に路地を横断する。

 

 一本。

 二本。

 三本。

 鋼糸の蜘蛛の巣が、狭い空間に一気に張り巡らされた。


 先頭の男が腕を取られ、二人目は足首を掬われ、倒れる。

 起き上がろうとして、さらに別の糸に肩を絡め取られた。


「うおっ、何だこれ!」

 

「おい引っ張るな、余計絡まっ……!」


「こりゃ見事な荷造りだな。そのまま出荷してやりたいくらいだ」


 ページは短く鼻で笑った。

 そして壁を蹴る。


 鋼糸を足場にして、地面を踏み込む。

 一歩。

 二歩。

 三歩目で体をひねり、チンピラたちの頭上を飛び越えた。


 スラムの泥に塗れた重力を嘲笑うかのように、その跳躍だけが妙に軽かった。


 着地と同時に、もう片方の手で煙玉を石畳へ叩きつける。


 ――パンッ!


 乾いた破裂音。

 直後、白灰色の煙がぶわりと膨らんだ。むせ返るような火薬の匂いが、一気に路地を満たす。


「げほっ……!」

 

「見えねぇ!」

 

「どこ行きやがった!」


「悪いな」


 煙の向こうで、ページの声だけが軽く響いた。


「お前らの相手は『契約』に含まれてないんでね。じゃあなー」


 言い終わる前に、彼は頭上の配管へ手をかけていた。

 湿った鉄に指を滑らせず、体を引き上げる。ブーツの先が壁を叩く。黒コートが翻る。配管伝いに、建物の外壁をほとんど駆けるようにトントン上っていく。


 下ではまだ怒鳴り声が続いていたが、もう届かない。

 ページは屋根の縁に手をかけ、そのまま身を翻して上へ抜けた。


 夜風が、ほてった体を気持ちよく冷ます。


 屋上に転がり込むと、そこでやっと一息つく。

 乱れた呼吸を整えながら、まずケースを確認する。

 

 留め金よし。中身も無事。傷なし。

 完璧ではないが、及第点かな。


「……よし」


 それから時計を開く。

 配達期限まで、あと四分。


「セーフ。偉い。俺えらい」


 上の端には、錆びた非常階段が外壁沿いに下へ伸びていた。

 手すりは赤茶け、踏み板もところどころ歪んでいるが、荷物を抱えたまま降りるには十分だ。

 

 ページが階段へ歩み寄ったその時。


 下から、掠れた呻き声が風に混じって届いた。


「……い、てぇ……」


 歩みを止め、肩越しに屋上の縁を見やった。


 路地の石畳に転がったチンピラが、震える手をこちらへ伸ばしている。

 すねを裂いた傷から滲んだ血が、泥水の上に細い筋を引いていた。


 ページは数秒、無言でそれを見下ろした。


 視線を切ると、抱えたケースを腕の中で持ち直した。

 

 留め金に指をかける。歪みはない。

 

 角を親指でなぞる。

 泥が跳ねていたので、コートの裏地で無造作に拭った。

 金属の鈍い光が戻る。


「……これでいい」


 下ではまだ、苦しげな呼吸が続いていた。けれどページはもう見ない。

 確認するのは中身だけだ。

 

 破損なし。遅配なし。契約不履行なし。

 それで、十分だった。


「悪く思うなよ」


 誰に向けたともつかない声で、ページは淡々と言う。


「そっちの痛みまで気にしてたら、こっちの採算が合わないさ」


 呻き声は返事にならなかった。

 ページは最初から期待していない。


 時計の針を一瞥する。

 配達期限まで、あと三分。


「……これで間に合うな」


 独り言の温度だけが妙に軽い。

 そのくせ、目だけは冷えたままだった。


 ページは踵を返すと、錆びた非常階段へ向かった。

 鉄骨は夜気と湿気を吸って冷たく、踏み板には煤と泥が薄くこびりついている。

 

 非常階段を下りきった先は、建物の裏手にひっそりと口を開けた細い通路だった。

 

 古びた木箱や壊れた配管材に紛れるように、煤けたスクーターが一台、壁際に身を潜めている。座席に積もった埃を手の甲で払うと、ケースを足元へ滑り込ませ、素早く固定具に引っかけた。

 

 留め具が、かちりと小さく噛み合う。

 スクーターに跨がり、キーを回した。

 エンジンが低く唸り、震えが骨まで響く。


 ページは振り返らない。


 誰が血を流していようと。

 どんな顔で手を伸ばしていようと。

 今夜の彼にとって重要なのは、依頼の荷物だけだった。

 

 夜の闇と同じ色の黒髪が、煤けた風を受けて鋭く翻る。


 運び屋は、泥と血の残る路地を背に、夜の奥へ走り去った。

ここまで読んでくださりありがとうございます!

小説投稿はまだまだ初心者なので、読みづらい部分もあるかもしれませんが、楽しんでもらえたら嬉しいです。

評価・ブックマーク・感想などいただけると、かなりモチベになります。

今後も少しずつ更新していく予定なので、よろしくお願いします。

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