傷口の温度
深い夜の闇と、肺を焼くような鉄錆の匂いが不意に途切れた。
外の風切り音すら完全に遮断された、異常なほどの静寂。
見捨てられた魔石炭鉱の奥深く。
ヘラルドの手配した魔力隠蔽の結界内へ滑り込んだスクーターは、限界を訴えるように鈍い排気音を二度吐き出し、力尽きたように横倒しになった。
「……っ、どうにか、撒いたか」
ひんやりとした廃坑の地面にブーツをつき、ページは荒い息を吐き出した。
全身の筋肉が軋みを上げている。
倒壊する数百トンのコンクリート塊の下をすり抜けた代償として、愛用の黒コートは背中から裾にかけて無惨に引き裂かれ、もはやボロ布のように成り果てていた。
裂け目からは煤にまみれたシャツが覗き、冷たい地下の空気が直接肌を撫でていく。
ページは忌々しげに引き裂かれたコートの残骸を払い除けると、倒れたスクーターへと歩み寄り、ひしゃげた後部座席のシートをこじ開けた。
ヘルメットを収納するスペースの奥から、くすんだ銀色の携帯用医療キットを引っ張り出す。
振り返ると、アワユキは少し離れた坑道の壁に背を預け、ずるずると座り込もうとしていた。
その右腕からは、水銀のように鈍く光る『銀の血』が絶え間なく滴り落ち、廃坑の黒い土を濡らしている。
煙幕を強化するために、彼女自身が躊躇なく引き裂いた傷跡だ。
「じっとしてろ。応急処置ぐらいならできる」
ページが医療キットを開きながら近づくと、アワユキはびくりと肩を震わせ、警戒する獣のように青銀の瞳を鋭く細めた。
「……いらない。これぐらい、すぐに……」
ひび割れた唇から紡がれるのは、虚勢に満ちた低い声。
だが、壁に押し付けられた彼女の華奢な体は、激痛と極度の疲労で小刻みに震えている。
「意地張んなよ。もう見てらんねぇって言ってんだ。大人しく貸せ」
ページは膝をつき、消毒液を染み込ませた清潔な布で、アワユキの右腕の汚れを拭い去っていく。
激痛が走るはずの処置に、アワユキは小さく息を呑んだだけで、声一つ上げなかった。
ページの手つきは、スラムの荒くれ者がするそれとは程遠く、ひどく丁寧だった。
滅菌ガーゼを当て、医療用のテープで手早く、だが確実に傷口を塞いでいく。
アワユキの視線が、包帯を巻くページの横顔をじっと見つめていた。
「よし、これでしばらくは持つだろ。……よく耐えたな、アワユキ」
最後の手当てを終え、ページが不意に、ひどく穏やかな声でその名を呼んだ。
「――っ」
アワユキの眼が見開かれる。
名前を呼ばれた瞬間、彼女の脳裏に冷たく無機質な光景がフラッシュバックした。
拘束具、白い白衣、そして実験体番号でしか呼ばれなかった日々の記憶。
だが今、目の前にいる泥と煤にまみれた男は、確かな温度を持って、自分を『個』として呼んだ。
アワユキはいつの間にか固く握りしめていた左手の拳をふっと緩め、ページへと問いかける。
「……なぜ――」
その時だった。
ズォォォンッ!!
廃坑の静寂を粉々に引き裂く、鼓膜を破るような轟音。
絶対の安全圏であったはずの魔力結界が、ガラスが砕けるような甲高い音を立てて空間ごと弾け飛んだ。
「なっ……!?」
間髪入れず、分厚い坑道の岩壁が内側へ向かって無惨に爆砕される。
もうもうと舞い上がる粉塵と土砂。
(結界が壊された……!? ヘラルドの野郎、まさか――)
ページの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜ける。
芽生えかけた安らぎは一瞬にして踏みにじられ、死の臭いが充満する新たな盤面が強制的に幕を開けていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
小説投稿はまだまだ初心者なので、読みづらい部分もあるかもしれませんが、楽しんでもらえたら嬉しいです。
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今後も少しずつ更新していく予定なので、よろしくお願いします。




