『13』の傷跡
ピキッ……。
石畳の床を這う薄氷の音が、煤けた居間に異様に響いた。
ページとアワユキ。
部屋の境界で二人の視線がぶつかった瞬間、ラジオの琥珀色の真空管が不規則に明滅し、ジジジッと耳障りなノイズが鳴り響く。
同時に、ページの右腕に刻まれた銀の血の痕が、チリッと微かな熱を持った。
(……なんだ、さっきのノイズは)
ページは咄嗟に右腕を押さえる手をコートの裏へ隠し、舌打ちをしてラジオの電源を乱暴に切った。
ブツン、と音が途切れ、不自然な静寂が戻る。
ただの偶然か、あるいはこの獣が放つ魔力の当てつけか。
ページはあえて深く考えないようにして、ソファに深く沈み込んだままアワユキを見返した。
アワユキは警戒を解かないまま、自身の体を包む布地に視線を落とした。
ベルが着せた古着のシャツは、彼女の華奢な体にはあまりにも大きすぎた。
肩は落ち、長すぎる裾が足首にまとわりつく。
何より、ぶかぶかの袖が彼女の両手を完全に覆い隠してしまっている。
「……動きづらい。尻尾も窮屈だ」
アワユキは低く唸ると、迷うことなく自身の指先に力を込めた。
シャキンッ、と。
彼女の指先から、鋭利な刃物のような『爪』が鈍い銀色を閃かせる。
――ザシュッ! ザシュッ!
一切の躊躇のない手つきで、アワユキは自分の手を隠していた袖を根元から切り裂いた。さらに、足元にまとわりつく裾を膝上で無造作に引き裂いていく。
布切れがバサリと石畳の床に落ちる。
器用に布の端を結び、動きやすい形に仕立て直したアワユキは、ふんっ、と短く鼻を鳴らした。
背後では、解放された黄金のしっぽが、自らの輪郭を確かめるようにゆっくりと揺れている。
だが、その行為は、同時に彼女が隠していた事実を容赦なく白日の下に晒した。
切り裂かれた衣服から露わになった細い腕と脚。
そこには、無数の古い傷跡と、泥を落としたことでかえって目立つようになった生々しい裂傷が口を開けていた。
そして、左腕に焼き付けられた『13』の番号。
「……っ!」
コグとフリントが、息を呑んで後ずさる。
ページはソファからその様子を横目で見て、小さく息を吐いた。
テーブルの下に置かれた、錆びたブリキの医療キットを手に取り、重い腰を上げる。
「……おい。傷を見せてみろ。簡単な処置ならできる」
歩み寄り、無造作に手を伸ばす。
だが、アワユキはその手を鋭く払いのけた。
「触るな」
ピシャリと、冷ややかな拒絶がページの手を打つ。
青銀の瞳には、他人に対する根深い不信感が張り付いていた。
「他人の手など借りない。こんな傷……自分で治せる」
言うが早いか、アワユキは自らの体に意識を集中させた。
彼女の足元から、冷徹な白く輝く燐光が渦を巻いて立ち昇る。
直後、居間の空気が一気に氷点下まで急降下した。
室内の温かな空気が強制的に奪われ、部屋の片隅にあった曇り窓のガラスが、ピキピキと鋭い異音を立てて凍りついていく。
ガラスの表面は、一瞬にして真っ白で美しい、けれど刃のように冷たい霜の花で埋め尽くされた。
まばゆい燐光の中、アワユキの傷口から銀色の魔力が漏れ出し、引き裂かれた肉がみるみるうちに繋がり、塞がっていく。
無理やり傷をふさぐ痛みに、アワユキの顔が苦痛に歪む。
ギリッと奥歯を噛み締める音が、静かな部屋に響いた。
「ッ……ぐぅ……!」
アワユキの傷が再生していくのと完全に同期して、ページの右腕が内側から爆ぜるような激痛に見舞われた。
(……クソッ、なんだこの痛みは……!)
ページは咄嗟に背を向け、膝が折れそうになるのを気力だけで堪えた。
左手で右腕を強く抱え込む。コートの下で、かつてアワユキの銀の血を注がれた痕が、白熱した鉄串を突き立てられたように焼けている。
視覚と痛覚を通して叩きつけられた絶対的な事実に、ページの額から脂汗が滲み出した。
喉の奥から漏れそうになる呻き声を、血の味がするまで唇を噛んで押し殺す。
「はぁ……はぁ……ふんっ。すぐに、治った……だ、ろ……?」
再生を終えたアワユキは、荒い息を吐きながら勝ち誇ったように笑った。
だが、その声はひどく掠れている。
直後、魔力を急激に消費した彼女の身体が、糸の切れた人形のように前へと傾いた。
「危ないっ」
すかさずベルが駆け寄り、その細い体を両腕でしっかりと支えた。
アワユキは触れられたことに反射的に牙を剥こうとしたが、もう抗う体力は残っておらず、ぐったりとベルの腕の中に身を預けた。
ベルは何も言わず、アワユキを古いソファへと座らせる。
ページは荒い呼吸をなんとか整え、冷や汗をコートの袖で乱暴に拭うと、激痛の余韻を隠すようにあえて冷たい声を出した。
「……はぁ。言わんこっちゃない。魔力切れで自滅してどうする」
ページは医療キットを放り投げ、再びソファの端に腰を下ろす。
「……飯食って、休んどけ」
コトッ。
ベルが、アジトの壁を這う太い鉄の蒸気管から、布に包まれた何かを取り出した。
むわっとした熱気とともに、部屋の中に香ばしい匂いが広がる。蒸気管の高熱を利用して温められた『黒パンの蒸し戻し』だ。スラムの硬い黒パンも、こうして蒸気で蒸らせば、いくらかマシな柔らかさになる。
ベルは欠けた木皿に、温めた黒パンと、くず野菜を煮込んだ薄いスープをよそい、机に置いた。
アワユキは警戒するように鼻をクンクンと鳴らした。
数秒の躊躇いの後、彼女は床に置かれた黒パンをひったくるように手に取り、両手で抱え込んでかじりついた。
熱さに少し目を瞬かせながらも、無心で口に運ぶ。
——ピコッ。
その瞬間、彼女の黄金の耳が大きく跳ねた。
温かくて、しょっぱくて、腹の底からじんわりと熱が広がる味。
アワユキは目を丸くした後、ページへの警戒の視線はそのままに、ただもくもくと、貪るように食べ始めた。
コグとフリントが、少し離れた場所からその様子を不思議そうに見守っている。
ストーブの火がパチリと爆ぜ、スープの匂いが部屋の冷気を少しずつ溶かしていく。
砂上の平穏。
ページが守りたかった、ただの煤けた日常のひとときが、そこに戻りかけていた。
——だが。
『ジ、ジジ――――…………やあ、ページ君』
突然、電源を切ったはずのアンティーク・ラジオから、不自然なほどクリアな音声が響き渡った。
心臓を冷たい氷の手で掴まれたような感覚。
上品で、気軽で、泥に塗れたスラムの空気とは対極にある、圧倒的な格差を思い知らせるその声。
ページは息を止めた。スープを飲んでいたアワユキの手もピタリと止まる。
『そこの獣を連れて、いつもの場所に来てくれたまえ。では——』
通信は、一方的に途切れた。
真空管の琥珀色の光が完全に消え、部屋の中にはひどく冷たく、重い沈黙だけが残された。
凍りついた曇り窓の向こうで、スラムの夜が完全に降りていた。
「……ページ」
不安そうに揺れるベルの声。
ページは無言のまま、自分の右腕と、スープの匙を握りしめたままこちらを睨みつけるアワユキを交互に見た。
逃げ道はない。
日常はすでに、この異物と共に破壊されている。
「……行くしか、ねぇか」
ページは独り言のように吐き捨て、再び泥に塗れたコートに袖を通した。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
小説投稿はまだまだ初心者なので、読みづらい部分もあるかもしれませんが、楽しんでもらえたら嬉しいです。
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今後も少しずつ更新していく予定なので、よろしくお願いします。




