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何度タイムリープしても死ぬ『完璧王子』の幼馴染を救うため、私は世話焼きオカンを辞めて悪魔になります。  作者: *しおり*


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9

 大学のある県内の寂れた線の終点。駅裏の寂れた路地裏に、その極彩色に光るネオンサインはひっそりと、しかし毒々しく輝いていた。


 分厚い防音扉を閉めた瞬間、むせ返るような甘ったるい芳香剤の匂いが鼻を突いた。

 無駄に広い室内を照らすのは、怪しげに回転するピンク色の間接照明。

 部屋の中央には、真紅のベルベット生地で覆われた巨大な円形ベッドが鎮座し、ご丁寧に天井には巨大な鏡まで張り付いている。

 そして極めつけは、部屋の奥にある、スケスケのガラス張りになったバスルームだった。


「……っ! な、なんでよりによってこんなエロい部屋なのよ……っ!」


 ただの女子大生である結菜の顔から、復讐鬼としての冷徹なはずの思考が一瞬で吹き飛んだ。

 耳の先まで真っ赤に染め上げ、結菜は部屋の隅にある無駄に豪華なレザーソファに背中を張り付けて硬直する。

 しかし。


「……テレビの裏、HDMIの端子生きてるな。ケーブルの長さ、足りるかこれ」


 振り返った先。

 法学部のリアル王子は、ピンク色のネオンが回るエロティシズム全開の空間を完全に透明なものとして扱い、無表情のまま薄型テレビの裏側を覗き込んでいた。

 彼はリュックから取り出したノートPCを、本来ならいかがわしいビデオを流すための巨大なモニターに手際よく接続していく。


「ちょっと湊、あんたなんでそんな平然として……」

「結菜、そこの延長コード取って。コンセントの位置が微妙だ」

「人の話聞いてる!? あのね、ここラブホテル……」

「プロキシサーバーを三つ噛ませて、IPアドレスを海外経由に偽装する。……よし、繋がった」


 結菜の抗議など、彼にとっては排熱ファンの音にも満たないノイズでしかない。

 怪しげなピンク色の照明に照らされた大画面に、桐生グループの裏サーバーへ侵入するための無機質な黒いコマンドプロンプトが次々と立ち上がっていく。

 エロティックな密室と、巨大権力を叩き潰すためのサイバーテロの拠点。そのあまりにもシュールな光景に、結菜は毒気を抜かれたように深い溜息をつき、おとなしく延長コードを彼に手渡した。


* * *


 それから数時間。

 部屋には、キーボードを高速で叩き続ける硬質なタイピング音と、空調の低いモーター音だけが響いていた。


 結菜は円形ベッドの端に体育座りをして、画面に向かう湊の広い背中をじっと見つめていた。

 前のループの「四畳半の密室」での記憶が、蘇る。

 あの時は、いつ暗殺者がドアを破ってくるかという恐怖で、二人で身を寄せ合うようにして震えていた。だが、今の結菜の胸にあるのは、恐怖ではなく、研ぎ澄まされた刃のような闘気だ。後少しでこの逃亡生活は終わる。悪事を暴き、彼を救う。

 ……そう、思っていたはずだった。


――ザァァァァァッ。


 不意に、ガラス張りのバスルームからシャワーの水音が響き始めた。


(……っ!)


 結菜の肩が、ビクンと跳ねる。

 視線を逸らそうとしても、磨き上げられたガラスの向こう側、湯気に霞む空間に、シャツを脱ぎ捨てた湊のシルエットが否応なしに浮かび上がっている。

 大企業の跡取りとして武器や飾りとして、完璧に管理されてきた、無駄な肉の一切ないしなやかな筋肉。  

 水滴がその肌を滑り落ちる輪郭が、ピンク色の間接照明に照らされてひどく生々しく映っていた。


(見ちゃダメ、何考えてんのよ私……っ! 今はそういう状況じゃ……)


 結菜は膝に顔を埋め、両手で耳を塞いだ。

 しかし、水音は容赦なく鼓膜を打ち、ホテルの安っぽいフローラルなボディソープの匂いが、湯気と共に室内にじわりと広がってくる。

 ただの幼馴染。世話の焼けるワガママな隣人。

 そう言い聞かせてきた強固な理性の壁が、この「非日常」の空間のせいで、音を立てて溶け出していくのが分かった。


 やがて、水音が止む。

 カチャリとドアが開き、むせ返るような湿気が部屋に流れ込んできた。


 結菜は顔を上げられないまま、円形ベッドの端でさらに身を縮こまらせた。

 素足が絨毯を踏む、静かな足音。

 それが、一直線にこちらへと向かってくる。


「……結菜」


 頭上から降ってきた、ひどく掠れた気怠い声。

 ビクビクと顔を上げた結菜の視界が、瞬時にショートした。


 湊は、シャワーの熱気で火照った肌に、シワの寄った白シャツを素肌の上に直接羽織っていた。

 ボタンは胸元まで大きく開け放たれ、濡れた色素の薄い髪から、ポタポタと水滴が鎖骨へと滴り落ちている。

 外で見せる誰も寄せ付けない絶対零度の王子の仮面は完全に外れ、極度の疲労とシャワーの熱に当てられた、無防備で暴力的なまでの色気だけがそこにあった。


「あ、あんた……っ、ちゃんとボタン閉めなさいよ! 風邪引くでしょ!」


 結菜は目を逸らし、真っ赤になった顔を隠すようにベッドの端へとさらに後ずさった。

 しかし、湊は逃げる結菜を追うように、ベッドの上に片膝を乗せ、シーツを軋ませてにじり寄ってくる。


「……なぁ」


 長い腕がスッと伸びたかと思うと、逃げ場を失った結菜の腰を、逃がさないようにガシリと力強く引き寄せた。


「え……っ!?」


 抵抗する間もなく、背中が彼の熱い胸板にピタリと張り付く。

 すっぽりと背後から抱きすくめられる形になり、結菜の心臓が、肋骨を突き破らんばかりの音を立てて狂い始めた。


「ちょっ、湊……! 何して……っ」

「……」


湊は答えない。

 ただ、濡れた髪の毛先を結菜の首筋に擦り付けるようにして、その顔を深くうなじへと埋めてきた。

 ホテルの安っぽいシャンプーの匂いに混じって、彼自身の肌から漂うブラックコーヒーの苦い香りが、結菜の鼻腔を容赦なく侵略する。


「……こんなラブホのベッドで二人きりなのに」


耳元で、甘く、ひどく熱を持った吐息が落ちた。


「俺がずっと、大人しくPC叩いてるだけの聖人だと思ってた?」


ドクンッ!! と。

 結菜の全身の血液が、沸騰したように一気に顔へと集まった。

 冗談だ。からかっているだけだ。

 そう頭では分かっているのに、腰に回された彼の手の異常なほどの熱さと、首筋に押し当てられた唇の感触が、それを否定している。

 どんな絶望の世界線でも、彼は結菜の匂いと体温にだけは、絶対に抗えないのだと証明するように。


「み、なと……っ」


声が震え、全身の力が抜けていく。

 復讐鬼の仮面など、もうとうに消え失せていた。

 結菜の小さな肩が小刻みに震えるのを感じ取ると、湊は喉の奥で低く笑い、それから、子供のように結菜の首筋にすりすりと鼻先を押し付けた。


「……冗談。目が疲れたから、十分だけ充電させて」


 先ほどの危険な挑発が嘘のように、その声は大型犬のように無防備で甘えたものに変わっていた。

 結菜の匂いを、肺の奥底まで刻み込むように深く息を吸い込む。


「この部屋、やけに落ち着く。結菜の匂い、充満してるからかな」

「……っ、バカ。あんたの鼻がおかしいんでしょ」


 結菜は悪態をつきながらも、彼を振り払うことはできなかった。

 腰に回された彼の手の上に、自分の震える手をそっと重ねる。

 警察も権力も頼れない、絶望的な逃亡劇の最中。

 いつ黒田がドアを破ってくるかも分からない恐怖の中で、このピンク色の怪しげな非日常の空間だけが、「好き」という感情の蓋を、ほんの少しだけズラすことを許してくれていた。


「……十分経ったら、ちゃんと仕事に戻りなさいよ」


 結菜が小さな声で呟くと、首筋に埋められた唇が、ふっと笑みの形に綻ぶのが分かった。

 PCの排熱ファンの音と、二人の重なる心臓の音だけが、ネオンに照らされた円形ベッドの上に甘く、そして静かに溶けていった。



 それから数時間。

 怪しげなピンク色のネオンが回る室内で、結菜は巨大な円形ベッドの端にあぐらをかき、スマートフォンの画面を凄まじい速度でフリックし続けていた。


(よし、裏垢でのダミー投稿、拡散完了っと……)


 液晶の青白い光を反射する結菜の瞳には、指揮官としての光が宿っている。

 画面の向こう側では、サヤカとミオが結菜の手足となって完璧に動いていた。


『湊くん、文系キャンパスの裏口付近で見たかも!』

『え、やば! リアル王子じゃん! 一人で何してんの?』


 事前に用意させた複数のダミーアカウントから、絶妙な時間差で目撃情報がSNSに放流されていく。

 桐生グループの監視網がネット上の情報を巡回していれば、確実に一度は文系キャンパスへと人員を割くはずだ。敵の目を数時間でも逸らせれば、それだけこの密室でのハッキングの時間が稼げる。


「……結菜、お前スマホの画面叩き割る気?」


 背後から、無機質なタイピング音を途切れさせずに湊が呆れた声を落とした。


「割らないわよ。今、サヤカたちにダミー情報流させて、敵の目逸らしてるとこなんだから。あんたは黙って手ぇ動かしなさい」

「へえ。完全な情報工作部隊の指揮官じゃん。……なんか、最近の結菜の顔、すごく悪役っぽい」

「うるさい。誰の命守るためにやってると思ってんのよ」


 結菜は画面から一切目を離さずに悪態をつき、流れるように次の指示を打ち込む。


『サヤカ、お兄さんの車のカモフラージュはどう?』

『バッチリ! 深夜2時きっかりに、ホテルの裏路地にエンジン切って横付けさせるよう手配した。ナンバープレートには泥塗っといた!』

『ありがとう。ミオは監視カメラの死角ルート、最終確認お願い』


 頼もしい親友たちの返信に、結菜は小さく息を吐き出した。

 このラブホテルも、決して絶対の安全地帯ではない。

 桐生グループの追跡アルゴリズムが予測できないタイミングとルートで、次の潜伏先である「サヤカの親戚の空き家」へと夜間に移動しなければならないのだ。物理的な逃走ルートの構築と、足取りの隠蔽。それが、情報将校となった結菜の役目だった。


「……明後日の深夜二時、ここを出るわよ。サヤカのお兄さんの車に乗って隣県を跨ぐ。親戚の空き家へ移動。それまでにハッキングの第三段階、終わらせてよね」

「ん。了解、指揮官殿」


 気の抜けた返事と共に、再びエンターキーが小気味よくターンッ、と叩かれる。

 甘ったるい芳香剤の匂いが漂う極彩色の密室は、結菜の異常な執念によって、完全に巨大権力を叩き潰すための前線基地と化していた。


 回転するピンク色のネオンが、ガラス張りのバスルームを毒々しいほど鮮やかに縁取っている。

 潜伏戦の最中だというのに、この部屋が放つ猥雑な空気は、否応なしに結菜の女としての意識を逆撫でしていた。


「……ねえ、湊。私、シャワー浴びるから」


 結菜は替えの下着を抱え、薄い硝子一枚で仕切られた空間の前で立ち止まった。

 デスクでノートPCの画面を凝視している湊は、ブラインドを叩く雨音のようなタイピング音を響かせたまま、振り返りもしない。


「……ん」

「『ん』じゃないわよ。いい? ここの壁、全部透けてるんだからね。あんた、絶対こっち見ないでよ。一ミリでも視線動かしたら、そのノートPC、湯船に沈めるから」

「……あー。サーバーの応答、また三ミリ秒遅れたな。このホテルの回線、混みすぎだろ」

「人の話聞きなさいよ!」


 結菜の怒声に、湊はようやく指を止めた。だが、振り返ったその瞳はひどく虚ろで、結菜の姿ではなく、その背後の壁のシミでも数えているような、焦点の合わないものだった。


「……見てどうするんだよ。そんな、色気なんか1mmもない幼馴染の裸。……目が腐って、ハッキングどころじゃなくなる」

「……っ、この、ワガママ王子が……!」


 結菜は顔を真っ赤にして、逃げるようにバスルームに飛び込んだ。

 カチャリと閉まったガラスの扉。しかし、それは音を遮断するだけで、視覚的なプライバシーなど一分も提供してくれない。

 お湯を出し、立ち上る湯気が少しずつ透明な壁を曇らせていくのを見て、結菜はようやく小さな安堵の息を吐いた。


(……見られてない。あいつは今、世界を敵に回して戦ってるんだから)


 石鹸の安っぽい花の匂いに包まれながら、結菜は自分の体を洗った。

 シャワーの水音が、室内の静寂を塗り替えていく。

 曇りガラスの向こう側、青白いモニターの光の中に浮かび上がる、湊の広い背中。

 ハッキングが進むにつれ、彼との距離は縮まり、同時に「いつか失うかもしれない」という恐怖が、結菜の肌を粟立たせていた。


* 


 シャワーを終え、バスタオル一枚を体に巻き付けた結菜は、湿った髪を指先で弄りながら洗面台の棚を開けた。

 ドライヤーを探して、無造作に一番下の引き出しを引く。


「……あ、あった」


 しかし、その奥に詰め込まれていたものに触れた瞬間、結菜の思考が白く爆発した。


「……えっ」


 指先に触れた、ひどく生々しいゴムの質感と、けばけばしいショッキングピンクの物体。

 ドライヤーのコードに絡まるようにして転がり出てきたのは、普通の女子大生の生活圏には存在し得ない、いかがわしさを凝縮したような大人のおもちゃだった。


「……っ、うわぁぁぁッ!!」


 結菜は喉の奥から短い悲鳴を上げ、反射的に手を引っ込めた。

 ガシャンッ!! という派手な音を立てて、物体がタイル張りの床に転がり落ち、無機質な振動音を上げ始める。


「……結菜!? 何だ、今の音!」


 直後、バタンと勢いよくバスルームの扉が開かれた。

 ハッキング中だというのに、暗殺者の襲撃を警戒して常に神経を尖らせていた湊が、なりふり構わず室内に踏み込んできたのだ。


「ダメ、入ってこないで……っ!」

「いいからどけ、伏せろ!」


 湊は結菜の肩を掴み、強引に背後に隠した。

 だが、彼が身構えた先にいたのは暗殺者ではなく、床の上でヴィィィィ……と虚しく震え続けているピンク色の異物だった。


「……」

「……」


沈黙。

 充満する熱い湯気と、湿った空気。

 湊の視線が、床に転がる物体から、バスタオル一枚で肩を露わにし、顔を真っ赤にして立ち尽くしている結菜へとゆっくり移動した。

 彼の色素の薄い瞳が、僅かに揺れる。


「……ドライヤー。ドライヤー探そうとしたら、これが出てきて……っ」

「……そう。……趣味、悪いな。このホテル」


 湊は吐き捨てるようにそう言うと、震える物体を爪先で隅へ追いやり、棚の奥から本物のドライヤーを無造作に掴み出した。

 結菜に背を向けたまま、彼はそのまま立ち去ろうとしない。

 狭い洗面所で、二人の距離が、触れそうなほどに近づく。


「……湊?」


彼の手が、結菜の濡れた髪にそっと触れた。

 冷たかったはずの指先が、今は驚くほど熱を帯びている。


「……髪、濡れたままだと風邪引く。……座れ。乾かしてやる」


からかうような言葉も、王子様らしい微笑もない。

 ただ、ドライヤーの騒々しい音が、結菜の耳元で鳴り響き始めた。

 鏡越しに、湊のひどく真剣で、どこか焦燥を含んだような横顔が見える。


 いかがわしいピンクの光に照らされた、二人きりの密室。

 復讐のために研ぎ澄ませていたはずの神経が、彼の指先が頭皮に触れるたびに、甘く、痺れるような熱に侵食されていく。


「……湊。……見ないでねって、言ったのに」

「……うるさい。……画面の見すぎで、お前の顔なんてまともに見えてないよ」


 不器用な嘘。

 ドライヤーの熱風に混じって、彼の匂いが、結菜の鼻先を掠めた。

 明日には、地獄へ乗り込む準備が整う。

 けれど今だけは。このエロティックで愚かな逃避行の続きを、いつまでも終わらせたくないと、結菜は心の中で静かに祈っていた。



 そして、深夜。

 怪しげなピンク色のネオンが回る室内で、結菜はガチガチに硬直していた。


 いくら逃亡中の緊急事態とはいえ、ここはラブホテルだ。無駄に豪華な円形ベッドは、部屋の中央に一つしか鎮座していない。

 疲労の限界に達した湊がPCをスリープ状態にし、シワだらけの白シャツのままベッドに倒れ込んだのを見て、結菜は無意識に後ずさった。


「……あのさ、私ソファで寝るから。あんたはベッド使って」


 結菜がレザーソファの方へ逃げるように立ち上がろうとした、その瞬間だった。


「ダメ」


 背後から、手首を力強く掴まれる。


「えっ……きゃっ!」


 有無を言わさぬ力で引っ張られ、結菜の体はシーツの上に乱暴に引きずり倒された。

 バフッ、と柔らかいベルベットのマットレスが沈み込み、直後に、重く熱い体が背中からすっぽりと覆い被さってくる。


「ちょっ、湊っ……!」

「動くな」


 大企業の跡取りとして、一体どんな場所に出入りするような遊び方をしてきたのかと疑いたくなるほど、その引き寄せ方は妙に手慣れていて、無駄がなかった。

 結菜が抗議する間もなく、湊は結菜の腰を両腕でガシリとホールドし、そのうなじに深く顔を埋めた。


「……っ」


ドクン、ドクン。

 結菜の心臓が、肋骨を突き破らんばかりの音を立てて狂い始める。

 耳まで真っ赤に染め上げ、ベッドの上で縮こまる結菜に対し、湊はあまりにも平然としていた。


「……コードの羅列見すぎて、吐きそう。五分だけ充電させて」


 耳元で、ひどく掠れた気怠い声が降ってくる。


「……お前の体温がないと、暗殺者がいつ来るか分からなくて落ち着かない」


 口実とも本音ともつかない、不器用で我儘な甘え。

 彼から漂うブラックコーヒーの苦味と、ホテルの安っぽいシャンプーの匂いが混ざり合い、結菜の鼻腔を容赦なく麻痺させていく。

 背中越しに伝わってくる、彼の力強い心臓の音。

 数日後には、死地である大学病院へと乗り込むかもしれないというヒリヒリとした極限の緊張感の中で。こんな空間で、好きな人に背中から抱きしめられて匂いを嗅がれているという状況が、結菜の理性を溶かしていく。


「……あんた、本当にワガママ。高級ホテルならともかく、こんな場所で……っ」


 結菜は毒づきながらも、彼を突き飛ばすことはしなかった。

 腰に回された彼の手首に、自分の震える手をそっと重ねる。彼が結菜の体温を求めているのと同じように、結菜もまた、彼の心臓の音が聞こえていないと、不安で押し潰されそうだったのだ。


逃亡という地獄の底で、二人だけの体温が心地よい。

 ピンク色のネオンに照らされた円形ベッドの上で、結菜は彼の髪に微かに頬を寄せ、深く静かに目を閉じた。




 ラブホテルでの潜伏二日目。

 外の世界では「リアル王子の失踪」でキャンパス中が大騒ぎになっているだろうが、分厚い防音壁に囲まれたこの極彩色の密室には、ノートPCの排熱ファンの唸り声しか届かない。


 ガチャリ、と重い扉が開き、結菜が素早く室内に滑り込んだ。

 深く被ったキャップを目深に直し、現金だけで決済したコンビニのビニール袋をテーブルにドサリと置く。

 足がつくのを防ぐため、買い出しは深夜に顔を隠して行い、ルームサービスを頼む際も絶対にドアの隙間から手だけを出して現金で支払うという徹底ぶりだ。


「……ただいま。ほら、ご飯」

「……ん」


 ピンク色の間接照明の下、画面から一切目を離さない湊の横に、結菜は氷多めのブラックコーヒーと、買ってきたばかりのミックスサンドを置いた。


「食べなさい。胃袋空っぽで頭回るわけないでしょ。……ちょっと、また猫背になってる」


 結菜は文句を言いながら湊の背後に回り込み、凝り固まった肩を強めに揉みほぐす。

 この逃亡生活で、結菜は完全に湊の『生命維持装置』と化していた。


「片手が塞がる。……食わせて」

「……あんたねぇ」


 呆れたように舌打ちをしながらも、結菜はサンドイッチの包みを開け、画面を睨みつける湊の口元へと運ぶ。湊は視線を動かすことなく、当然のようにそれを受け入れて咀嚼した。


 世話を焼きながら、結菜の視線は青白いモニターに流れる膨大な文字列に注がれた。


「ねえ、湊。堂島専務の裏帳簿やダミー会社の資金洗浄ルートは後回しでいい。黒田の娘の『カルテ操作の記録』を、何よりも最優先で引っこ抜いて」

「……」


 湊の顎が、僅かに動く。咀嚼を終え、キーボードを叩く手がピタリと止まった。


「……お前、本気で自ら小児科病棟に乗り込む気か? あいつと鉢合わせたら、今度こそ内臓破裂じゃ済まないぞ」

「だから、カルテの原本データが必要なのよ」


 結菜の声には、一ミリの揺らぎもなかった。


「専務がお前を騙している、本当のドナー順位はこれだ……って突きつければ、娘の命がかかってるあいつは絶対に揺らぐ。黒田を味方に引き入れるか、最低でも動きを封じなきゃ、永遠にこの逃亡劇は終わらない」


 結菜の瞳には、かつての「ただの世話焼きの幼馴染」の面影はない。暗殺者の娘を交渉材料にとることも辞さない、冷徹な復讐鬼の顔だ。

 湊は振り返ることなく小さく息を吐き出すと、「……了解。最優先で回す」とだけ答え、再び恐ろしい速度でタイピングを再開した。



 それから数時間が経過し、湊がようやく一本のデータを引き抜いた。


「……できたぞ。黒田の娘、黒田美優のカルテの原本データ。それと、専務が裏で操作したドナー順位の書き換えログだ」


 湊は充血した目をこすりながら、一本の無骨なUSBメモリを結菜に差し出した。

  結菜はその金属の冷たさを、救いの蜘蛛の糸のように、あるいは冷酷な凶器のように受け取った。

 持参していた実習用の白衣のポケットにそれを滑り込ませると、ずっしりとした重みが腰に響く。


 「……私、行ってくる。あんたはここで待機してて」

「……結菜。お前、本当に自分で行くのか。あいつの顔を、忘れたわけじゃないんだろ」

 彼女はあの暗殺者に2回殺されている。


 その犯人に会いに行くという狂ったような計画に、湊の指が、結菜の白衣の裾を微かに掴んだ。

  彼なりの不安と心配。外で見せる仮面を剥ぎ取った、一人の怯えた少年の表情がそこにあった。

 結菜は彼の指をそっと解き、無理に口角を上げた。


「大丈夫。私には究極の手札がある。彼は私に手出しはできない。……今度こそ、私が全部終わらせてくる」





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