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初夏の湿気を帯びた生温かい風が、開け放たれた講義室の窓から吹き込み、机の上のプリントをかさりと揺らした。
「……ッ」
気管に空気が流れ込む感覚。
結菜は、ゆっくりと瞬きをした。
アスファルトに激突し、全身の骨と臓器が原形をとどめないほどに弾け飛んだ、あの絶望的な激痛。その強烈な幻影がまだ神経の末端で明滅しているというのに、結菜の口から悲鳴が漏れることはなかった。
ただ、胸の奥底で、ドス黒く煮詰まったタールのような冷たい怒りだけが、静かに、そして確実に燃え上がっている。
「ねえ、聞いた? 文系キャンパスの法学部に、とんでもない美形の一年がいるらしいよ」
「聞いた聞いた! なんか『動く現代アート』とか『リアル王子』とか呼ばれてるんでしょ?」
「モデルか俳優の卵じゃないかって、他学部でも大騒ぎになってるらしくて……」
少し離れた席から聞こえてくる女子たちの浮ついた声
アルコールのツンとした匂いと、古い紙の匂いが混ざり合う医薬キャンパスの講義室。手元には、インクが滲んだ解剖学のテキスト。
三度目だ。
結菜は、震えることすら忘れた手で、滲んだインクの染みを指先でなぞった。
(……警察も、マスコミも、あの病院のロビーにいた数百人の目撃者も。全部、無意味だった)
前回の目覚めでは、彼が生きているという安堵とパニックで大泣きしながら講義室を飛び出した。
だが、今の結菜の目には、一滴の涙も浮かんでいない。
泣いて取り乱したところで、巨大な権力と暴力は無慈悲に自分たちをすり潰すだけだと、骨の髄まで理解してしまったからだ。
「結菜? どうしたの、プリントくしゃくしゃにして」
サヤカが不思議そうに覗き込んでくる。
結菜は感情を完全に抜け落とした顔で振り返り、「……ちょっと、ゴミ箱に捨ててくる」とだけ言い残し、立ち上がった。
「えっ? 結菜.....?」
椅子の音は立てない。足早に、だが極めて冷静な足取りで、結菜は講義室を後にした。
* * *
文系キャンパスの巨大な学食は、揚げ油の匂いと数百人の学生の喧騒でむせ返っていた。
窓際の特等席。
完璧な「リアル王子」の微笑みを貼り付けた湊が、向かいの席の派手な先輩の言葉に、涼しげな相槌を打っている。
結菜は、人混みを縫うようにしてそのテーブルへと歩み寄った。
前回のように、泣き叫んで抱きつくような真似はしない。ただ無言で、湊の背後に立つ。
甘ったるい香水の匂いを漂わせる先輩が、怪訝な顔で結菜を見上げた。
「ちょっと、あなた誰……?」
「……」
結菜は先輩の言葉を完全に無視し、頬杖をついていた湊の右手首を、上からガシリと掴み上げた。
氷のように冷え切った、有無を言わせない尋常ではない握力。
「……え、結菜?」
仮面を被っていた湊の瞳に、素の困惑が浮かぶ。
結菜は、ガラス玉のような彼の色素の薄い瞳を、猛禽類のように鋭く、凪いだ目で見下ろした。
「来て」
たった一言。
しかし、その声に込められた絶対零度の気迫と、底知れない狂気の匂いに当てられ、湊は咄嗟に振り払うことができなかった。
結菜は呆然とする先輩を一瞥すらせず、湊の腕を引いて学食の出口へと向かって歩き出した。
* * *
人通りのない、旧講義棟の薄暗い空き教室。
埃っぽい空気の中に、結菜は湊を乱暴に押し込んだ。ガチャン、と重い引き戸を閉め、内鍵をかける。
「おい……結菜、急に何なんだよ。自分で『他人のフリしろ』って……」
「三十日後」
文句を言いかけた湊の言葉を、結菜は冷徹な声で遮った。
結菜は教卓の横に立ち、腕を組んで凑を真っ直ぐに見据えた。そこに、朝会ったばかりの世話焼きで口うるさい幼馴染の雰囲気と違う。
「三十日後、あんたは大学病院のロビーで、頭上から落ちてきた数十本の鉄パイプに押し潰されて死ぬ」
「……は?」
「暗殺者の名前は黒田。専務に雇われた清掃員の男。そいつが足場を崩して、大勢の目の前で『不運な落下事故』に見せかけてあんたを肉塊に変えた」
湊は、眉間を深く寄せた。
あまりにも具体的で、狂気に満ちた妄言。
普段なら「頭冷やせ」と鼻で笑って教室を出ていくだろう。
しかし、結菜のその瞳が、瞳孔が開いたまま微動だにしないその眼差しが、彼をその場に縫い付けていた。
「三十日間、アパートの私の部屋で二人きりで引きこもって、あんたは専務の裏帳簿と資金洗浄のデータを完全にハッキングした。……でも、無駄だった」
結菜は、自分の腹部をそっと撫でた。
あの安全靴で内臓を蹴り破られた幻痛が、まだそこにある。
「あんたが死んだ後、私はそのUSBを警察に渡した。でも、駆けつけた警官は専務の息がかかってて、データはあっさり握り潰された。……私は黒田に腹を蹴り破られて、屋上から突き落とされて死んだ」
沈黙が、空き教室に重くのしかかる。
湊のガラス玉のような瞳が、僅かに揺れた。
結菜の口から語られる『自分自身の惨殺』。
それを語る彼女の声には、恐怖も悲哀もなく、ただ事実を羅列する機械のような冷たさしかなかった。
それが、湊の直感に訴えかけていた。
こいつは、本当に『死』を経験してきたのだと。
自分を庇って、あるいは自分が庇えずに、この狭い肩を理不尽な暴力で砕かれたのだと。
「……親父の会社の……専務が?」
「ええ。あんたの部屋に置きっぱなしになってる、土地開発の裁判記録。あれに気づかれる前に、あんたを消す気よ」
湊は、ゆっくりと壁に背中を預けた。
長い睫毛を伏せ、一つ、深く息を吐き出す。
彼の胸の奥底で、自己犠牲のストッパーが外れ、どす黒い”激怒”が静かに鎌首をもたげ始めていた。自分を殺すのは勝手だが、この幼馴染を蹂躙し、絶望のどん底に叩き落としたことだけは、絶対に許さない。
「……警察もマスコミもグルなら、ハッキングしたデータはどうする。どこにアウトプットしても握り潰されるぞ」
湊が、ひどく冷めきった、軍師の顔で結菜を見た。
結菜の唇の端が、歪に吊り上がる。
「握り潰せない場所に出すのよ。……全世界が同時に目撃して、専務でも親父さんでも、絶対に消し去れない形で」
「具体的には」
「大学のメインキャンパスにある巨大スクリーン、主要駅のデジタルサイネージ、あとはSNSの全アカウントのジャック。……そして、来月行われる桐生グループの株主総会のプロジェクター」
結菜は、チョークの粉が散る教卓を指先でトントンと叩いた。
「あいつらが物理的に電源を引っこ抜くまで止まらない、ゲリラ放送よ。社会的に抹殺するだけじゃ生温い。全世界のさらし者にしてやる」
「……悪くない。俺の自作のワームを噛ませれば、同時多発的な電波ジャックは可能だ」
湊は腕を組み、顎に手を当てた。
「だが、ハッキングに一ヶ月かかるなら、その間あの『黒田』って暗殺者から逃げ切らなきゃならない。三十日もあれば、いくらバリケードを築いてもいずれドアを破られる」
「だから、あいつは殺さない。……使うのよ」
結菜の言葉に、湊が視線を上げた。
「黒田が専務の犬になってる理由は、娘の心臓病のドナー順位を専務に握られてるから。……そいつ、私が明日実習で行く大学病院の、小児科病棟の特別室にいる」
あの時、血を吐きながら突きつけた言葉に対する、黒田の冷酷な返答。
『それでも娘のドナー順位を維持するには、あの専務の犬になり続けるしかない』
「黒田を脅すの。専務はお前を騙している、私たちが本当のカルテデータを取り戻してやるから寝返れって。……交渉に乗らないなら、娘の命の保証はないって、ハッタリをかます」
「……なるほどな。カルテの原本データを俺たちが先に引っこ抜いて、交渉材料にするってわけだ」
湊は、結菜の瞳の奥にある純度百パーセントの狂気を、まるで美しい絵画でも鑑賞するかのように見つめた。
ただの世話焼きだった幼馴染は、もういない。
自分を生かすためなら、悪魔にでもなって他人の娘の命すら交渉のテーブルに乗せる、恐ろしい共犯者。
「……お前、本当に性格悪くなったな。高級香水の先輩の方が何倍も可愛げがある」
「うるさい。嫌ならそこで鉄パイプに潰されて死ねば?」
結菜が冷たく吐き捨てると、湊は喉の奥で低く笑った。
「誰が死ぬかよ。……お前の飯食えなくなるのは、困るし」
埃っぽい空き教室。
初夏の生温かい風が、ブラインドを揺らす。
涙も悲鳴もない。ただ、巨大な権力を根こそぎ地獄へ引きずり落とすための、冷酷で熱い復讐の計画が、二人の間で静かに共有された。
湊のひんやりとした瞳が、獲物を狙う獣のように細められる。
手段を選ばない復讐鬼と、天才ハッカー。
本当の反撃のループが、今、静かに幕を開けた。
*
空調の切れた旧講義棟の空き教室は、初夏の湿気と長年積もった埃の匂いで満ちていた。
黒板の前に置かれた教卓の横で、結菜は自分の長い髪をヘアゴムでキツく、痛いほど高く結び直していた。気合いを入れるための、昔からの癖だ。
ガラッ! と、けたたましい音を立てて引き戸が開く。
「ちょっと結菜! LINEでいきなり『旧講義棟に来て』って……えっ、嘘!?」
「待って待って待って、ちょっと待って!?」
息を切らして駆け込んできたサヤカとミオは、教卓の横に立つ結菜と、その背後の窓際で気怠げにブラインドの紐を弄っている白シャツの長身――法学部の「リアル王子」を交互に見比べ、完全にフリーズした。
さっきまで学食の特等席で優雅に微笑んでいた男が、なぜ結菜と同じ空き教室にいるのか。二人の脳の処理速度が完全に追いついていない。
「……遅い」
「ごめん、サヤカ、ミオ。急に呼び出して」
結菜は感情の読めない凪いだ声で謝罪しながら、近くの椅子を二つ、乱暴な足取りで引き寄せた。
「え、なに? どういう状況!? 学食で結菜が王子様の手ぇ引いて連れ去ったって、今キャンパス中の裏掲示板が祭りになってるんだけど! あんたたち、付き合って……」
「こいつ、私の幼馴染」
サヤカの興奮気味な叫びを、結菜はチョークの粉を指先で払いながら冷たく叩き斬った。
「おさな……なじみ? リアル王子が?」
「……ただの世話の焼ける隣人だよ」
窓際で、湊がつまらなそうに相槌を打つ。その色素の薄い瞳には、外で見せる完璧な愛想笑いは微塵もなく、結菜の親友たちを見る目には明らかな”警戒”と”面倒くささ”が混じっていた。
「……信じられない。じゃあなんで今まで他人のフリなんて……」
「お願い、二人にしか頼めないの。助けて」
ミオの疑問を遮るように、結菜はガタッ、と大きな音を立てて二人の前に身を乗り出した。
先ほどまで湊に「三十日後の死」を宣告していた絶対零度の目は鳴りを潜め、結菜は自分の顔を両手で覆い、肩を微かに震わせた。
「湊の……こいつの実家の、厄介な熱狂的ストーカーに命を狙われてるの。最近ずっと付きまとわれてて、アパートの周りもうろついてて……このままじゃ、本当に殺される」
声が、リアルに震えていた。
三十日間引きこもった末に、暗殺者に腹を蹴り破られて屋上から突き落とされた記憶。それは決して嘘ではない。主語と設定を「ストーカー」にすり替えただけの、血の滲むような真実だ。
「えっ……ストーカー!? 警察は!? 警察行けばいいじゃん!」
サヤカが血相を変えて身を乗り出す。結菜は、顔を覆った指の隙間から、濁った瞳でサヤカを見つめた。
「警察は動いてくれない。相手の親が地元の有力者で、警察の上層部とズブズブなの。相談に行ったのに、適当にあしらわれて終わった」
その言葉に、窓際でブラインドの紐を指に巻き付けていた湊の動きがピタリと止まった。
結菜の口から淀みなくスラスラと紡がれる、完璧な「嘘」。
この幼馴染は、自分を生かすためなら、親友の善意すらも平然と利用する悪魔に成り果てたのだ。その底知れない覚悟の重さに、湊の背筋にゾクッとした悦びにも似た悪寒が走る。
「……マジで? 警察が動かないって、それドラマの話じゃん……」
「嘘じゃないわよ! 現に今日だって、そいつ学食の近くまで来てたんだから!」
結菜が机をバンッと叩く。
学食で結菜が異常な気迫で湊を連れ去った光景。
それを遠巻きに見ていた(そして掲示板で拡散されている)という事実が、結菜の「切羽詰まった状況」に圧倒的な説得力を持たせていた。
「落ち着いて、結菜」
ずっと黙って二人の様子を観察していたミオが、爪を噛むのをやめて低い声を出した。
彼女は、ただの噂好きの女子大生ではない。大学の監視カメラの死角マップを裏掲示板から引っ張ってくるような、優れた情報収集能力の持ち主だ。
「……とりあえず、今結菜のアパートに帰るのは絶対危険だよ。ストーカーに居場所がバレてるなら、そこが一番の死地になる」
「ミオの言う通りだ。……でも、逃げるって言ってもどこに?」
「……サヤカ、あそこは? あんたのおばあちゃんが住んでた、隣県の空き家」
ミオの提案に、サヤカがハッと顔を上げる。
「あ、あそこなら……! うちの親族しか知らない場所だし、電気と水道はまだ通ってるはず! 私、実家から鍵持ってくる!」
「ありがとう……っ、ごめんね、巻き込んで」
結菜は深く頭を下げた。罪悪感がないわけではない。だが、これ以上、何の力もない一般人の親友をこの暗闘の「内側」に引きずり込むわけにはいかないのだ。
(一つの場所に留まるから、黒田に追い詰められるんだ)
結菜の頭の中で、冷酷な軍事パズルが組み上がっていく。
防犯カメラの死角マップと裏ルート。サヤカの親戚の空き家。偽名で泊まれる寂れたラブホテル。ネットカフェの個室。
女子大生の情報網と身軽さを最大限に利用し、桐生グループの巨大な監視網が予測できない場所を、数日単位で転々と移動し続ける「ゲリラ戦」。
湊が完全にデータをハッキングし終わるその日まで、絶対に足取りを掴ませない。
「……お前ら、巻き込まれたら退学じゃ済まないぞ。本当にいいの?」
窓際から、湊がひどく平坦な、感情の読めない声で尋ねた。
サヤカとミオは、顔を見合わせた後、力強く頷いた。
「結菜のピンチを見捨てるわけないでしょ。……それに、リアル王子の逃亡劇を手伝うなんて、ちょっとスリルあって悪くないし、一番は結菜が私たちに『助けて』って言ってくれたのが初めてだったから、絶対に守らなきゃと思った!」
「監視カメラに映らない逃走ルートなら、私に任せて。伊達に裏掲示板に入り浸ってないからね」
頼もしい親友たちの言葉。
結菜は顔を上げ、窓際の湊と視線を交わした。
色素の薄いガラス玉のような瞳が、微かに細められる。
(……お前、本当にイカれてるな)という呆れと、(俺の命、全部お前に預ける)という信頼が混ざり合った、彼にしかできない表情だった。
「行くよ、湊」
結菜は鞄を肩に掛け、引き戸に手をかけた。
「まずはここから隣県まで、一度もカメラに映らずに抜ける。……あいつらを出し抜いて、絶対に生き延びるわよ」
初夏の生温かい風が、埃っぽい空き教室を通り抜ける。
絶対的な権力を持つ大企業と、プロの暗殺者。
それに対するは、手段を選ばない復讐鬼となった幼馴染と、タガの外れた天才ハッカー、そして情報屋の女子大生たち。
悲哀も涙もない。ただ純度百パーセントの殺意と生存本能だけを武器にした、本当の意味での「狂気の逃亡劇」が、今、完全に音を消して動き出した。




