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何度タイムリープしても死ぬ『完璧王子』の幼馴染を救うため、私は世話焼きオカンを辞めて悪魔になります。  作者: *しおり*


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玄関のドアを塞ぐように積み上げられた本棚とローテーブルの特製バリケード。その上に置かれた見慣れないWebカメラの赤いランプが、薄暗い四畳半の中で無機質に点滅している。


外部との接触を完全に絶った、二人きりの逃亡と監禁の生活。

 カレンダーの数字がいくつもバツ印で塗りつぶされ、ついに『その日』の前夜が訪れていた。


(……長かったような、あっという間だったような……)


壁際に寄りかかり、結菜は青白いモニターの光に照らされた湊の背中をぼんやりと見つめた。

 この三週間。結菜は体調不良を理由に大学を休み、ネットスーパーとデリバリーだけで命を繋いできた。いつ暗殺者がドアを破ってくるか分からないという恐怖で、夜も満足に眠れなかったはずなのに。


結菜の心のずっと深い底には、誰にも言えない昏く甘い「悦び」が澱のように沈んでいた。


あの、心のどこかで手が届かないと思っていた幼馴染が、今は自分の作った安飯を食べ、自分の膝枕で仮眠を取り、夜になれば「お前の体温がないと落ち着かない」と子供のように結菜の首筋にすがりついてくるのだ。

 世界から完全に切り離されたこの四畳半の密室は、皮肉にも結菜にとって、彼を誰にも渡さずに独占できる、この上なく幸福で尊い時間だった。


ブー、ブー。

 手の中で、スマートフォンが震えた。サヤカたちからのLINEだ。


『結菜、明日の小児科実習は這ってでも来なよ! これ休んだら高橋先生マジで単位くれないからね!』

『ていうか体調不良って絶対嘘でしょ! 文系キャンパスでリアル王子に抱きついて引きずってった女の正体、大学中の掲示板で特定始まって大騒ぎになってるんだから!』

『明日、実習の班行動の時、包み隠さず全部吐かせるからね! 逃がさないよ!』


立て続けに送られてくる通知画面を見つめ、結菜は小さく苦笑いをこぼした。

 ああ、外の世界ではそんなことになっているのか。あの日の学食での自分の凶行は、当然ながら凄まじい噂になってキャンパス中を駆け巡っているらしい。


「……何ニヤニヤしながらスマホ見てんの。気が散る」


背を向けたまま、湊がひどく気怠げな声を落とした。

 結菜はスマホの画面を暗くしてラグの上に放り投げると、膝立ちになって彼の広い背中にピタリと張り付いた。


「別にニヤニヤしてない。サヤカたちが、明日絶対大学来いってうるさいだけ」

「……」


湊はカタカタとキーボードを叩く手を一瞬だけ止め、それから結菜の頭に後頭部をこつんと預けてきた。


「行くなよ」

「えっ」

「明日、俺の視界から消えんな。……俺を一人でここに置いてく気?」


我儘な子供のような、不器用な引き止め方。

 結菜は彼の髪に頬をすり寄せながら、微かに目を細めた。


「置いていくわけないでしょ。明日は、あんたも一緒に大学病院に連れて行くから」

「……病院?」

「うん。何百人も医者や患者がいる白昼の病院なら、いくら専務の刺客でも絶対に手出しなんてできないはず。私の実習が終わるまで、ロビーで大人しく待ってて」


それが、結菜の考えた「安全策」だった。

 この密室に彼を一人残し、万が一バリケードが突破されたらと思うと、気が狂いそうになる。ならば、大勢の目がある公共の場所に彼を置く方が、ずっと安全だと思い込んでしまったのだ。


「……わかった。結菜がそう言うなら」


湊が短く息を吐き出す。

 PCの排熱ファンが、これまでで一番大きな唸り声を上げていた。

 画面の中央には、三十日間ずっと彼らを急かし、守り続けてきたプログレスバーが、ゆっくりと『99%』の数字を叩き出している。


――カチャッ。


最後にエンターキーを一度だけ強く叩き、湊が画面からゆっくりと目を離した。

 長い、長いため息が、青白い光の中に溶けていく。


「……終わった」

「え……?」

「全部、抜いた。専務の裏帳簿、ダミー会社への資金洗浄のルート、黒田の娘のカルテ操作の記録。これさえ明日の朝、警察庁と主要マスコミに一斉送信すれば……堂島専務も、あの腐った会社も、完全に終わる」


湊は、充血した目でゆっくりと振り返った。

 結菜は息を呑んだ。終わったのだ。長く恐ろしかった、そして奇跡のように甘かった彼との密室生活が。


「……結菜」


湊の長い指が、結菜の頬にそっと触れた。

 いつもなら「暑苦しい」と文句を言うくせに、今夜の彼の瞳は、熱を帯びたように真っ直ぐに結菜を捉えている。


「前に俺、『俺に関わると、結菜まで真っ黒に汚れちゃうよ』って言ったよな」


静かな声だった。

 結菜は、こくりと頷いた。それは以前、湊が自分の家の闇の深さを自嘲し、住む世界が違うのだと結菜を突き放そうとした時に放った言葉だった。


「ごめん。あれ、撤回する」

「え……」

「もう遅いわ。……お前、完全に俺の共犯者になっちゃったし」


湊の唇が、ふっと緩んだ。

 それは、外の人間を騙すための完璧な営業スマイルでもなく、自虐的な笑みでもなかった。大企業という重圧や、親からの見捨てられといった、彼を縛り付けていたすべての憑き物が落ちたような、ひどく穏やかで、息を呑むほど美しい素顔だった。


「このデータで専務を潰したら、俺、実家の家督も全部捨てて親父と縁を切る。ただの『無職の大学生』になるから」


湊の親指が、結菜の目尻を優しく撫でる。


「だから……これからもずっと、この四畳半でお前の飯、食わせてよ」


その言葉が結菜の鼓膜を震わせた瞬間。

 結菜の目から、堰を切ったようにポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。


(ああ……っ)


『こいつはいつか、あっちの世界に帰っていくんだ』

『ただの幼馴染の私が、隣に立てるわけがない』


結菜が心のずっと奥底で抱え続け、自分の恋心に蓋をしてきた、惨めで冷たい劣等感。

 それを、湊自身が、完璧にぶち壊してくれた。

 彼は初めから、煌びやかな大企業の世界なんて望んでいなかった。ただ、この狭くて古い四畳半のアパートで、結菜の隣で、不器用に笑って生きていきたかっただけなのだ。


「……っ、バカ、あんたの、バカ……っ」


結菜は彼の白シャツを両手でギュッと握りしめ、顔を胸に押し付けて声を上げて泣きじゃくった。

 三十日間の極限の恐怖も、報われないと思っていた片想いの苦しさも、すべてが熱い涙となって溢れ出していく。


湊は、泣きじゃくる結菜の背中に腕を回し、自分の胸にすっぽりと閉じ込めるように強く抱きしめた。


「だから泣くな。明日、病院から帰ってきて全部終わったら、お祝いにあの『ピーマン抜きのハンバーグ』作って」


湊の顔が結菜の首筋に埋められ、不器用でとびきり甘い声が、耳元に落ちる。


「……今回は特別に、ピーマン入ってても食ってやるから」


湊の規則的な寝息が、薄暗い四畳半の密室に静かに溶け込んでいく。 結菜は、自分の首筋に顔を埋めて眠る彼の温かい体温を感じながら、暗闇の中でそっとスマートフォンの画面を点灯させた。


開いたのは、いつも深夜に利用しているネットスーパーのアプリだ。 青白い液晶の光に照らされながら、結菜の指先が画面を滑る。検索窓に文字を打ち込み、『合い挽き肉・ジャンボパック』と『玉ねぎ』をカートに入れた。 そして、少しだけ迷った後、結菜は口元を微かに綻ばせ、『ピーマン』のアイコンもタップして追加する。


(今回は特別に、だもんね)


買い物の合計金額を見つめる結菜の胸の奥には、これまで彼女を苛み続けていた暗殺者への恐怖も、いつ死ぬか分からない極限の緊張感も、もう存在しなかった。 あるのはただ、ひどく甘くて温かい、確かな未来への希望だけ。


明日、彼が三十日かけて引き抜いたデータで、あの腐った会社は終わる。 彼は大企業の跡取りとしての重圧から完全に解放され、実家と縁を切った「ただの無職の大学生」になるのだ。そして、この狭くて古い四畳半のアパートで、私の作ったハンバーグを文句を言いながら食べてくれる。 ただ、一緒に食卓を囲む。そのありふれた、けれど奇跡のような「平和な明日」が、絶対にやってくると結菜は信じて疑わなかった。


(……早く、明日にならないかな)


結菜は注文確定のボタンを押し、そっとスマートフォンをラグの上に置いた。 そして、愛おしい幼馴染の背中にそっと腕を回し、その力強い心臓の音を聞きながら、幸福な眠りへと身を委ねていった。

その約束が。二人の「平和な明日」を繋ぐその希望が。 数時間後、白昼の大学病院に降り注ぐ『鋼鉄の雨』によって、跡形もなく粉砕されることになるとは、この時の結菜は知る由もなかった。



* * *



初夏の暴力的なまでに眩しい陽光が、大学病院の巨大な吹き抜けガラスを透過し、エントランスロビーの白い大理石を焼き付けている。

 数百人もの外来患者や看護師たちが絶え間なく行き交うその空間は、クレゾール石鹸と消毒用アルコールの無機質な匂いで満たされていた。


「……ねえ、本当にここで待ってるの? なんか目立つんだけど」


実習生に与えられた白衣に腕を通しながら結菜が小声でこぼすと、ロビーのベンチに深々と腰掛けた湊は、スマートフォンの画面から一切目を離さずに気怠げなため息をついた。

 無地の白シャツに、細身の黒いスラックス。ただ座ってスマホを弄っているだけだというのに、その常軌を逸した美貌は嫌でも周囲の視線を集めてしまう。すれ違う看護師や女性患者たちが、幾度も足を止めて彼を振り返っていた。


「ここ、Wi-Fi飛んでるし。……それに、大勢の目がある方が安全だって言ったの、結菜だろ」

「そうだけど……あーもう、あんたは絶対ここから動かないでよ! トイレ行く時もLINEして!」

「はいはい。結菜様の実習が終わるまで、忠犬みたいにここで待ってますよ」


視線は画面に釘付けのまま、心にもない適当な相槌を打つ。

 その時だった。


「ゆいなー! 久しぶり!」


背後から、高い声と共に結菜の白衣の肩がバシッと叩かれた。

 振り返ると、首から真新しい聴診器を下げたサヤカとミオが、目を丸くして立っていた。


「ちょっと、一ヶ月も大学来ないから生きてるか心配したんだよ!? LINEもそっけないし……って、えっ?」


サヤカの言葉が、途中で不自然に途切れた。

 彼女の視線が、結菜の背後のベンチでスマホを弄っている湊へと注がれる。ミオも息を呑み、結菜と湊の顔を交互に見比べた。


「あの……嘘でしょ、この人って」

「あ、いや、これは……っ」


結菜の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。

 三十日間、誰の目にも触れさせずアパートの四畳半に匿っていた彼。学食で大衆の面前で彼に抱きつき、強引に連れ去ったあの日の「答え合わせ」を求められ、結菜は咄嗟に視線を泳がせた。


「……親戚。実は遠い親戚なの! ちょっと病院に用があって、私が付き添いで……!」

「は? あんた『幼馴染だ』って……」

「そう、幼馴染の親戚! 遠い親戚!」


意味不明な言い訳をまくし立てながら、結菜は湊とサヤカたちの間に割り込むように立ち塞がった。

 当の湊といえば、サヤカたちの存在など完全に透明な壁の向こう側であるかのように、一切顔を上げようとしない。ただ、長い指で画面をスワイプしながら、低く呟いた。


「……結菜、喉渇いた。ブラックコーヒー買ってきて。砂糖入ってるやつ」

「ちょっと、今話してるんだから自分で……っ」

「動くな、って言ったの結菜でしょ」


平坦な、しかし有無を言わせない響き。

 そのひどく自然で甘えたようなやり取りに、サヤカとミオは「えっ、何この距離感……」と完全に固まっている。


(あーもう、本当にこいつは……っ!)


「わかった、わかったから! サヤカ、ごめん、私先に行くね! 小児科病棟のカンファレンス室で後で!」


結菜は呆然とする友人たちを強引に押し返し、逃げるようにその場を離れた。

 振り返ると、湊は相変わらず周囲の喧騒などどこ吹く風で、ベンチに深く身を沈めていた。

 何百人もの人間が行き交う白昼のロビー。監視カメラも至る所に設置されている。いくらあの暗殺者でも、ここで手出しなどできるはずがない。

 結菜は、肺の奥に溜まっていた緊張を細く吐き出し、エレベーターホールへと向かった。


* * *


小児科病棟の見学実習は、過酷だった。

 泣き叫ぶ子供たちの声、点滴の電子音、消毒液の匂い。指導教員からの矢継ぎ早の質問に答えながら、結菜は胸ポケットのメモ帳に必死にペンを走らせていた。

 だが、思考の半分は常に一階のロビーに置き去りにされたままだ。

 

(早く……早く終わって。早くあいつのところに帰らなきゃ)


PCへのハッキングは99%終わっている。今朝、データを警察庁に送信したから、すべてが終わったはず

。彼と一緒に、あの平和な四畳半でハンバーグを食べるのだ。

 その希望だけが、結菜の背骨を辛うじて支えていた。


午後一時。

 昼休憩のチャイムが鳴り、指導教員が「一時間の休憩とします」と告げた瞬間、結菜は誰よりも早くカンファレンス室を飛び出した。

 廊下の自動販売機で、よく冷えたブラックコーヒーの缶を二つ買う。冷たい結露が、火照った手のひらに心地よかった。


エレベーターが混雑していたため、結菜は非常階段を使って一階へと急ぐことにした。

 防火扉を押し開け、無機質なコンクリートの踊り場を小走りで駆け下りる。


――その時だった。


三階と二階の間の踊り場で、清掃員の灰色のユニフォームを着た大柄な男とすれ違った。

 男は、モップと洗剤が乗った清掃用カートを黙々と押しながら、結菜の横を通り過ぎて階段を上っていく。

 深く被った帽子のつばで、顔は見えない。


(……え?)


すれ違った瞬間。

 結菜の鼻腔を、強烈な異臭が突き抜けた。


消毒液の匂いも、コーヒーの香りも掻き消すほどの、圧倒的な異物。

 ツンとした、強烈なミントタブレットの匂い。それに混ざる、ひどく湿ったタバコの悪臭。


ドクン、と。

 結菜の心臓が、肋骨を突き破らんばかりの音を立てた。

 全身の血液が、一瞬にして氷のように冷たく凍りつく。

 万力のような男の指が首に食い込み、夜の空へ放り投げられたあの日の絶望の記憶が、網膜の裏でフラッシュバックする。


(違う。なんで……なんで、ここに)


男の足元。歩くたびに、靴の底に付いた硬い金属プレートが「コツ、コツ」と不気味な音を立てている。

 結菜の手から力が抜け、持っていた缶コーヒーがコンクリートの床に落下した。

 ガシャン! という鋭い音と共に、黒い液体が弾け飛んで足元を汚す。


男は振り返らない。ただ、悠然とした足取りで上へ、上へと向かっていく。

 吹き抜けのガラス天井の、さらに上部にある、高所清掃用のゴンドラと工事用足場が組まれたエリアへ。


(まさか……大勢の目がある場所で、誰にも怪しまれずに『事故』に見せかける方法……っ!)


人混みは、安全圏などではなかった。

 『頭上』から降り注ぐ暴力に対しては、どれだけ周囲に人がいようと無力なのだ。


「みな、と……っ」


結菜の喉から、ひび割れた悲鳴が漏れた。

 非常階段を狂ったように駆け下り、一階の防火扉を力任せに体当たりで開け放つ。

 視界に飛び込んできたのは、吹き抜けの下の広大なロビー。

 大勢の患者たちの向こう側、ベンチに座ってスマートフォンを弄っている、あの見慣れた白シャツの姿。


「湊ッ!! 逃げてぇぇぇぇぇっ!!」


結菜の獣のような絶叫が、ロビーの喧騒を完全に切り裂いた。

 数百人の視線が一斉に結菜へと向く。

 ベンチに座っていた湊も、何事かとゆっくりと顔を上げた。

 そして、結菜の尋常ではない形相を見て、怪訝そうに眉をひそめながら腰を浮かせようとした、その刹那だった。


――バギィィィィンッ!!!


頭上三十メートルの吹き抜け天井から、金属が爆ぜるような鼓膜を破る轟音が鳴り響いた。

 湊が、微かに上へと視線を向ける。

 そのガラス玉のような瞳に映ったのは、結菜に向けた安堵の微笑みでも、最期の言葉でもなかった。


ただ、圧倒的な質量を持った『死』そのもの。

 工事用足場から故意に切り離された、数十本もの巨大な鋼鉄のパイプの束だった。


「……あ、」


湊の唇が微かに動いた。

 次の瞬間。


グシャァァァァァァァァンッ!!!!


鼓膜から血が噴き出すほどの爆音と、地鳴りのような衝撃がロビーを揺らした。

 結菜の目の前で、何百キロという鋼鉄の雨が、湊の体をベンチごと完全に押し潰した。


「え……」


悲鳴を上げる間すらなかった。

 真っ白だった大理石の床に、爆発したように真っ赤な血が放射状に飛び散る。

 粉々に砕け散ったベンチの破片と、無惨にひしゃげた鉄パイプの山。

 その隙間から、あり得ない方向に折れ曲がった血まみれの白いシャツの腕だけが、だらりと投げ出されていた。


「キャアアアアアアアッ!!」

「事故だ!! 足場が崩れたぞ!!」

「誰か! 誰か下敷きに……っ!」


数秒の静寂の後、ロビーは狂乱のパニックに陥った。

 逃げ惑う人々の悲鳴、怒号、泣き叫ぶ子供の声。

 だが、結菜の耳にはもう、何も聞こえていなかった。


三十日間。四畳半の密室で、お互いの体温を分け合い、命を懸けて守り抜いてきた。

 専務の裏帳簿を暴き、大企業の呪縛から彼を解放し、明日はあの狭い部屋でピーマン抜きのハンバーグを一緒に食べるはずだったのだ。

『俺は、お前の体温がないと落ち着かない』

『これからもずっと、この四畳半でお前の飯、食わせてよ』


そのすべての未来が、希望が。

 白昼堂々の圧倒的な暴力によって、一瞬にしてゴミくずのように粉砕された。


「あ、ああ、あああああああぁぁぁぁぁっ……!」


結菜は膝から崩れ落ち、血の海と化した大理石の床に這いつくばった。

 ガタガタと痙攣するように震える手を伸ばしても、その腕はもうピクリとも動かない。冷たい雨の日の事故の時のように、最期に結菜を見て微笑んでくれることすら、この理不尽な世界は許してはくれなかった。


見上げた高いガラス天井の向こう。

 初夏の眩しすぎる太陽の光が、粉々に砕けた結菜の心を嘲笑うかのように、無慈悲に降り注いでいた。



「え……」


悲鳴を上げる間すらなかった。

 真っ白だった大理石の床に、爆発したように真っ赤な血が放射状に飛び散る。

 粉々に砕け散ったベンチの破片と、無惨にひしゃげた鉄パイプの山。

 その隙間から、あり得ない方向に折れ曲がった血まみれの白いシャツの腕だけが、だらりと投げ出されていた。


「キャアアアアアアアッ!!」

「事故だ!! 足場が崩れたぞ!!」

「誰か! 誰か下敷きに……っ!」


数秒の静寂の後、ロビーは狂乱のパニックに陥った。

 逃げ惑う人々の悲鳴、怒号、泣き叫ぶ子供の声。

 だが、結菜の耳にはもう、何も聞こえていなかった。


三十日間。四畳半の密室で、お互いの体温を分け合い、命を懸けて守り抜いてきた。

 専務の裏帳簿を暴き、大企業の呪縛から彼を解放し、明日はあの狭い部屋でピーマン抜きのハンバーグを一緒に食べるはずだったのだ。

『俺は、お前の体温がないと落ち着かない』

『これからもずっと、この四畳半でお前の飯、食わせてよ』


そのすべての未来が、希望が。

 白昼堂々の圧倒的な暴力によって、一瞬にしてゴミくずのように粉砕された。


「あ、ああ、あああああああぁぁぁぁぁっ……!」


結菜は膝から崩れ落ち、血の海と化した大理石の床に這いつくばった。

 ガタガタと痙攣するように震える手を伸ばしても、その腕はもうピクリとも動かない。冷たい雨の日の事故の時のように、最期に結菜を見て微笑んでくれることすら、この理不尽な世界は許してはくれなかった。


(なんで……どうして……っ)


見上げた高いガラス天井の向こう。初夏の眩しすぎる太陽の光が、粉々に砕けた結菜の心を嘲笑うかのように、無慈悲に降り注いでいる。

 その光の眩しさに目を焼かれた瞬間、結菜の脳髄に、ある恐ろしい『事実』が氷の刃のように突き刺さった。


(……もし、このまま私だけが生き残ってしまったら)


時間を巻き戻せたのは、あの雨の夜、湊が死んだ直後に『自分もトラックに撥ねられて死んだ』からだ。

 もしこのまま、ただの悲劇のヒロインとして生き残ってしまえば。この、湊が鉄パイプに潰された絶望の世界が、不可逆の現実として『確定』してしまうのではないか。


(私が……死ななきゃ。もう一度、彼を取り戻すためには、私も……っ!)


命を投げ出す恐怖よりも、湊のいない世界に取り残される恐怖の方が遥かに勝った。

 結菜は、周囲の制止する声も聞かず、真っ赤な血の海の中へと這い進んだ。砕けたガラスや鉄の破片が白衣と膝を裂くが、痛みなど感じない。

 無惨に押し潰された湊の胸元。血まみれになった白シャツのポケットに手を突っ込み、結菜は彼の肉片と血に塗れた小さな黒い塊――三十日間、彼が命を削って抜き取った『ハッキングデータの入ったUSB』を、震える指で掴み取った。


「……っ!」


その時。

 鉄の匂いと血の悪臭が充満するロビーの中で、結菜の鼻腔が、あの異質な臭気を捉えた。


ツンとした、強烈なミントタブレットの匂い。それに混ざる、ひどく湿ったタバコの悪臭。

 顔を上げると、パニックに陥る群衆に紛れ、吹き抜けの二階へと続くエスカレーターを足早に上っていく、清掃員姿の大柄な男の背中があった。


「待て……っ、待てェェェッ!!」


結菜は血まみれの手でUSBを握りしめたまま、弾かれたように立ち上がり、男の背中を追ってエスカレーターを駆け上がった。

 二階の薄暗い連絡通路。立ち去ろうとしていた男の背中に、結菜は背後から狂ったように飛びかかった。


「お前がっ……お前が湊を!!」

「……チッ」


男――黒田は、背中にしがみついた結菜を、鬱陶しい羽虫でも払うかのように太い腕で強引に振り解いた。

 床に投げ出された結菜は、咳き込みながらも、血に染まったUSBを黒田の顔の前に突きつけた。


「あんたの娘の心臓病のカルテ……! 専務にドナー順位を操作されてる記録、全部ここに入ってる! あんたは、あいつらにいいように利用されてるだけなんだよ!!」


湊が三十日かけて暴いた真実。それを突きつければ、この暗殺者も動揺し、専務を裏切るかもしれない。そんな一縷の望みを懸けた叫びだった。

 しかし。黒田の濁った瞳は、微塵も揺らがなかった。


「……知っている」

「え……」

「娘の命を握られていることなど、とうに知っている。それでも……娘のドナー順位を維持するには、あの専務の犬になり続けるしか、俺には道がないんだ」


底知れない諦観と、冷酷なエゴイズム。

 黒田は無造作に足を上げ、硬い金属プレートのついた安全靴で、結菜の腹部を容赦なく蹴り飛ばした。


「ガハッ……!?」


内臓が破裂したかのような激痛に、結菜の口から大量の胃液と血が吐き出される。

 うずくまる結菜の細い背中を、黒田は無表情のまま何度も、何度も踏みつけた。骨が軋み、肺から酸素が強制的に追い出される。


「おい! そこで何をしている!!」


その時、一階の騒ぎを聞きつけた警察官の制服姿が、連絡通路の奥から駆けつけてくるのが見えた。

 助かった。結菜は血反吐を吐きながら、最後の力を振り絞って手を伸ばした。


「こいつが……こいつが犯人です! 上の足場から鉄パイプを……! このUSBに、専務の裏帳簿と、暗殺の証拠が……っ。今朝、警察庁にもデータを送信したはず……!」


結菜は、駆け寄ってきた初老の警察官に、血まみれのUSBをすがりつくように差し出した。

 警察官はUSBを受け取り、結菜のボロボロの顔と、傍らに立つ黒田の顔を交互に見比べた。

 そして。


「……可哀想にな」


警察官は、ひどく冷ややかな、嘲るような笑みを浮かべた。


「恋人が事故死したショックで、完全に錯乱している。……お前たち、この哀れな女子大生を屋上の『安全な場所』で保護してやれ」

「な……にを、」


結菜の目の前で、警察官は受け取ったUSBを躊躇なく黒田の掌へと落とし、そのまま踵を返して去っていった。

 警察庁に送ったはずのデータは、組織の中枢に巣食う専務の息のかかった者たちによって、送信された直後に完全に握り潰されていたのだ。


正義など、どこにもない。

 法も、警察も、すべてが巨大な権力の一部でしかない。


「さあ、お嬢ちゃん。坊ちゃんのところへ送ってやろう」


絶望で声も出ない結菜の襟首を、黒田が乱暴に掴み上げる。

 抵抗する力すら残っていない結菜は、ズルズルとコンクリートの床を引きずられ、人気の全くない屋上へと連れ出された。


初夏の生温かい風が、フェンスの向こう側から吹き込んでくる。

 黒田は結菜の体を持ち上げると、何のためらいもなく、地上三十メートルの屋上の縁から虚空へと放り投げた。


『幼馴染の死を悲観した、哀れな女子大生の後追い自殺』


まただ。また、専務の書いた陳腐なシナリオ通りの死。

 体が、宙を舞う。

 強烈な風圧が結菜の鼓膜を叩く。落下していく数秒間が、スローモーションのように引き伸ばされていく。


(……ああ、そうか)


空を落下しながら。

 結菜の心の中から、悲しみも、絶望も、無力感も、すべてが綺麗に消え失せていた。


警察に行っても握り潰される。マスコミも動かない。

 三十日間、あんなに命を削ってハッキングをした湊の努力も。

 大勢の目がある場所なら安全だと思った、自分の甘い判断も。

 すべてが、あの巨大な権力と圧倒的な暴力の前では、無意味な子供のお遊戯でしかなかったのだ。


(正攻法じゃ、絶対に勝てない)


法も常識も通用しない相手なら。

 大切なものを、あんな無惨な形でゴミのように踏み躙るような世界なら。


(なら、次は私が悪魔になってでも。……専務も黒田も、あいつら全員、絶対に地獄に引きずり落としてやる)


ただの「世話焼きの幼馴染」の仮面が、完全に剥がれ落ちる。

 残ったのは、湊を奪った者たちへのどす黒い殺意と、純度百パーセントに精製された『狂気』だけ。


――ガンッ!!!!


アスファルトに叩きつけられ、全身の骨と臓器が弾け飛ぶ凄まじい激痛。

 その痛みを呪いのように魂に刻みつけながら、狂気に満ちた結菜の意識は、再び深いタイムリープの闇の中へと沈んでいった。

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