9.5
* * *
白昼の大学病院。
照りつける初夏の陽光が、巨大な吹き抜けガラスを白く焼き付けている。
結菜は慣れ親しんだ大学指定の白衣に腕を通し、首から聴診器を下げた。
名札には「実習生」の三文字。
自分が「看護学部の一年生」であり、現在ちょうど「早期体験実習」の期間中であることを利用した今回の作戦。
(……大丈夫。私はただの、目立たない実習生)
心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。
だが、自動ドアを抜けた瞬間、結菜の意識は冷徹な顔へと切り替わった。
看護師たちの手薄になる昼食休憩。ナースステーションの端で、邪魔にならないように壁の花と化している実習生の姿は、誰の記憶にも残らない「透明人間」だ。
一歩、また一歩。
消毒液と、微かに甘い子供用シロップの匂いが混ざり合う小児科病棟。
結菜の目的地は、最奥にある「特別室」だった。
静かにドアを開ける。
遮光カーテンの隙間から差し込む光の中に、小さなベッドが浮かび上がっていた。
そこには、酸素マスクを装着し、弱々しく眠っている一人の少女がいた。
「……あなたが、美優ちゃんね」
結菜は少女の枕元に、音もなく腰を下ろした。
実習生としての優しい笑顔を貼り付けながらも、白衣のポケットの中では、スマートフォンの角を指が白くなるほど強く握りしめている。
眠っている少女の指先は白く、点滴の管が細い腕に痛々しく繋がれていた。こんな作戦を決行するなんて、私には人の命を預かる医療の道に進む看護師なんて職業に就く資格はないかもしれない。
(ごめんね。……でも、これしか湊を救う道がないの)
――数十分後。
ドアの外で、あの音がした。
コツ、コツ、と床を叩く、硬い金属プレートのついた靴音。
そして。消毒液の匂いを暴力的に掻き消すほどの、強烈なミントタブレットと、ひどく湿ったタバコの悪臭。
カチャリ、とドアが開いた。
入ってきた大柄な男――黒田は、愛娘のベッドのすぐ隣に、見知らぬ実習生が座り込んでいるのを見て、訝しげに眉をひそめた。
「……誰だ、お前は。面会時間ではないはずだが」
低く、地を這うような声。
当然だ。この男にとって、結菜は「今日初めて会う、ただの不審な女子大生」に過ぎない。前のループで結菜の腹を蹴り破り、屋上から突き落とした記憶など、彼の中には一ミリも存在しないのだ。
結菜は、心臓が肋骨を突き破りそうなほどの恐怖を奥歯で噛み殺し、美優の寝顔にかかった前髪を、ひどく優しい手つきで梳いた。
「……心拍数、安定してますね。よく眠ってる」
「質問に答えろ。誰の許可を得てここに入った」
黒田の右手が、清掃員の作業着のポケットへとゆっくり滑り込む。プロの暗殺者としての殺気が、病室内を一瞬で氷点下まで下げた。
だが、結菜の左手は、美優の酸素マスクのチューブのすぐ横に置かれている。
「……動かないで」
結菜は、震える手でスマートフォンの画面を黒田に向けた。
「……これ、美優ちゃんのカルテと、臓器移植ネットワークのドナー順位のデータ。原本よ」
「……何?」
殺気を放っていた黒田の足が、ピタリと止まる。
「あんた、専務に順位を握られて言いなりになってるんでしょ。でも、あいつは最初からこの子を助ける気なんてない。……見て」
結菜は無慈悲に画面をスワイプした。
「どういうことだ。なぜ、ただの学生のお前がそれを……ッ、どこでそのデータを手に入れた!」
「あんたを都合のいい『清掃員』として使い潰すために、専務はこの子にドナーが回ってこないように操作し続けてるのよ」
結菜は黒田の動揺や質問など意に介さず、淡々と事実の羅列だけを突きつけた。
「……嘘だ」
「本当かどうか、その目で見れば分かるはず。娘の命を握られてるあんたなら、このログの異常性に一目で気づくでしょ?」
黒田の大きな体が、微かに震えた。
濁った瞳がスマートフォンの画面を凝視し、そこに記された絶望的な真実を理解していく。愛する娘を救うための殺しが、すべて無意味に搾取されていたのだと。
「……目的は何だ」
「もし今ここで私を殺せば、この証拠データは私の『共犯者』の手によって完全に消去される。……そうなれば、専務の不正は永遠に暴かれず、この子に順番が回ってくることは一生ない」
結菜は、美優の頬にそっと触れるように手を伸ばした。
それは慈しみではなく、最悪の「人質」への警告。
女子大生から、愛する男を守るための「悪魔」へと変貌した結菜の瞳が、黒田を真っ直ぐに射抜く。
「選んで。私たちを殺して、専務に騙されたまま娘を死なせるか。……それとも、専務を裏切って私たちの『目と耳』になり、この子を助けるか」
「……俺に、スパイになれと言うのか」
「ええ。専務の動き、次に誰を狙うか、どの部隊を動かすか。すべての情報を裏から私たちに流しなさい。……その代わり、私たちが専務を社会的に抹殺し、美優ちゃんの順位を正常に戻してあげる」
沈黙が、病室内を支配した。
心拍モニターの規則的な「ピッ……ピッ……」という音だけが響く。
やがて、黒田の大きな拳が、ミシミシと音を立てて握りしめられた。
「……今日の深夜、専務の私兵が文系キャンパス周辺の学生アパートをシラミ潰しに捜索する予定だ。……ターゲットの男が、姿を消したからな」
血を吐くような、絞り出すような声だった。
それは、彼が巨大な権力に反旗を翻し、得体の知れない女子大生と悪魔の契約を結んだ瞬間だった。
結菜は、無表情のままゆっくりと立ち上がった。
「……賢明な判断ね。次の連絡方法は、追って指示するわ」
膝がガクガクと震えているのを悟られないよう、結菜は冷徹な足取りで黒田の横をすり抜け、病室を後にした。
小児科病棟の廊下を抜け、人気のない裏口のスタッフ用エレベーターに滑り込む。
地下二階の駐車場を示すボタンを押し、分厚い鉄の扉が閉まった瞬間、結菜は冷たいステンレスの壁に背中を預け、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
「……っ、はぁっ、ハァッ……っ」
極度の緊張で止まっていた呼吸が、一気に肺に流れ込んでくる。
震える両手で顔を覆う。冷や汗で前髪が額に張り付いていた。
プロの暗殺者を、女子大生の身で脅迫し、寝返らせたのだ。一歩間違えれば、今頃内臓を蹴り破られて息絶えていたのは自分の方だった。
(いけた……。黒田をスパイとして取り込んだ。これで、湊を助けられる……っ)
胃の奥で暴れ回っていた恐怖が、ゆっくりと安堵へと変わっていく。
エレベーターが地下へと降下する浮遊感の中、結菜は白衣のポケットの中で、自分のスマートフォンをぎゅっと握りしめた。
警察も、大人も、誰も頼れない絶望の逃亡劇。
その暗闇の中で、自分と湊の命を繋ぎ止めてくれたのは、間違いなくこの小さな端末の向こう側にいる、二人の親友だった。
――生温かい夜風が、隙間だらけの木枠の窓をガタガタと揺らしていた、数日前の夜。
長年放置された空き家特有の、カビと埃が混ざった沈殿した匂い。結菜は、サヤカが持ち込んでくれた段ボール箱の底から、変色した古いタオルを引っ張り出し、水で濡らして黒ずんだちゃぶ台をゴシゴシと拭き始めていた。
『……目、痛い。目薬ないの』
『自分で探しなさいよ。今、サヤカたちが持ってきてくれた救援物資の整理で手一杯なの』
部屋の隅、青白いモニターの光に顔を照らされた湊が、キーボードから手を離さずに気怠げな声を落とす。
『埃が舞う。俺のPCに吸い込まれたらどうすんの』
『文句言うなら息止めてれば? ……あ、あった。ほら』
結菜は手を止めることなく、ちゃぶ台の上に転がっていた目薬を背後へ向けてポーンと放り投げた。湊は振り返りもせず、長い腕を伸ばしてそれを空中でキャッチし、無言のまま乱暴に点眼する。
結菜は小さくため息をつき、段ボールの中身を一つ一つ畳の上に並べていった。
レトルト食品の山に、数日分の着替え、虫除けスプレー、そしてなぜか、派手なピンク色のパッケージに入った高級なヘアトリートメントまで入っている。
(……サヤカらしいっていうか、何考えてんのよ、もう)
張り詰めていた心が、思わず緩んだ。
一見するとただのミーハーで軽薄な女子大生。だが、サヤカの実家は、両親と祖父母、三人の兄がひしめき合う大家族だ。幼い頃から年寄りや兄弟に揉まれて育った彼女は、その派手な見た目とは裏腹に、驚くほど義理人情に厚く、困っている人間を絶対に放っておけない「姉御肌」なのだ。
だからこそ、結菜の嘘にも一瞬の迷いもなく自分の親戚の空き家を提供し、兄の車まで手配してくれた。
『家族が困ってんのに、見過ごせるわけないじゃん!』
電話口で怒鳴るように言ったサヤカの声が、結菜の胸の奥を熱くする。
その時、エプロンのポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を見ると、ミオから暗号化されたメッセージアプリ経由で、新しい逃走ルートのマップと、桐生グループのダミー会社の監視カメラ配置図が送られてきている。
『……相変わらず、えげつない情報網ね』
『お前のその友達……ミオって言ったか。あいつ、ただの女子大生じゃないだろ。俺が組んだトンネルを一発で抜けて、安全な回線を用意してきたぞ。素人の芸当じゃない』
湊の警戒するような声に、結菜はミオの顔を思い浮かべた。
一見大人しい地味な女の子だが、高校時代に校内で悪質なネットいじめが起きた時、誰にも気づかれない裏掲示板のログをハッキングまがいの手口で完全に暴き出し、加害者を社会的に抹殺したのは彼女だった。
『私、ズルいことして平気な顔してる奴が、一番嫌いなんだよね』
恐ろしいほど冷徹で、強烈な正義感。桐生グループという底知れない巨大な闇に対しても、彼女は恐れるどころか、自らのスキルを総動員して立ち向かってくれている。
『サヤカもミオも、本当に……お節介で、鬱陶しいんだから』
震えそうになる声を必死に押し殺し、悪態をつく。
ポタリと、スマホの画面に一滴の熱い水滴が落ちた。
『……結菜?』
『なんでもない。埃が目に入っただけ』
乱暴に袖で目元を拭い、結菜はちゃぶ台の脚を強く握りしめた。
自分の嘘で彼女たちを巻き込んでしまった以上、この巨大な闇を完全にぶち壊し、日常を取り戻す義務が私にはある。
『……おい、結菜』
『だから何よ。今忙しいって……』
『腹減った。生姜焼きの缶詰、開けて』
緊張感を微塵も感じさせない、気怠げな声。
結菜は呆れて大きく息を吐き出すと、立ち上がって湊の背中をバシッと叩いた。
『あんたは本当に、世界が滅亡する前日でも私に飯作らせる気ね!』
『……お前の飯食わないと、世界救う気になれないし』
悪びれる様子もなく、湊は視線をモニターに向けたまま口角を微かに上げる。
あの埃っぽい四畳半での、ひどく温かいやり取り――。
チンッ。
無機質な電子音が、結菜の意識を現在へと引き戻した。
地下二階に到着したエレベーターの重い扉が、ゆっくりと左右に開く。空調の効いた冷たい空気が、結菜の火照った頬を撫でた。
(絶対に、死なせない)
結菜は立ち上がり、白衣の皺を伸ばした。
湊だけではない。あの優しくて、強くて、馬鹿みたいにお人好しな親友たちのもとへ、絶対に無傷で帰るのだ。
その強烈な誓いを胸に、結菜はエレベーターを降りた。




