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小児科病棟からエレベーターで地下二階へ降りると、空調の効いた冷たい空気が結菜の頬を撫でた。
無機質な蛍光灯が等間隔に並ぶ、広大な地下駐車場。タイヤの擦れるゴムの匂いと、微かな排気ガス。
結菜の足取りは、ひどく軽かった。白衣のポケットの中でスマートフォンの角を握りしめ、小さく息を吐き出す。
(いけた。黒田をスパイとして取り込んだ。これで……逃げ切れる。湊を、助けられる)
サヤカの兄のミニバンが停まっているはずの、Bブロックの柱の陰へと向かう。
情報網を持つ親友たちと、敵の中枢に潜む暗殺者。手持ちのカードはすべて揃った。あとは湊と合流し、このまま隣県へ抜け出すだけだ。
「サヤカ、ミオ、待たせ……」
車のシルエットが見え、結菜が小走りで駆け寄ろうとした、その時だった。
コツン、と。
結菜の足元に、何かが転がってきた。
見下ろすと、それは見覚えのある温かいココアの缶だった。プルトップは開けられたばかりで、甘ったるいミルクとチョコレートの匂いが、地下の冷たい空気に溶け出している。
ミオがよく「実習の後はこれに限るよね」と笑って買ってくれた、あのココアだ。
「……え?」
視線を上げた結菜の全身の血液が、一瞬にして凍りついた。
ミニバンのスライドドアが、だらしなく開け放たれている。
その足元のコンクリートには、目を疑うほど大量の、どす黒い赤色の液体が水溜まりを作っていた。
ポタ、ポタと。車内から、絶え間なく赤い雫が滴り落ちている。
「あ、ぁ……っ」
開いたドアから、力なく垂れ下がっている腕。
つい数日前、カラオケでマイクを握りしめ、「この新色可愛いでしょ」と自慢げに見せてくれた、サヤカの指先。
綺麗に塗られていたピンク色のマニキュアは無惨に剥げ落ち、どろりとした赤黒い血にべったりと染まっていた。
車内のシートには、ココアの缶を落としたまま、首をあり得ない方向にねじ曲げられたミオが、焦点の合わない虚ろな目を天井に向けて倒れている。
「嘘……でしょ、なんで」
喉の奥がヒュッと鳴り、結菜はふらつく足で血の海に踏み込んだ。
靴底が、ぬちゃりと嫌な音を立てる。
「……結菜、来る、な……っ!」
車の陰から、血まみれの白シャツを引きずりながら、湊が這い出すように姿を現した。
いつも完璧にセットされていた髪は乱れ、額から流れる血が彼の色素の薄い瞳を赤く染めている。
その湊の背後、駐車場の薄暗い死角から、清掃員の灰色の作業着を着た男たちが、ぞろぞろと無音で姿を現した。
一人ではない。五人、六人。
全員が、手には鈍く光る凶器や、サプレッサーのついた銃を握りしめている。
「遅かったな、お嬢ちゃん」
男たちの中から、先ほど小児科病棟で別れたばかりの大柄な男――黒田が、両腕を後ろ手に拘束され、全身を血だるまにされた状態で引きずり出されてきた。
「黒田、さん……っ!? どうして……」
「……専務は、俺の裏切りを恐れて、とうの昔から……見張られて、いたんだ……ッ」
血反吐を吐きながら、黒田が呻く。
桐生グループの巨大な監視ネットワークを、女子大生の情報網で欺けると思ったのが、すべての間違いだった。
不自然な動きをしていたサヤカとミオは、とっくにマークされていたのだ。黒田が結菜の脅迫に応じ、娘のために専務を裏切ったという情報すらも、この地下駐車場に到着した時点で、すでに他の暗殺部隊に完全に筒抜けになっていた。
「ただの女子大生が、裏社会の真似事とはな。……専務からの命令だ。このネズミどもは、ここで全員『処分』する」
先頭に立つ暗殺者が、冷酷に銃口を黒田に向けた。
「逃げろ……ッ! 娘を、頼むッ!!」
黒田は最後の力を振り絞り、結菜たちを庇うように暗殺者たちへ向かって体当たりを敢行した。
しかし。
プスッ、プスッという、くぐもった乾いた音が数回響いただけで。
巨体はあっさりと膝から崩れ落ち、コンクリートの床にドサリと沈んだ。娘の命を救うため、悪魔の契約に乗った父親は、無慈悲な暴力の前にゴミのように処理された。
「あ……ああ、あああぁぁぁっ……!」
結菜は、後ずさりして床に尻餅をついた。
生温かい血の感触が、手のひらを濡らす。
自分のせいだ。自分が、警察や大人を巻き込むのを恐れ、サヤカたちの善意を、ただの女子大生である彼女たちの情報網を利用したから。
あの時、空き教室で自分が「助けて」と言わなければ、二人は今頃、講義室で解剖学のテキストを開いて、文句を言いながら笑い合っていたはずなのに。
(私が……私が悪魔になったから。私が二人を巻き込んで、殺したんだ……っ!)
暗殺者たちの銃口が、床に座り込んで狂乱する結菜へと向けられる。
迫り来る死の気配。
その時だった。
「……結、菜ッ!!」
血まみれの湊が、床を蹴って結菜に覆い被さった。
――ズドォォォォンッ!!
凄まじい衝撃音が鳴り響く。
結菜の体をすっぽりと包み込んだ湊の背中が、あり得ない角度で跳ね上がった。
生温かい液体が、結菜の頬にボタボタと降り注ぐ。
「みな、と……?」
結菜の視界が、真っ赤に染まった。
覆い被さってきた湊の口から、大量の鮮血が溢れ出し、結菜の白衣を赤く染め上げていく。
「……ハッ、……は……っ」
最初のループの時と、同じだ。
彼は何も言わず、当たり前のように自分の命を盾にして、結菜を守ろうとしたのだ。複数のプロの殺し屋の銃弾を、その背中で文字通りすべて受け止めて。
「……ほんと、お前は……世話の焼ける、やつ……」
湊のガラス玉のような瞳から、急速に光が失われていく。
震える彼の手が、結菜の頬に触れようとして――そのまま、力なく血の海へと滑り落ちた。
ドサリと、結菜の上に全霊の重みがのしかかる。ドクン、ドクンと耳元で鳴っていた彼の心臓の音が、プツリと途絶えた。
「ああ……あああああああああああああああああああぁぁぁぁぁッ!!!!」
地下駐車場に、獣のような、人間のものとは思えない絶叫が木霊した。
結菜は湊の亡骸を抱きしめたまま、血の海の中で狂ったように首を振り、泣き叫んだ。
自分が全部間違えていた。
彼を守りたかっただけなのに。手段を選ばず、他人の娘の命を脅迫の材料にしてまで足掻いた結果が、これだ。
自分の傲慢なエゴが、愛する男も、自分を心から心配してくれた親友たちも、全員をこの冷たいコンクリートの上で肉塊に変えてしまった。
(私のせいだ……私が二人を巻き込んだから! 私が湊を、こんな目に……っ!!)
精神が、完全に崩壊する音がした。
涙と血と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、冷酷な目をした暗殺者が、結菜の眉間に黒い銃口を突きつけていた。
「仲良しごっこは、地獄でやれ」
恐怖は、もうなかった。
あるのは、取り返しのつかない罪悪感と、黒く塗りつぶされた絶対的な絶望だけ。
――パァンッ!!
乾いた銃声が響いた瞬間、結菜の視界は完全に暗転し、耐え難い激痛と共に、最悪の三回目のループが終わりを告げた。




