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初夏の湿気を帯びた生温かい風が、開け放たれた講義室の窓から吹き込み、机の上のプリントをかさりと揺らす。
「ねえ、聞いた? 文系キャンパスの法学部に、とんでもない美形の一年がいるらしいよ」
「聞いた聞いた! なんか『動く現代アート』とか『リアル王子』とか呼ばれてるんでしょ?」
「モデルか俳優の卵じゃないかって、他学部でも大騒ぎになってるらしくて……」
――パァンッ!!
鼓膜を突き破る乾いた銃声と、眉間を貫かれた熱い激痛の残滓に、結菜はガタッと音を立てて机に突っ伏した。
「ゲホッ……ハァッ、あ……っ」
酸素を求めて喉が痙攣する。目をカッと見開いた結菜の視界は、まだあの地下駐車場の赤黒い血の海に沈んでいた。
コンクリートの冷たさ。
無惨に剥がれ落ちたピンク色のマニキュア。
甘ったるいココアと、鉄の匂い。
そして、自分を庇って肉塊へと変わった湊の、生温かい血液の感触。
「ちょっと結菜! 大丈夫!? 急に突っ伏して……貧血?」
隣の席から、ひどく聞き慣れた、けれど永遠に失われたはずの高い声が降ってきた。
結菜の肩が、ビクンと大きく跳ねる。
ゆっくりと顔を上げると、そこには解剖学のテキストにピンク色のマーカーで線を引いているサヤカと、片手にペットボトルのミルクティーを持ったミオが、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
生きている。
首は不自然な方向に折れ曲がっていない。その指先には、綺麗に塗られたピンク色のマニキュアが、初夏の光を反射してツヤツヤと光っている。
(ああ……っ、サヤカ、ミオ……っ!)
両腕を伸ばして、その温かい体にすがりついて泣き叫びたかった。私が愚かだった、本当にごめんなさいと、その足元に平伏して赦しを請いたかった。
だが、結菜は机の下で、自分の太ももを爪が食い込んで血が滲むほど強く抓った。
ダメだ。
私がこの子たちの優しさに甘えたから。私の「助けて」という一言が、ただの普通の女子大生だった彼女たちを、あの凄惨な地獄の底へ引きずり込んでしまったのだ。
私が彼女たちに関われば、また彼女たちは無慈悲に殺される。
結菜は、引きつりそうになる顔の筋肉を強引に凍てつかせ、乱暴な手つきで机の上のテキストと筆箱をカバンに詰め込み始めた。
「……結菜? どうしたの、次の講義……」
「……私、帰る」
感情を一切削ぎ落とした、氷のような声だった。
サヤカが目を瞬かせる。
「え? でも次、高橋先生の必須科目だよ? 休んだら単位……」
「どうでもいい」
結菜は立ち上がり、椅子を乱暴に机の下に押し込んだ。ガシャン、という鋭い音が、周囲の学生たちの視線を一瞬だけ集める。
「ねえ、本当にどうしたの? 顔色、真っ青だよ。保健室行くなら付き添うけど……」
「付きまとわないで」
ミオが伸ばしかけた手を、結菜は冷たく払いのけた。
パシッ、と乾いた音が講義室に響く。払われたミオの手が宙で止まり、サヤカが息を呑む気配がした。
「……結菜?」
「前から思ってたんだけど。あんたたちと一緒にいると、ひどく疲れるの」
自分の口から紡がれる言葉が、鋭い刃となって親友たちの胸を切り裂いていくのが分かった。
だが、結菜は歩みを止めず、振り返りもしないまま淡々と言葉を続ける。
「中身のない噂話と、流行りのカフェの話ばっかり。……最初から、ただの表面上の付き合いだったでしょ。もう、私に話しかけないで」
(ごめん。ごめんね、サヤカ。ミオ)
心の中では、血の涙を流して絶叫していた。
二人のお節介な優しさに、どれだけ救われたか。あの埃っぽい空き家で、二人が運んでくれた物資と情報が、どれだけ私の正気を繋ぎ止めてくれていたか。
でも、もう絶対に巻き込まない。嫌われてもいい。軽蔑されて、二度と口をきいてくれなくてもいい。
ただ、平和な世界で、温かいココアを飲んで、笑って生きていてくれさえすれば。
「……ちょっと待ってよ! 結菜、急に何言ってんの!?」
背後から、サヤカの震える声が響いた。いつも明るい彼女の声に、明らかな水気が混じっている。
それでも結菜は、振り返らない。
「待って。結菜、あんた何か隠してるでしょ」
ミオが、低い声で結菜の背中に投げかけた。
あの、いじめの首謀者を冷徹に追い詰めた時のような、鋭い洞察力を持った声。
「誰かに脅されてるなら、言ってよ。急にそんな態度になるなんて、絶対におかしい……!」
ミオの靴音が、背後から近づいてくる。
その真っ直ぐな正義感が、結菜の胸を抉った。彼女のこの優しさと鋭さが、前回、彼女自身を凄惨な死に至らしめたのだ。
「……脅されてなんかいないわよ。ただ、あんたたちが鬱陶しくなっただけ。……二度と、私の視界に入らないで」
結菜はそれだけを吐き捨てると、講義室の出口へ向かって足早に歩き出した。
アルコールのツンとした匂いと、古い紙の匂い。まとわりつくような初夏の湿気が、冷え切った結菜の体を撫でていく。
背後から、サヤカの微かな鼻すする音が聞こえた気がしたが、結菜は決して立ち止まらなかった。
(私一人でやる。……私一人で、悪魔になる)
爪を立てた掌から、血が滲んでいる。
もう、逃げ隠れするだけのゲリラ戦はしない。誰の助けも借りない。
湊を確保し、あのクソみたいな権力者どもを、根こそぎ地獄へ道連れにする。
親友たちに最悪の暴言を吐き、自ら絶対的な孤独へと身を投げた結菜の瞳には、かつてないほどに純化された、冷酷で美しい狂気だけが宿っていた。
*
文系キャンパスの学食で、数百人の学生が唖然とする中、再び彼を強引に引きずり出した。 「何なんだよ、結菜」と困惑する湊の問いかけにも一切答えず、私は彼を無人の旧講義棟へと押し込んだ。
文系キャンパスの端に取り残された、旧講義棟の廃教室。
無機質なスチール製の引き戸を乱暴に閉め、結菜はガチャンと錆びついた内鍵を下ろした。
締め切られた室内は、むせ返るような初夏の熱気と、何年も放置された埃、そしてチョークの粉の匂いが重く沈殿している。
「何なんだよ、結菜。いい加減説明しろ」
強引に引きずり込まれた湊が、シワになった白シャツの襟元を乱暴に引き剥がしながら低い声を出した。
結菜はその問いかけには一切答えず、教卓の上に転がっていた短いチョークを拾い上げた。ひび割れた黒板に向かい、迷いのない手つきでカツカツと直線を引いていく。
「おい、聞いてんのか」
湊の苛立ちを含んだ声。
結菜は黒板に大学の広域マップを描き殴りながら、背中越しに淡々と告げた。
「理系キャンパスの最奥にある、高度情報処理センター。……一ヶ月後の深夜、あそこの地下サーバー室を物理的にジャックするわよ」
「……は?」
予想外の単語に、湊の足音がピタリと止まる。
結菜はチョークの粉で真っ白になった指先を払い、無表情のまま振り返った。
「あんたは専務の裏帳簿と資金洗浄のデータを、今から私の横で完全にハッキングする。そのデータを、警察の裏サイトやマスコミに送るなんていう『握り潰せる方法』はとらない。……高度情報処理センターの基幹サーバーに直接入り込んで、全世界のネットワークと主要メディアの電波に、同時にゲリラ放送を仕掛けるの」
それは、もはやただの逃亡劇ではない。大企業を相手取った、捨て身のサイバーテロ宣言だった。
「……お前、頭おかしくなったのか? あそこのサーバー室は静脈認証と重量センサーの塊だぞ。物理的に侵入するなんて……」
「突破方法は私が考える。あんたはコードを書くことだけに集中しなさい」
氷のように冷たい、感情を一切削ぎ落とした機械のような声。
湊は、言葉を失ったように結菜を見つめた。
そのガラス玉のように色素の薄い瞳が、結菜の全身を観察するように細められる。
(……こいつ、何があった)
学食で取り巻きをかき分けて自分を連れ去った時、その手は異常なほど冷たかった。そして今、彼女の瞳には、かつて彼に向けられていた鬱陶しいほどの愛情や、世話焼きの温もりが微塵も存在しない。
ただ、底なしの暗闇と、何か途方もない絶望――大切なものをすべて理不尽に奪われ、血の海に沈められたような、凄絶な喪失の残滓だけが、その瞳の奥にどす黒くこびりついている。
湊は、無言のままゆっくりと結菜に歩み寄った。
コツ、コツという靴音が、埃っぽい教室に響く。
結菜は逃げなかった。ただ、近づいてくる彼を、感情のない凪いだ瞳で見つめ返している。
「……結菜」
湊の長い腕がスッと伸び、結菜の腰を引き寄せようとした。
いつもなら、ここで彼がよく飲むブラックコーヒーの匂いと古い紙の匂いが結菜を包み込み、すべての硬直を溶かしていくはずだった。
「……お前、震えてるぞ。なんか、嫌な夢でも見たのか」
湊は、気怠げな声の裏に不器用な優しさを隠し、結菜の首筋に顔を埋めようと身を屈めた。
「……俺は、お前の体温がないと落ち着かない。少しだけ、こうさせろ」
それは、前のループで彼が何度も口にしていた、甘えの口実。
結菜の心臓が、悲鳴を上げるほど激しく痛んだ。
彼の匂い。彼の体温。今すぐその腕の中に崩れ落ちて、「サヤカたちが死んだ」「私が巻き込んで殺したんだ」と、子供のように泣き叫んでしまいたかった。彼に縋り付き、その温もりで精神の崩壊を食い止めてほしかった。
しかし。
結菜は、自分の腰に回されようとしていた湊の腕を、両手で思い切り、冷酷に叩き落とした。
――パァンッ!!
乾いた音が、静まり返った空き教室に残酷なほど大きく反響した。
「……え」
湊の腕が、宙で不自然に止まる。
その瞳に、明確な拒絶に対する驚愕と、微かな痛みの色が走った。
「……触らないで」
結菜は、自分で叩き落とした彼の手から視線を逸らし、一歩だけ後ずさった。
声が震えないように。奥歯を噛み締め、口の中の粘膜が切れて鉄の味が広がるのを無視しながら、氷の刃のような言葉を紡ぐ。
「暑苦しいのよ。……ただでさえ埃っぽくて息が詰まるのに、いちいち引っ付かないで」
「……結菜?」
「いい? 私たちは今から、あんたの親父と専務の首をとるために動くの。こんなところで馴れ合ってる暇なんて一秒もないのよ。……それとも何、大企業の御曹司様は、私がご機嫌取りしてあげないとPCも叩けないわけ?」
心ない、最低の暴言。
湊の顔から、みるみるうちに表情が抜け落ちていくのが分かった。
傷つけている。彼を、そして自分自身を。千のナイフで滅多刺しにするように。
(ごめん……ごめんね、湊)
情が移れば、決意が鈍る。
彼の温もりに甘えれば、今度こそ私の精神は完全に崩壊し、また誰かを巻き込んで殺してしまう。
だから、私は機械にならなければいけない。
サヤカとミオも、そして愛する湊の心さえも切り捨てて、ただ巨大な権力を地獄へ引きずり落とすための、殺戮兵器に。
「……わかったよ」
長い沈黙の後。
湊は、空中で行き場を失っていた手をゆっくりと下ろし、感情の読めない冷たい顔で結菜を見下ろした。
「馴れ合いはなしだ。……なるべく最短でその『高度情報処理センター』への物理的な侵入ルートを構築しろ。俺はプログラムを組む」
湊は背を向け、教卓の上にノートPCを乱暴に広げた。
二人の間に、目に見えない絶対的な境界線が引かれた瞬間だった。
ブラインドの隙間から、初夏の眩しい陽光が埃を照らし出している。
結菜は、黒板に向かうふりをして、彼に見えないように両手で自分の顔を覆った。
触れたかった。その心臓の音を、もう一度背中から聞きたかった。
だが、その切実な願いを自らの手で粉々に砕き散らしたのは他でもない自分だ。 他人に寄りかかるなんてことはできない。 大切な人をもう失いたくない。 結菜は孤独な復讐鬼として、静かに、そして狂気的に作戦の構築を始めた。




