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何度タイムリープしても死ぬ『完璧王子』の幼馴染を救うため、私は世話焼きオカンを辞めて悪魔になります。  作者: *しおり*


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文系キャンパスの巨大な学食は、昼休みのチャイムが鳴り終わるや否や、数百人の学生たちが発するすさまじい熱気と、揚げ油や香辛料の匂いでむせ返るような喧騒に包まれていた。


結菜は、息をゼイゼイと切らして自動ドアを潜り抜けた。

 乱れた髪。汗ばんだ額。肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。だが、結菜の猛禽類のように鋭く見開かれた瞳は、広大なフロアを瞬時にスキャンし、迷うことなく一点だけを捉えた。


窓際の、特等席。

 そこには、以前のループと全く同じように、洗練された他学部の先輩らしき女性と向かい合い、綺麗に整えられた長い指で頬杖をつきながら、完璧な「リアル王子」の微笑みを浮かべている桐生湊の姿があった。


(……あ、ああ……っ!)


生きてる。あの白いシャツは血に染まっていない。その長い手足は、あり得ない方向に折れ曲がっていない。

 これまでの結菜なら、他人の目を気にして「幼馴染だとバレたら面倒だ」と踵を返していただろう。だが、今の結菜を縛る鎖は、もうどこにも存在しなかった。


「ちょっと、痛いんだけど!」

「なによ、急に……!」


結菜は、抗議の声を上げる取り巻きの女子たちや、すれ違う学生たちの肩を強引に弾き飛ばし、一直線に彼のもとへ突き進んだ。

 足音が、喧騒の中でやけに大きく響く。

 誰も気安く触れることのできない、大企業の跡取りとしての分厚い防弾ガラス。その絶対的な境界線を、結菜は躊躇なく踏み越えた。


不意に迫る足音に気づき、湊がゆっくりと顔を上げる。

 そのガラス玉のように色素の薄い瞳が結菜を捉えた瞬間、結菜は弾かれたように床を蹴り、立ち上がろうとした彼の胸に向かって、思い切り飛び込んだ。


――ゴンッ。


勢い余って、結菜の額が湊の硬い胸板にぶつかった。

 乱暴な衝突。だが、結菜の腕の中にすっぽりと閉じ込められたその体は、間違いなく温かかった。


「……みな、と……っ!」


冷たい雨の匂いもない。鉄の匂いも、むせ返るような血の匂いもない。

 結菜の鼻腔を満たしたのは、彼から微かに香る、古い紙の匂いとブラックコーヒーの苦味。

 そして何より、密着した胸の奥から、ドクン、ドクンと力強く脈打つ心臓の音が、結菜の鼓膜を、脳髄を、魂を直接揺さぶった。


(生きてる……! 湊が、生きてる……!)


その絶対的な生の感触が、これまで結菜を苛み続けていた絶望の氷を完全に打ち砕いた。

 結菜の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出す。


「わあぁぁぁぁっ、あああああぁぁぁっ……!」


それはもう、言葉ではなかった。

 大勢の学生が見ている面前であることなど完全に忘れ去り、結菜は湊のシャツを両手できつく握りしめ、顔を胸に押し付けたまま、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


突然の乱入者と、悲鳴のような号泣。

 周囲の女子たちは水を打ったように静まり返り、フロアの喧騒が嘘のように引いていく。

 そして何より驚愕していたのは、抱きつかれた湊本人だった。


「……は? 結、菜……?」


いつもなら結菜と目が合っても「完璧に他人のフリ」をして透過する彼だ。しかし、結菜が異常に取り乱し、自分の胸の中で震えながら泣き叫んでいるという規格外の事態に、彼が被っていた完璧な防弾ガラスの仮面は一瞬にして砕け散った。

 洗練された微笑みは完全に凍りつき、喉の奥から間抜けな声が漏れる。周囲の女子たちがざわめき始める中、湊は抱きついてきた結菜を引き剥がすことも、抱きしめ返すこともできず、ただ宙で両手を所在なげに彷徨わせていた。


「え、ちょっと。あなた誰!?」


呆然とする湊の向かいの席で、艶やかなネイルの先輩が我に返り、むせ返るような香水を漂わせながらヒステリックな声を上げた。


「いきなり湊くんに気安く抱きついて……! あなた、他学部の――」

「……誰だっていいでしょ!!」


結菜が、弾かれたように顔を上げた。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。しかし、その瞳には暗い狂気と、猛禽類のような鋭い熱が宿っていた。

 結菜の殺気すら帯びた一瞥に射抜かれ、先輩がビクッと肩を震わせて言葉を失う。


結菜は手の甲で乱暴に涙を拭うと、未だに事態を呑み込めず呆然としている湊の右手首を、両手でギュッと力任せに掴み上げた。

 ――あの雨の路地裏で、彼がトラックから私を安全な歩道へと投げ飛ばしてくれた、あの時のように。折れんばかりの強い力で。


「こいつの幼馴染です。悪いけど、今日からこいつの命も予定も、全部私が管理するので!」


涙声のまま、フロア全体に響き渡るような声で放たれた、イケメンナイトの絶対宣言。

 先輩は目を丸くして「……は?」と呆けた声を漏らし、数百人のギャラリーは信じられないものを見るような目で二人を注視している。

 結菜はそんな視線を一切無視し、湊の手首を引いて強引に歩き出した。


「帰るよ、湊! あんたはもう、一秒たりとも私の目の届かないところに行っちゃダメなの!」

「おい、結菜……お前、急に何言って……っ」


普段の湊なら、大衆の面前でこんな無様な真似をされることなど絶対に許さないはずだ。冷たく手を振り払い、足早に立ち去っていただろう。

 しかし、手首を握る結菜の異常な気迫と、その指先からビリビリと伝わってくる切実な恐怖の震えに押され、彼は抵抗するタイミングを完全に失っていた。


動く現代アート。文系キャンパスのリアル王子。大企業の孤独な跡取り。

 そんな大層な肩書きと分厚い壁を持った男が、涙痕だらけの小柄な女子大生に手を引かれ、数百人の唖然とする視線の中を、大人しく引きずり出されていく。


(……もう、絶対に手放さない)


結菜は、背後からついてくる湊の足音と、繋いだ手首から脈打つ温かい体温だけを頼りに、学食の出口へと向けて一直線に進んでいった。

 彼が世界から消え去った、あの地獄のような絶望の数日間に比べれば、周りの目など塵芥に等しい。

 狂気すら孕んだ片想いナイトと、運命を諦めかけていた自己犠牲プリンス。

 今、周囲の常識をすべて置き去りにして幕を開けた。


* 


薄暗い空き教室。ブラインドの隙間から差し込む初夏の光が、細い縞模様を作って床に落ちている。

遠くで響く蝉の鳴き声と、結菜の荒い呼吸音だけが、埃っぽい空間を満たしていた。


「……私を庇って、死んだんだから……っ!」


(……俺が、結菜を庇って?)


湊は一瞬息を呑んだが、すぐに法学部で鍛え上げられた冷徹な頭脳が、その荒唐無稽な言葉を否定しようと働いた。


「……結菜、落ち着け。タイムリープなんて映画の中だけの話だ。ストレスで幻覚でも見てるのか」


湊は結菜を引き剥がそうとした。しかし、胸にすがりつく彼女の細い体は、尋常ではないほどガタガタと震え、その瞳には『本物の死の恐怖』が色濃く張り付いていた。


湊の頭の中で、バラバラだったピースが急速に組み合わさっていく。 湊の心の中には、確かにその覚悟があった。

実家から刺客が放たれ、万が一にも結菜が巻き込まれそうになった時、自分はどう動くか。

答えは常に一つだった。


――自分の命を盾にしてでも、このうるさくて世話焼きな彼女だけは絶対に逃がす。


誰にも言ったことのない、自分の中にしかないはずのその最悪のシミュレーション(死の覚悟)を、なぜ結菜が完璧に言い当てられるのか。

そして何より、学食で彼女が叫んだ「命も予定も管理する」という異常な執着。ただの看護学生である結菜が、そんな狂気を抱くほどの絶望を味わう理由。


『あり得ない。だが、もしこれが幻覚なら、なぜこいつは俺の思考をここまで完璧に知っているんだ?』


湊の天才的な論理思考が、彼自身の常識の壁にヒビを入れていく。


『そう仮定しなければ、すべての辻褄が合わない』 すべての事象を論理的に、かつ矛盾なく説明できる唯一の解。それは、結菜の言う『タイムリープ』が紛れもない真実であると認めることだった。


湊のガラス玉のように色素の薄い瞳から、気怠げな諦観の色がスッと消え去った。代わりに宿ったのは、自らの常識をぶち破り、彼女の途方もない絶望に寄り添うことを決めた「共犯者」としての理知の光だった。


「……俺が殺されるとしたら、理由は一つしかない」


湊は、自分の胸に顔を埋めている結菜の頭越しに、虚空を睨みつけた。


「一昨日、実家から送られてきたあの古い裁判記録だ。専務の奴……あの紙の束の中に、自分の首が飛ぶような『爆弾』が紛れ込んでることに気づいて、俺ごと消そうとしてるんだ」


結菜が、ハッと顔を上げる。

涙で濡れたまつ毛の奥で、絶望の光が反撃の意志へと変わるのを、湊は確かな熱として感じ取った。


「帰るぞ、結菜」


湊は結菜の手首を掴み、空き教室の鍵を乱暴に開けた。

外の世界で見せる王子様は、もうそこにはなかった。



* * *




初夏の暴力的な陽射しの中、二人はキャンパスから逃げるように走り、息を切らしてアパートへと転がり込んだ。

ガンガンに冷房を効かせた結菜の部屋。

湊は靴を脱ぐなり、床の隅に追いやられていた茶色い封筒の中身をローテーブルの上にぶちまけた。


「……あった」


古い紙の匂いが舞う中、湊の長い指が、いつの日にか書類の隙間から転がり落ちた『黒い小さな塊』をつまみ上げる。

無骨な黒いUSBメモリ。

湊は迷うことなく自分のノートPCを開き、それを差し込んだ。


「結菜、悪いけどブラックコーヒー淹れて。氷多めで」

「そんなの自分で……ッ、どこ行くの!?」

「いや、だからコーヒー……」


立ち上がろうとした湊の腰のベルトを、結菜が背後から両手でガシリと掴んだ。

その顔は蒼白で、唇は小刻みに震えている。一度は彼を喪い、自らも突き落とされた死の恐怖が、フラッシュバックしているのだ。


「ダメ! 一歩も動かないで! 私が離した瞬間に、刺客が来たらどうするのよ!」

「ここは二階だぞ。いきなり窓破って入ってくるわけ……」

「来るの! あいつらは、常識なんて通じないんだから!」


結菜は湊の背中にピタリと張り付き、シャツの裾を親の仇のように握りしめた。

普段の湊なら、「暑苦しい」「重い」と文句を言って容赦なく引き剥がすところだ。しかし、背中越しに伝わってくる結菜の心臓の音が、異常なほど早く、そして怯えているのが分かった。


「……あー、もう。コーヒーは後でいいや」


湊は大きなため息をつき、結菜を背中にくっつけたまま、不格好な体勢で再びラグの上に座り込んだ。


「結菜、お前ずっと俺の袖と裾引っ張ってるけど。タイピングの邪魔なんだけど」

「邪魔でも離さない。あんたの命は私が管理するって言ったでしょ」

「……はいはい。じゃあ俺が殺されないように、背後からしっかり見張っててよ、結菜様」


呆れたような、ひどく素っ気ない口調。

だが、湊はその言葉とは裏腹に、背中にしがみつく結菜が少しでも安心できるように、わざと自分の広い背中を彼女の小さな体へと深く寄りかからせた。

押し返してくる温かい体温と、微かなシャンプーの匂い。結菜の震えが、少しだけ治まる。


「……専務の手駒、どんな奴だったか分かる?」


画面に無数の文字列を走らせながら、湊が静かに尋ねる。

結菜は、彼の背中の温もりを確かめながら、あの最悪の記憶の蓋を開けた。


「……匂い。ツンとした強烈なミントタブレットと、ひどく湿ったタバコが混ざったような悪臭。あと、靴の底に硬い金属のプレートみたいなのが付いてて、歩くたびにコツ、コツって鳴る大柄な男」

「ミントと、タバコ……」


湊のタイピングする指が、一瞬だけ止まる。

カタカタという規則的な音が途切れた。


「……黒田だ。親父のダミー会社で、『清掃部門』っていう名目で汚れ仕事を引き受けてる処理係。10年前の工場爆発事故の遺族の一人で、娘の心臓病のドナー順位を専務に握られて、言いなりになってる男」

「……遺族? じゃあ、あいつも専務の被害者……」

「同情してる場合じゃない。あいつは娘のためなら、俺たちを何度でも躊躇なくトラックの前に突き飛ばす」


冷徹な事実が、部屋の空気を一段と冷たくした。

PCの冷却ファンが、ブォンと低い唸り声を上げる。


「このUSBのロック、軍事レベルの強固な暗号化がかかってる。専務の奴、アナログな癖に異常に用心深い」

「……開けられないの?」

「俺を誰だと思ってるの」


湊は鼻で笑い、キーボードを叩く速度をさらに上げた。

青白いディスプレイの光が、彼の色素の薄い横顔を照らし出す。


「大学の高度情報処理センターのサーバーを経由して、逆探知されないように幾重にもプロキシを噛ませて解析をかける。……ただ、これだけ強固だと、俺の自作のプログラムをフル稼働させても、完全にロックを解除するまでには……」


湊は画面の右下に表示された、絶望的な予測時間を睨みつけた。


「……最短でも、三十日はかかる」

「一ヶ月……!?」


結菜が息を呑む。

三十日間。あのミントとタバコの匂いを漂わせるプロの暗殺者から、一秒たりとも気を抜かずに逃げ続け、この男の命を守り抜かなければならないのだ。


「……上等じゃない」


結菜は、震えの止まった手で湊のシャツをさらに強く握りしめた。

その声には、もう涙の気配はない。愛する男を死の運命から奪い返すための、強靭な決意だけが宿っていた。


「一ヶ月間、あんたは私が絶対に守る。だからあんたは、その頭脳で専務の首を取る爆弾の導火線に、きっちり火を点けなさい」

「……了解。命の管理者様」


湊は振り返らずにそう言うと、結菜の手に自分の左手をそっと重ねた。

冷たかった彼の指先が、今は確かな熱を持っている。


初夏の蝉時雨が鳴り響く四畳半。

巨大な権力の闇を暴くための、決して誰にも見つかってはならない、二人きりの過酷で甘やかな『三十日間の潜伏戦』が、今、静かに幕を開けた。






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