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何度タイムリープしても死ぬ『完璧王子』の幼馴染を救うため、私は世話焼きオカンを辞めて悪魔になります。  作者: *しおり*


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規則的な電子音が、泥のような意識の底にポーン、ポーンと響いていた。


重い瞼をこじ開けると、視界いっぱいに無機質な真っ白な天井が広がった。

ひんやりとしたシーツの感触。そして、雨とアスファルトの匂いを完全に上書きする、アルコール消毒液とクレゾール石鹸のツンとした匂い。


「……っ」


身をよじろうとして、右膝と手のひらに走ったヒリッとした痛みに顔をしかめる。

視線を落とすと、自分の手には泥と血の汚れはなく、ただ擦りむいた赤い傷跡に、ガーゼと白いテープが丁寧に貼られているだけだった。


(……なんで、私、生きて……)


その白いガーゼを見た瞬間。

脳髄を、凄まじい雨音と、金属が激突する轟音がぶち抜いた。


宙を舞う自分の体。

身代わりになるようにトラックの前に投げ出された、白シャツの背中。

血の海の中で、安堵したように微笑んだ、あのガラス玉のような瞳。


「湊……ッ!」


結菜は弾かれたように上体を起こし、ベッドの柵を乱暴に掴んで立ち上がろうとした。


「あっ、結菜さん! まだ急に動いちゃダメですよ!」


病室のドアが開き、カルテを持った中年の看護師が慌てて駆け寄ってくる。

結菜は看護師の制止を振り払い、血走った目で周囲を見回した。隣のベッドは空だ。病室のどこにも、あの無駄に長い手足も、ひんやりとした色素の薄い髪も見当たらない。


「一緒にいた人は!? 白シャツの、背が高い……私の幼馴染はどこですか!?」


喉から絞り出した声は、自分でも驚くほどひび割れて、酷く掠れていた。

結菜の必死の形相に、看護師はフッと視線を逸らし、気まずそうに結菜の肩に手を置いた。


「結菜さん、落ち着いて。ご実家のご両親には連絡がつきました。でも、遠方だからすぐには向かえないそうで……」

「そんなことどうでもいい!!」


結菜の怒鳴り声が、静かな病室に響き渡った。

看護師がビクッと肩を震わせる。


「親なんていい……あいつは? 湊はどこにいるの!? 私を突き飛ばして、あいつがトラックに……っ」

「……」


看護師は何も答えなかった。

ただ、その目に浮かんだ、痛ましいものを見るような憐憫の色。

その沈黙が、何百の言葉よりも雄弁に『絶対的な事実』を物語っていた。


「……嘘でしょ」


結菜の膝から、完全に力が抜け落ちた。

ドサリとベッドの端に座り込み、ガタガタと震える両手で自分の顔を覆う。


「嘘よ……だって私、こんな……ただの擦り傷じゃない……っ!」


ガーゼの貼られた手のひらを、狂ったように看護師に見せつける。

骨も折れていない。内臓も破裂していない。ただアスファルトで擦り剥いただけの、絆創膏で事足りるような怪我。

私がこんなに無傷なのに。あいつが死ぬなんて、そんなの物理的におかしいじゃないか。


「結菜さんは……奇跡だったんです。お連れ様が、本当に間一髪で、あなたを歩道に投げ出してくれたから……。でも、お連れ様は、トラックと正面から……」


看護師の同情に満ちた声が、遠くのノイズのように聞こえる。

奇跡? ふざけるな。

あんな風に、愛する相手を一人残して自分だけ死んでいく自己犠牲のどこが奇跡だ。

私だけが息をして、私だけが傷一つなく生き残ったことが、あいつの命を引き換えにしたという最悪の『証明』じゃないか。


(どうして……なんであんな風に笑ったのよ……バカ……っ)


涙すら出なかった。

ただ、胸の奥の柔らかな部分を、素手でぐちゃぐちゃに引き裂かれているような、息もできないほどの絶望感だけが結菜の全身を支配していた。


* * *


結菜の身体的な異常は、本当にその『擦り傷』だけだった。

 脳のCT検査でも異常は見られず、遠方の両親が到着するのを待つまでもなく、結菜はその日の夕方には「帰宅して問題ない」と告げられた。両親にもその旨を伝え、彼らがこちらに向かってくるのをやめさせた。


無機質な大学病院のエントランスを出る。

 外は、あの土砂降りが嘘のように晴れ上がり、初夏の生温かい夜風が吹いていた。

 水たまりの残るアスファルトが、街灯の光を反射してキラキラと光っている。

 ネオンサインの瞬く駅前の喧騒。笑い合いながらすれ違う大学生のグループ。

 世界は、昨日と何一つ変わっていない。

 ただ、隣を歩くはずだった「不機嫌な幼馴染」の姿だけが、永遠にこの世界から消しゴムで消し去られていた。


「……みな、と」


夜風に乗って、微かに雨の匂いがした。

 結菜は、血の滲んだ絆創膏の貼られた自分の両手で、自分の体をきつく抱きしめた。

 私をあのトラックから引き剥がした、あいつの強烈な腕の力。

 その感触だけが、まるで幽霊のように結菜の肌にこびりついて離れなかった。




* * *




桐生グループの跡取り息子の葬儀は、その巨大な権力とは裏腹に、驚くほど密やかに、そして冷淡に執り行われた。


冷たい雨が降りしきる中、都内の豪奢な斎場に集まったのは、親族とごく一部の企業幹部だけだった。祭壇に飾られた湊の遺影は、学食で見せていたような完璧な営業スマイルを貼り付けたまま、どこか遠くを見つめている。

 黒い喪服に身を包んだ結菜は、親族席の末席で、膝の上で白くなるほど拳を握りしめていた。

 読経の声が響く中、結菜の耳には、少し離れた控室から漏れ聞こえる話し声が絶えず突き刺さっていた。


「……よりによって、株主総会の直前にとは。後継者問題の再選定を急がねばなりませんな、社長」

「ええ、堂島専務。湊の分家から、使えそうな養子の候補をリストアップしておいてくれ。マスコミには、ただの不運な交通事故として処理するよう警察にも念を押してある。……盗難車の運転手はすでに『自殺』したことになっているのだろう?」

「抜かりはありません。証拠はすべて消えております」


低く、事務的な声。そこに、血を分けた息子を喪った悲哀や、無念さなど微塵もなかった。

 湊の死は、彼らにとってただの「手駒の損失」であり、株価を揺るがす「厄介なスキャンダル」でしかなかったのだ。遺影の横に立つあのいつの日にか見かけた母親でさえ、流れる涙をハンカチで拭う『演技』をしながら、視線は早くこの場から立ち去りたそうに時計をチラチラと確認している。


(『いつか、結菜まで真っ黒に汚れちゃうよ』『俺みたいなどうしようもない奴が隣にいない方が――』)


数日前、自分のアパートで自嘲するように笑った彼の声がフラッシュバックする。 湊は分かっていたのだ。自分の実家が腐りきっていることも、自分がいつか消される運命にあることも。だから、私を巻き込まないためにあえて遠ざけようとして、最後は自分の命を投げ打って私を守ったのだ。


(……こいつら、誰も湊のことなんて、愛してなかったじゃないか)


大企業の跡取りとしての重圧。そして、誰からも愛されない絶対的な孤独。

 湊は、こんな冷え切った世界に一人で立っていたのだ。だからこそ、彼は結菜の狭い四畳半のアパートに逃げ込み、彼女の作った安上がりな手料理を欲しがった。

 世界中で、あんなに不器用で、面倒くさくて、だらしなくて、それでも愛おしい彼の『本当の姿』を知っていたのは、私だけだったのに。


* * *


事故から数日後。医薬キャンパスの学食は、いつもとは違う異様なざわめきに包まれていた。


「ねえ、聞いた……? 文系キャンパスの法学部の、あのリアル王子……」

「うん、ニュース見た。ひき逃げだって。嘘でしょ……あんなに綺麗だったのに」

「信じられない。この間、ここで笑ってたじゃん……」


周囲のテーブルから聞こえてくるのは、突然散った「動く現代アート」への感傷と、無責任な好奇心に満ちた噂話ばかりだ。彼がどんな人間だったのか、本当は何に苦しんでいたのか、誰も知らないくせに。


結菜は、目の前に置かれた手付かずのうどんを見つめたまま、微動だにしなかった。

 割り箸の袋を細かく千切っていたサヤカが、心配そうに結菜の顔を覗き込む。


「結菜、顔色すっごく悪いよ。大丈夫……?」

「……うん。ちょっと、寝不足なだけ」

「嘘ばっかり。昨日も実習のガイダンス、ずっと心ここにあらずだったじゃん」


隣に座ったミオが、自動販売機で買ってきた温かいココアの缶を、結菜の冷え切った手にそっと押し付けた。


「あのさ、結菜。うちら、結菜が最近なんか重い悩み抱えてるの、分かってるから。……もし実習のストレスとか、それ以外のことでも、言えそうならいつでも聞くからね。一人で抱え込んじゃダメだよ」


友人たちの不器用で温かい気遣いが、今の結菜にはどうしようもなく痛かった。

 言えるはずがない。あの雨の路地裏で、自分を庇って死んだ幼馴染の血の感触が、まだこの両手にべったりとこびりついていることなんて。


「……ごめん。ありがとう。私、今日はもう帰るね」


結菜はココアの缶を握りしめたまま逃げるように立ち上がり、ざわめく学食を後にした。


* * *


鉄製の外階段を上り、自分のアパートの部屋を開ける。

 生温かい空気が淀んだ室内は、死んだように静まり返っていた。


――ピリリリリ。


静寂を破って、スマートフォンが震えた。画面には『お母さん』の文字。

 通話ボタンを押して耳に当てると、電話の向こうから、鼻をすするくぐもった声が聞こえてきた。


『……結菜。ちゃんと、ご飯食べてる?』

「……うん。食べてるよ」

『嘘おっしゃい。あんた、湊くんがいなくなって、一人で泣いてるんでしょ』


母親の震える声を聞いた瞬間、結菜の視界がぐにゃりと歪んだ。

 結菜の母は、育児放棄同然だった湊の家庭環境を知り、彼が幼い頃から本当の息子のようにご飯を食べさせてきた。


『お母さんね、昨日スーパーで、つい湊くんが好きだったピーマン抜きのハンバーグの材料、買いすぎちゃって……。あの子、またフラッと勝手口から入ってきて、「腹減った」って言うんじゃないかって……っ』

「……お母さん、」

『結菜。あんたが自分を責めることはないのよ。湊くんは……あの子は、結菜を守れて、きっと……』


電話越しの母の嗚咽に、結菜はもう、声を抑えることができなかった。

 スマートフォンを握りしめたまま、キッチンの床にうずくまり、声を上げて泣き崩れる。


冷蔵庫の中には、あの日買ってきた特売のひき肉が、赤黒く変色したまま放置されている。

 シンクの横には、彼が勝手に使っていた黒いマグカップが、伏せられたまま乾き切っている。

 もう、あの分厚い壁の向こうから壁を叩く音は聞こえない。勝手に上がり込んで、結菜のベッドを占領することもない。

 彼が結菜の世界に存在していたという痕跡だけが、残酷なまでにこの部屋のあちこちに散らばっているのに。


(私しか……いなかったのに)


彼をあの冷たい世界から引き留めておく方法は、もう永遠に失われた。

 声が枯れるまで、涙が枯れ果てるまで、戻らない幼馴染の名前を呼び続けた。


* * *


絶望に沈む泥のような数日間。

 しかし、結菜の狂おしい喪失感は、やがてどこか引っかかる『違和感』と『怒り』へと変貌していった。


あの雨の日の記憶。

 ニュースでは、ひき逃げのトラックは盗難車であり、運転手は山中で自殺体となって発見されたと報じられていた。専務たちが控室で話していた通りの、完璧な『証拠隠滅』。


(……なんで私、あの時、車道に倒れたんだっけ)


トラックが突っ込んできたのではない。あの時、確かに背後から、圧倒的な力で突き飛ばされたのだ。

 そして、路地裏で結菜の鼻を突いた、激しい雨の匂いをも掻き消すほどの、あの異質な臭気。


――ツンとした、強烈なミントタブレットの匂い。それに混ざる、ひどく湿ったタバコの悪臭。

あの事件の前日、アパートですれ違ったあの男から香ったものだった。


「……偶然の事故じゃない」


結菜は、血走った目で暗い部屋の中を睨みつけた。

 湊は、専務に殺されたんだ。私を巻き込まないために、最後に突き飛ばして、自分だけ犠牲になって……。


「許さない……絶対に、許さないッ!」


結菜はフラフラと立ち上がり、湊が残していった書類の束を探そうとした。隣の部屋のベランダを伝って、湊の部屋に侵入しよう。警察が見落としている証拠が、まだあるはずだ。

 結菜がベランダの窓に手をかけた、その瞬間だった。


――ガチャリ。


鍵を開けていないはずの玄関のドアが、ゆっくりと開く音がした。

 振り返った結菜の全身を、氷のような悪寒が貫いた。

 開いたドアの隙間から、ドロリとした闇と共に、鼻腔を麻痺させるほどのあの匂いが流れ込んでくる。


「……っ!」


暗闇の中から、黒いレインコートを着た大柄な男が、音もなく室内に滑り込んできた。


「探りすぎだ、お嬢ちゃん」


男は一瞬で距離を詰めると、分厚い手で結菜の首を万力のような力で締め上げた。


「ガッ……ァ……!」


両足が床から浮き上がる。気管が完全に潰され、酸素が絶たれる。

 男は結菜の首を掴んだまま、開け放たれたベランダの方へとズルズルと歩みを進めた。


「他殺になれば、警察がうるさいんでね。……幼馴染の死を悲観した、哀れな女子大生の後追い自殺。警察も大衆も、そういう陳腐な悲劇が大好物だ」


男の冷酷な声が、薄れゆく意識の遠くで響く。

 専務のシナリオ。湊の死を悲しむ結菜の心すら、彼らは自分たちの完全犯罪のための『設定』として利用しようとしているのだ。


「坊ちゃんの葬式で大人しく泣いていれば、見逃してやったものを」


4階のベランダの柵の手前。男は躊躇なく、結菜の体を暗い夜空へと放り投げた。


「あ……」


体が、宙を舞う。

 冷たい夜の風が、全身を打ち据える。

 落下していく数秒間が、永遠のように長く感じられた。


(湊……)


恐怖は、不思議となかった。

 ただ、守ってくれた命を無駄にしてしまったこと。彼の無念を晴らしてやれなかったことへの、果てしない後悔だけが胸を満たしていた。


(ごめんね……仇、討てなかった……)


視界の端に、あの雨の日の、彼の悲しくも美しい笑顔がフラッシュバックする。

 もう一度だけ、会いたい。

 あの、不機嫌そうな声を聞きたい。

 お父さん、お母さん。

――ガンッ!!!


全身の骨が砕ける、圧倒的な衝撃と激痛。

 結菜の視界は、真っ赤な血の色に染まり、そして、永遠の暗闇へと落ちていった。


* * *


初夏の湿気を帯びた生温かい風が、開け放たれた講義室の窓から吹き込み、机の上のプリントをかさりと揺らす。


「……ッ!!」


気管に無理やり空気を詰め込まれたような感覚に、結菜は勢いよく上体を起こした。

 肺が焼け付くように痛い。全身を砕かれたような激痛の幻影に、結菜は震える手で自分の首を、そして腕や脚を狂ったようにまさぐった。


(……ない)


暗殺者の万力のような指の感触も、落下する際の冷たい夜の風も、アスファルトに叩きつけられて全身の骨が砕ける音もない。

 代わりに耳を打つのは、やかましいほどの蝉の声と、平和な日常の生温かい空気だけ。

 結菜は震える右手を、自分の左胸にきつく押し当てた。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 力強く脈打つ心臓の鼓動が、手のひらを伝って脳髄を激しく揺さぶる。

 生きている。私は生きている。


「ちょっと結菜! 突然どうしたの!?」


耳元で、サヤカの甲高い声が弾けた。

 結菜の目は、焦点が合わないまま虚空をさまよう。

 初夏の、まとわりつくような湿気。生乾きのシャツの匂い。

 そして、アルコールのツンとした匂いと、古い紙の匂いが混ざり合う、医薬キャンパスの講義室。


結菜の手元には、解剖学の教科書が置かれており、解剖学のテキストのページには、さっきの衝撃のせいか、インクが滲んで不自然な染みを作っていた。


(え……?)


その時。


「ねえ、聞いた? 文系キャンパスの法学部に、とんでもない美形の一年がいるらしいよ」

「聞いた聞いた! なんか『動く現代アート』とか『リアル王子』とか呼ばれてるんでしょ?」

「モデルか俳優の卵じゃないかって、他学部でも大騒ぎになってるらしくて……」


少し離れた席から聞こえてきた、女子たちのキャピキャピとした浮ついた会話。


(……え? リアル王子? それって、数日前の話じゃ……)


結菜は弾かれたようにポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で画面を点灯させた。

 液晶に浮かび上がった日付。それは間違いなく、あの日。

 湊が私を庇ってトラックに撥ねられる数日前、あの忌まわしい雨が降る前の、初夏の日付だった。


(時間が、戻ってる……!?)


結菜はゆっくりと顔を上げ、窓の外を見た。

 そこには、数日前と全く同じ、突き抜けるような眩しい初夏の青空が広がっていた。

 あの冷え切った葬儀場の空気。骨と灰になり、無機質で冷たい骨壺に納められていた彼。

 それが今はまだ、この同じ空の下で、血の通った温かい体で息をしているというのか。


(湊が……生きてる?)


その絶対的な事実が、モノクロームの絶望に沈んでいた結菜の視界を、一気に鮮やかで暴力的なまでの色彩で塗り替えていく。

 永遠に失われたはずの彼が、生きている? あの不機嫌で、愛おしい声がまた聞ける?


(でも、嘘かもしれない。都合のいい、死ぬ前の幻覚かもしれない)


指先が微かに震える。液晶画面の数字を見ただけでは、あの冷たい骨壺の感触を拭い去ることはできない。

 この目で確かめないといけない。あいつの顔を、不機嫌に歪む眉間を、生きて動いている姿をこの目で直接見ない限り、絶対に安心なんてできない。


他人の目やキャンパスライフの体裁を気にして、彼と距離を置こうとしていた自分の弱さが、結果的に彼をあの冷たい世界で孤独にさせ、死なせたのだ。


(今度こそ絶対に、あんたを死なせない。私の命に代えても、あいつらを地獄に落としてでも……私が、あんたを守る!)


結菜の頭の中で、これまで彼女を縛り付けていた、ただの女子大生という常識の糸が、完全に弾け飛んだ。

 彼女はスマートフォンを乱暴にポケットにねじ込むと、弾かれたように椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。


――ガシャンッ!!


倒れた椅子が講義室の床に激突し、凄まじい音を立てる。

 その瞬間に静まり返った講義室中の数十人の視線が、一斉に結菜へと集まった。


「えっ、結菜!? どこ行くの!?」

「ちょっと、昼休みもうすぐ始まるよ!?」


驚いて立ち上がるサヤカとミオの声。周囲の学生たちの好奇と戸惑いの目。

 しかし、そんなものは今の結菜の耳には全く届いていなかった。

 彼女の意識はただ一つ。ここから何百メートルも離れた文系キャンパスの学食にいる、あの不機嫌で、だらしなくて、どうしようもなく愛おしい幼馴染の姿だけを捉えていた。



「ごめん、私行く!」


きょとんとする親友たちを置き去りにし、結菜はカバンすら持たずに講義室を飛び出した。

生きている証拠を、一刻も早くこの目で見るために。


 周囲の平和な日常も、学生生活の体裁も、すべてを過去の残骸のように背後に投げ捨てる。

 結菜は、初夏の生温かい空気を引き裂くように、彼のもとへ向かって全速力で駆け出した。

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