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『――本日の県内は、高気圧に覆われ一日中快晴となるでしょう』
朝のニュースキャスターが満面の笑みで告げていたその予報を、いったい誰が信じただろうか。
午後。空調の効きすぎた医薬キャンパスの図書室で、結菜は分厚いファイルに突っ伏して深い溜息をついた。
「……あーもう、高橋先生絶対おかしいって。なんでただの見学実習の事前レポートで、再提出三回もくらわないといけないのよ……」
「ほんとそれ。小児のバイタルサイン全部暗記とか、鬼でしょ。しかもこんなに天気いいのに、うちらだけ図書室に缶詰めとか最悪」
隣でサヤカが、窓の外の青空を恨めしそうに睨みつけながらシャーペンを放り投げた。
しかし、その青空がどす黒い雨雲に飲み込まれるのに、そう時間はかからなかった。ポツ、ポツと不穏な水滴が窓ガラスを叩き始めたかと思うと、夕刻には息もできないほどのゲリラ豪雨が街を打ち据え始めたのだ。
図書室を出て、駅前のスーパーで特売の豚肉を買い込んだ結菜は、強風に煽られるビニール傘を両手で必死に支えながら、大学裏の住宅街へと続く細い抜け道を急ぎ足で歩いていた。
アスファルトに叩きつけられる無数の雨粒が白く煙り、視界を数メートル先まで奪っていく。重い教科書が詰まった鞄が、肩に容赦なく食い込んだ。
(だから朝、あのポンコツ王子に傘持っていけって言ったのに……!)
自室の玄関に置きっぱなしになっている、湊の安っぽいビニール傘。それを思い出すたびに、苛立ちとも心配ともつかない感情が胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
キャンパスのメインストリートを歩けば、あの無駄に目立つ美貌だ。必ず誰か熱狂的な女子学生が『湊くん、傘入る!?』と群がってくるに決まっている。いや、むしろ見知らぬ女子の車に乗せられて優雅に帰宅している可能性だってある。
そう頭では分かっているのに、彼が誰かの傘の下で笑っている姿を想像すると、肩の痛みよりもずっと、胸の奥が鈍く痛んだ。
そんな思考を振り払うように、結菜は古いトタン屋根の倉庫が並ぶ、人通りのない薄暗い裏通りへと角を曲がった。
その時だ。
視界の端に、ずぶ濡れになりながら歩道をとぼとぼと歩く、見覚えのある長身が映った。
無地の白シャツが雨水を吸って肌に張り付き、水も滴る「リアル王子」を通り越して、ただの哀れな迷子のような姿になっている桐生湊だった。
(え……なんでこんな裏道に……)
誰も寄り付かないようなこのルートは、結菜が近道として使う道であり、同時に彼が普段、熱狂的な取り巻きから逃れるために使う「秘密の抜け道」だった。
女子の群れに愛想を振り撒いて傘に入れてもらうことすら面倒くさがり、雨に打たれることを選んで一人で裏道を歩く。その不器用で孤独な背中に、結菜の足は勝手に動いていた。
「……ちょっと! 何やってんのよ、あんた!」
結菜が駆け寄り、背伸びをするようにして彼の頭上に傘を差し掛ける。
湊は立ち止まり、伏せていた長い睫毛から雨の雫をポタポタと落としながら、のそりと結菜の方へ顔を向けた。
「……ん。結菜か」
「『ん』じゃないわよ! だから朝、玄関に置きっぱなしの傘持っていきなさいって言ったでしょ! どうせまたうちでご飯食べるつもりで向かってたんでしょ!?」
結菜の怒鳴り声は、激しい雨音に半分ほど掻き消された。
湊は、濡れた前髪の隙間から結菜の怒った顔をじっと見下ろし、それから微かに首を傾げた。
「……メインストリート歩いたら、知らない女に囲まれて鬱陶しかったから。裏道なら、結菜に会えるかと思って」
「は……?」
「だって結菜、図書室で残ってレポート書く日は、大体こっちの道から帰ってくるでしょ」
感情の読めない平坦な声。けれど、その無防備な言葉の破壊力に、結菜の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
(待ってよ……じゃあこいつ、こんな雨の中で……私と合流するために、わざわざこの道通ってたってわけ……?)
「それに、朝は晴れてたし。天気予報なんて当てにならないから」
「あんたが当てにならないの!」
文句を言いながらも、結菜は傘の柄を持つ手にギュッと力を込めた。
一つの小さなビニール傘の下。
肩が触れ合いそうな距離。
彼から漂う、雨の匂いと微かなブラックコーヒーの苦味が、結菜の心臓の鼓動を不整脈のように狂わせる。
(バカみたい……。相合い傘くらいで、何緊張してんだか)
自分のどうしようもない恋心を悟られないよう、結菜はわざとらしく舌打ちをし、「ほら、半分濡れてるじゃない。もっとこっち寄りなさいよ」と彼の腕を乱暴に引っ張った。
湊はされるがままに結菜の肩にすり寄り、スーパーの袋の中身をぼんやりと覗き込む。
「……今日の飯、なに。ハンバーグって言ったよね」
「ひき肉が安くなかったから、ただの生姜焼き。文句あるなら実家のシェフにでも作ってもらいなさい」
「生姜焼きでいい。結菜の飯ならなんでもいいよ」
感情の読めない平坦な声。けれど、その無防備な甘えが、どうしようもなく愛おしい。
雨を避けるため、二人は大通りを外れ、駅前の歓楽街の裏手へと続く薄暗い路地裏に入り込んだ。狭いコンクリートの壁に囲まれたそこは、叩きつけるような雨音がさらに反響し、お互いの声すら聞き取りにくい。
――その時だった。
激しい雨の匂いを唐突に切り裂いて、異質な臭気が結菜の鼻腔に侵入してきた。
ツンとした、強烈なミントタブレットの匂い。それに混ざる、ひどく湿ったタバコの悪臭。
背筋に、氷を滑らせたような悪寒が走る。
振り返ろうとした瞬間、背後から**「巨大な鉄の塊」**のような圧倒的な力で、背中を思い切り突き飛ばされた。
「え……っ!?」
二人の体は、薄暗い路地裏の出口から、雨に濡れ、ヘッドライトの光が白く煙る交通量の多いバイパス道路に向かって投げ出された。
視界が上下に反転する。
持っていたビニール傘が手から吹き飛び、スーパーの袋から転げ落ちた玉ねぎが、水たまりの中を転がっていく。
ザァァァッ! という雨音を掻き消して、けたたましい大型トラックのクラクションが轟いた。
迫り来る、暴力的なヘッドライトの光。
(轢かれる――!)
この時間帯、他の車や人はいない。トラックの運転手も、土砂降りの雨で視界が悪かった。暗闇から突然飛び出した二人の姿を捉えた瞬間、トラックは急制動をかけるが、その巨体は雨に濡れたアスファルトを滑り、止まるはずがない。
結菜が死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じた次の刹那。
結菜の手首を、折れんばかりの凄まじい力で引き寄せる手があった。
「――結菜ッ!!」
いつも感情を抜け落ちさせていた湊の、聞いたこともないような絶叫。
空中で、強い力で体が反転させられる。
結菜の視界の中で、スローモーションのように湊の顔が過ぎ去った。
見開かれたガラス玉のような瞳。普段の冷めきった無関心さは微塵もなく、ただ結菜だけを真っ直ぐに、射抜くように捉えていた。
(え……?)
考えるより早く、彼の長い腕が結菜の体を安全な歩道脇の柔らかな植え込みへと力いっぱい投げ飛ばしていた。
「みな、と――」
結菜の体が、固いアスファルトの歩道に叩きつけられる。
直後。
ガガァァァァンッ!!!
鼓膜を破るような金属の衝突音と、何かが撥ね飛ばされる重く鈍い音。
トラックの急ブレーキのスキール音が虚しく響き、そして、ひき逃げを企図したかのように、速度を上げて走り去っていくエンジン音が遠ざかる。
「……あ……」
擦り剥いた膝の痛みも忘れ、結菜は這いつくばるようにして顔を上げた。
視界が、雨と涙でぐしゃぐじゃに歪む。
「湊……? 嘘でしょ……湊っ!!」
車道の真ん中。
無惨にへし折れたビニール傘の横で、真っ白だったシャツを赤黒く染め上げ、あり得ない方向に手足を曲げて倒れている湊の姿があった。
結菜は悲鳴を上げながら、水たまりを這うようにして彼に駆け寄った。
「嫌だ、嫌だ嫌だ……! 目を開けてよ、湊っ!」
血の海の中に崩れ落ち、彼の冷たくなりゆく頬を両手で包み込む。
湊の長い睫毛が、微かに震えた。
焦点の合わなくなった瞳が、ゆっくりと動いて結菜の顔を捉える。
「……みなと……っ」
口からごぼりと血をこぼしながら、彼は結菜の全身を視線でなぞった。
擦り傷はあるものの、致命傷はない。結菜が生きている。結菜が、無傷だ。
それを確認した瞬間。
湊の血に染まった唇が、ふっと緩んだ。
痛みに歪むでも、死の恐怖に怯えるでもない。まるで、ずっと背負っていた重い荷物をようやく下ろせたかのような、ひどく穏やかで、静かな表情だった。
(なんで……笑って、)
「……よかった……」
空気が漏れるような小さな声。
それを最後に、ガラス玉のような瞳からスッと光が消え去り、湊の体が完全に脱力した。
「……え?」
雨音だけが、やけに鮮明に耳に響く。
目の前で起きていることが、全く理解できなかった。
トラックに撥ねられた? 湊が? 私を、突き飛ばして?
さっきまで、一つの傘に入って文句を言い合っていたのに。家に帰って、一緒に生姜焼きを食べるはずだったのに。
「湊……? ねえ、嘘でしょ……起きてよ……っ」
揺さぶっても、その体はもう、ただの冷たい肉の塊のように重かった。
彼が死んだ。私を庇って。その事実が、現実感のないまま結菜の頭をガンガンと殴りつける。
(なんで……なんであんたが死ぬのよ……っ!)
理解の追いつかないパニックと、凄まじい喪失感で呼吸ができない。
「ああああああああぁぁぁぁぁっ!!」
獣のような絶叫が、雨の夜空に引き裂かれるように響き渡った。
その時。
背後に、無言の影が立った。
ミントとタバコの匂い。コツ、と硬い靴の音が鳴る。
結菜が振り返るより早く、背中を冷酷な力で蹴り飛ばされた。
湊の亡骸にすがりついていた結菜の体が、再び雨の車道へと転がり出る。
プァァァァァンッ!!
後続のトラックのクラクションが鳴り響く。
鼓膜を破るような金属の衝突音と、何かが撥ね飛ばされる重く鈍い音。
トラックの急ブレーキのスキール音が虚しく響き、そして、ひき逃げを企図したかのように、速度を上げて走り去っていくエンジン音が遠ざかる。
血の海に沈む湊の姿、そして彼が最後に残した、残酷なほどに美しく安堵に満ちた笑み。
その記憶を最後に、結菜の意識は深い闇へと沈んでいった。




