大学生編 番外編2
医薬キャンパスと文系キャンパスの中間に位置する、ガラス張りの開放的なお洒落なカフェ。
結菜は、メープルシロップがたっぷりかかったパンケーキをフォークで小さく切り分けながら、弾んだ声を上げていた。
「でね、文学部の『日本文学基礎ゼミ』にすっごく厳しいお爺ちゃん先生がいるんだけど……そこのゼミで、マキとリナっていう新しい友達ができたの!」
サヤカとミオは顔を見合わせ、目を潤ませた。かつてのループで彼女たちが凄惨な事件に巻き込まれそうになった記憶を抱えながらも、平和なキャンパスライフを取り戻した結菜の姿に、心底安心しているのだ。
学部が違っても「週一のランチ会とカラオケは永久に強制連行」という二人の約束は、こうしてきちんと果たされている。
「へえー! マキちゃんとリナちゃん! 結菜に友達できて安心したー!」
サヤカがアイスティーのストローを噛みながら、涙ぐんで笑う。
「うん。……それでね、この間、そのゼミの飲み会にも行ってきたんだよ。甘いカシスオレンジ飲んで、ちょっと酔っ払っちゃった」
結菜が少し照れくさそうに視線を逸らし、パンケーキを口に運んだ。 ピタリ、と。ミオがパスタを巻いていたフォークの動きを止めた。サヤカと顔を見合わせ、テーブルの空気が一瞬で張り詰める。
「えっ、飲み会? ちょっと待って……」ミオが、信じられないものを見るような目で結菜を凝視した。
「あの『超絶過保護なリアル王子』が、結菜が夜に飲み会に行くのなんて許したの!?」
「……許すわけないでしょ」
背後から、ひどく気怠げで、地を這うような低い声が響いた。
三人が弾かれたように振り返ると、そこにはシワの寄った無地の白シャツを無造作に着こなした桐生湊が立っていた。 かつて文系キャンパスの学食で見せていた「誰も寄せ付けない防弾ガラスの向こう側に隔離されている」ようなオーラや、旧講義棟の空き教室で見せたような血走った狂気は微塵もない。
大企業の重圧から解放された今の彼は、結菜という女を完全に手に入れ、隅々まで自分の色で塗り潰した大人の男としての『圧倒的な余裕と危険な色気』を全身から漂わせていた。
湊は、怯えるサヤカとミオを一瞥すると、軽く頭を下げて、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「……どうも。うちの結菜が、いつも世話になってます」
「う、うちの結菜ぁッ!?」 サヤカとミオが息を呑んで、完全に硬直する。
そのパニックを完全に透過し、湊は結菜の隣の空席に当然のように腰を下ろした。
そして。
コトン、と。大勢の客がいるカフェの中だというのに、結菜の肩に自分の頭を重そうに預けてきた。
「ちょっ、湊……! 重いんだけど!」
結菜が顔を真っ赤にして肩を揺らすが、湊は退くどころか、結菜の首筋にすりすりと鼻先を押し付けてくる。
「……お前、昨日俺が寝てる隙にこっそり抜け出しただろ。起きたら隣にいなくて、マジで焦ったんだけど」
「抜け出したんじゃないわよ! ゼミの親睦会だって前から言ってたでしょ! あんたが話聞いてなかっただけ!」
文句を言いながらも、結菜の抵抗する手には全く力が入っていない。それどころか、結菜の指先が、無意識のうちに湊の白シャツの袖口をそっと握り返している。
「……他の男がいる飲み会なんて聞いてない。お前、酒弱いんだから、次からは俺が迎えに行くまで一歩も店から出るな」 湊は結菜の髪を指で弄りながら、不機嫌そうに、けれど有無を言わさぬ独占欲に満ちた声で吐き捨てる。
目の前で繰り広げられる、かつての「動く現代アート」のあまりにも理不尽で過保護な雄の姿に、サヤカとミオは完全に圧倒され、声も出せずにただただ真っ赤になって固まっていることしかできなかった。
「ちょっと湊! なんでここが分かったのよ!」
顔を真っ赤にして抗議する結菜に対し、湊は悪びれる様子もなく、気怠げな声で即答した。
「GPS。……お前、俺がいないとこでこいつらに何ベラベラ喋ってんの」
「えっ、GPS!? いつの間に私のスマホに……」
「この間の飲み会の後、俺にどうやってお仕置きされたか、こいつらにも詳しく話す?」
結菜の抗議を完全に無視し、湊は意地悪く、ひどく甘い声で言葉を被せてきた。
「っ〜〜!! 言ってない! バカなこと言わないでよ!」
結菜は茹でダコのように真っ赤になり、ポカポカと湊の広い背中や腕を叩き始めた。
そのやり取りを目の前で見せつけられたサヤカとミオは、「お仕置き!?」「え、もしかしてあの二人、もうそういう関係に……!?」と、目を限界まで見開いて硬直している。
そんな親友たちの反応に満足したのか、湊は呆然とする二人の前で、わざとらしく結菜の首元へと長い指を伸ばした。
そして、襟足にかかる結菜の短い髪を、熱を逃がすような何気ない動作を装って、スッと払い除けたのだ。
「あっ……!」
結菜が身をすくめるのと同時に、露わになったのは。
華奢な首筋に、点々と、ひどく生々しく刻み込まれた赤紫色の『独占欲の痕』。
それは間違いなく、つい数日前の夜、彼が結菜の理性をドロドロに溶かしながら、朝までじっくりと体に刻み込んだ所有印だった。
「こいつ、飲み会で酔っ払うと無防備すぎるから、俺の目の届かない外に出すの心底嫌なんだけど」
湊は、結菜の腰をガシリと引き寄せ、逃げ場をなくすように深く抱き込んだ。
「……お前ら、こいつが変な虫に絡まれないように、親友ならちゃんと見張っといてよね」
言葉の表面上は親友への「牽制」や「お願い」の形をとっている。
だが、その態度は完全に、「コイツは頭の先からつま先まで俺の女だ。誰にも触れさせない」という、大人の男としての絶対的な所有権の誇示(彼氏マウント)以外の何物でもなかった。
かつて、旧講義棟の空き教室で「結菜がいないとクリーニングも出せない」と豪語していた、あのポンコツな無職のヒモ男。
それが今や、圧倒的な大人の色気と剥き出しの「雄」の顔で結菜を完全に支配し、大勢の客がいるカフェの中で堂々と甘やかしている。
その『リアル王子の極上のデレとマウント』を至近距離で、それもノーガードで浴びせられたサヤカとミオは、ついに許容量を超えて完全にショートした。
「……っ、尊い!! 無理、尊すぎて死ぬ!!」
サヤカが、両手で顔を覆い、ガタガタと震えながら号泣し始めた。
「あの命懸けの逃亡劇が、こんな甘々ハッピーエンド迎えるなんて……っ! 結菜、あんた本当によかったね!! 幸せになりなよぉぉっ!!」
「ちょっとサヤカ、泣かないでよ! 恥ずかしいから!」
ハンカチを噛みちぎらんばかりに泣き叫ぶサヤカの横で、ミオも限界を迎えていた。彼女は真っ赤な顔でガタッと立ち上がり、カバンをひったくるように抱え込んだ。
「うちら、これ以上ここにあてられたら爆発するから帰るね! ご馳走様でした!! お幸せに!!」
ミオは泣き叫ぶサヤカの腕を引っ張り、飲み会の時のゼミの女子たちと全く同じように、恐ろしい猛獣から逃げるようにしてカフェから弾かれたように撤退していった。
バタンッ! とドアが閉まる音が、平和なカフェに響き渡る。
「あーあ、二人とも帰っちゃったじゃない! あんたが変なマウント取るから!」
結菜がぷりぷりと怒りながらカフェを出ると、湊は不機嫌そうに舌打ちをした。
「……俺以外の奴と、あんな楽しそうに笑ってるのが気に入らなかっただけ。親友でも無理」
あまりにも理不尽で、呆れるほどの独占欲と嫉妬。
だが、その拗ねた子供のような本音に、結菜の胸の奥がキュンと甘く締め付けられる。
湊は無言で結菜の手首を強引に握ると、自分の着ていた秋物のカーディガンの、大きなポケットの中へとすっぽりと引き込んだ。
秋の冷たい風が遮断され、ポケットという小さな密室の中で、彼の熱い体温が結菜の指先を包み込む。
「……ほら、早く帰って昼飯作って。今日はハンバーグの気分」
「ピーマン入れるからね」
「……みじん切りにしろよ」
「はいはい」
秋風がイチョウの葉を揺らす並木道を、ポケットの中でしっかりと手を繋いだまま、二人は歩いていく。
親友たちの前で「彼氏」としての立場を完全に確立し、どこか満ち足りた表情を浮かべる悪徳弁護士志望の青年。
そして、その規格外の愛情と独占欲に振り回されながらも、どうしようもなく幸せそうな笑顔を浮かべる元・世話焼きの幼馴染。
巨大な権力の闇も、絶望的な死のループも、もう遠い過去のもの。
高く澄んだ秋空の下、甘すぎる二人の日常のひとコマが、いつまでも平和に続いていくのだった。




