大学生編 番外編1
週末の夜、駅前の喧騒に紛れるようにして佇む、安くて美味いと学生に大人気の大衆居酒屋。
油と焼き鳥のタレが焦げる匂い、ジョッキがぶつかる音、そして隣の席からの大きな笑い声。
通された奥の掘りごたつ式の個室には、結菜をはじめ、マキ、リナ、巻き髪の女子など、文学部基礎ゼミの仲良しメンバー六人がひしめき合っていた。
「結菜ちゃん、グラス空いてるよ! 次何飲む? カシスオレンジでいいよね!」
「え、あ、うん……ありがとう。でも私、あんまりお酒強くないから……」
「いいのいいの! 今日はゼミの課題終わったお祝いなんだから! かんぱーい!」
それは、女子たちの巧妙な連携プレイだった。普段はガードが固く、あの「動く現代アート」こと桐生湊との関係をのらりくらりと躱す結菜の口を割らせるため、彼女たちは甘くて飲みやすいカクテルを次々と結菜のグラスに注ぎ足していったのだ 。
数時間後。見事に作戦は的中した。
「えへへぇ……枝豆、逃げるなぁ……」
結菜の顔は耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まり、焦点の合わないトロンとした瞳で、テーブルの上の枝豆を指先でツンツンと突き始めている。完全にタガが外れた「ポヤポヤ状態」の完成である。
これを見逃すリナではない。彼女は黒縁メガネをクイッと押し上げ、ニヤリと肉食獣のような笑みを浮かべて身を乗り出した。
「ねえ結菜。あんたたち、ホントのところどうなの? いやいや、あんな上質な仕立ての白シャツを気怠げに着こなしてて、色気やばい男とずっと一緒にいて何もないわけないじゃん 。結菜、あんた絶対隠してるでしょ!」
普段の結菜なら、「何もないの!」と顔を真っ赤にして全否定するところだ。
だが、アルコールで理性のストッパーが完全に吹き飛んだ今日の結菜は違った。
「……ないわけ、ないじゃないですかぁ〜」
へらへらと笑いながら、結菜はジョッキの結露を指でなぞる。
「あいつねぇ、外では偉そうにしてるけど、小っちゃい時は今よりもっと泣き虫で! 公園でいじけてるのを、私が土管の中から引っ張り出してあげないとダメな子だったの! 」
「えっ!? あのリアル王子が泣き虫!? 何それ尊い!!」
巻き髪の女子がバンバンと机を叩いて悶絶する。
結菜は不満げに唇を尖らせ、宙に向かって指を振った。
「そう! だから私が守ってあげなきゃって思ってたのに……今は無駄に大きくなっちゃって、可愛げなんてゼロなんだから! ワガママだし、野菜食べないし!」
ここで、黙ってウーロン茶を飲んでいたマキが、文庫本を閉じてスッと絶妙なパスを放った。
「……でも、今は『大きくなっちゃった』のよね?」
その言葉に、ポヤポヤと笑っていた結菜の動きがピタリと止まる。
トロンとしていた瞳の奥に、急に微かな、けれどひどく生々しい熱が帯び始めた。彼女の脳裏に、夜の四畳半の密室でシーツに深く沈み込む光景がフラッシュバックしたのだ。
「そーなの……。最近のあいつ、ちょっと、激しくて……」
「「「えっ!!?」」」
六人の女子たちが一斉に息を呑み、テーブルの中央へと前のめりになる。
「私、壊れそうになっちゃうっていうか……」
結菜は両手で熱を持った自分の頬を包み込み、とろけるようなため息をついて、最大の爆弾を投下した。
「普段はだらしない無職のヒモのくせに……ベッドに押し倒してくる時だけは、大人の男の顔になるんだから……っ 」
「ひゅっ……」
誰かが限界を超えて息を吸い込む音がした。
「あの、ガラス玉みたいに色素の薄くて冷たかった瞳に、ボッと熱がこもって…… 。上から見下ろされたら、もう……絶対に、逃げられないの〜……」
数秒の、恐ろしいほどの静寂の後。
「キャアアアアアアアッ!!!!」
「エロッ!! リアル王子やば!! しんどい!!」
居酒屋の狭い個室が、女子たちの阿鼻叫喚の黄色い悲鳴と熱狂のるつぼと化した。壁を叩く者、頭を抱えて悶絶する者、尊さに天を仰ぐ者。
そんな狂乱の嵐をよそに。
当の結菜は「もう腰痛い〜……湊のバカァ……」とヘニャリと机に突っ伏し、そのままスゥスゥと平和な夢の世界へと旅立っていった。
「ねえ、もっと詳しく! どうやって押し倒されるの!? 抵抗とかしないわけ!?」
身を乗り出したリナが、テーブルの上の空になったグラスを脇へ押しやりながら、机に突っ伏す結菜の肩を激しく揺すった。
油とアルコールの入り混じった熱気でむせ返るような個室。女子たちの好奇心と興奮が最高潮に達した、その瞬間だった。
ピシャリ、と。
背後の引き戸が、乱暴に開け放たれた。
「……へえ。俺が、どう押し倒すって?」
廊下の喧騒を切り裂いて個室に滑り込んできたのは、地を這うような、ひどく冷え切った低い声だった。
一瞬にして、部屋の温度が数度下がったような錯覚に陥る。
リナの結菜を揺する手がピタリと止まり、女子たちが弾かれたように入り口へと振り返った。
そこに立っていたのは、シワの寄った無地の白シャツを気怠げに着こなし、黒いスラックスのポケットに両手を突っ込んだ桐生湊だった。
少し乱れた色素の薄い前髪の奥。ガラス玉のような瞳が、獲物を狙う猛禽類のように細められ、室内をねっとりと見下ろしている。
かつて大企業を震え上がらせた跡取りとしての誰も寄せ付けない絶対的なオーラに、大人の男の危険な色気。そして何より、「自分の女が、他の奴らに夜の生活をベラベラと喋っている」ことに対する、ドス黒く煮詰まった嫉妬と独占欲が、むき出しの殺気となって部屋中を制圧していた。
「ヒエッ……」
「き、桐生、くん……っ」
巻き髪の女子が喉の奥で悲鳴を飲み込み、マキが持っていたおしぼりを落とす。先ほどまで黄色い歓声を上げていた女子たちは、本物の肉食獣を前にした草食動物のように、一斉に息を呑んで硬直した。
そんな凍りついた空気など露知らず。
机に突っ伏していた結菜は、ふにゃりとだらしない顔を上げ、焦点の合わない目で入り口の長身を捉えた。
「あー、湊だぁ〜。えへへ……迎えに来てくれたのぉ?」
「……」
残っていた枝豆のさやを指で弾きながら、ぽやぽやと笑う結菜。
湊は、その間延びした質問には一切答えなかった。ただ、無言のまま重い足音を立ててテーブルに近づくと、ポケットから片手を抜き、逃がさないように結菜の首根っこを背後からガシリと掴み上げた。
「痛っ、ちょっとぉ……引っ張んないでよ、首しまるぅ……」
「うるさい。酒臭い。……どれだけ飲んだんだ、お前」
文句を吐き捨てながらも、その掴む手には、絶対にこの場から結菜を逃さないという強烈な執着がこもっている。
結菜を見下ろす湊の瞳には、まさに先ほど結菜が暴露していた通りの『熱』が、逃げ場のないほど色濃く渦巻いていた。
その圧倒的な「男」としての威圧感と、結菜の酔っ払いトークの、あまりにも完璧すぎる答え合わせ。
それを至近距離で目の当たりにしたゼミの女子たちは、限界まで顔を真っ赤にして、弾かれたようにガタガタと立ち上がった。
「う、うちらはお邪魔ですね! 結菜ちゃんのこと、よろしくお願いします!」
「ご、ご馳走様でしたー!! お幸せにーっ!!」
カバンとコートをひったくるように抱え込み、女子たちは恐ろしい猛獣に生贄を引き渡すように、一斉に蜘蛛の子を散らして個室から退散していく。
廊下へ逃げ出した直後、「やばい!」「生で見ちゃった!」「腰痛いって言ってたの絶対本当じゃん!」という興奮しきった悲鳴が遠ざかっていくのが、防音の甘い壁越しに聞こえてきた。
週末の喧騒が響く駅前の大通り。
女子たちを居酒屋に残し、二人きりになった帰り道。湊は無言のまま、フラフラと覚束ない足取りで歩く結菜の腕を強く引いた。
「んぇ……? みなとぉ、どこ行くの……家、あっち……」
カシスオレンジの甘いアルコールに脳を浸された結菜が、へらへらと笑いながら問いかけても、前を歩く広い背中は一切の返事をしない。ただ、結菜の手首を掴むその長い指の力だけが、彼の内側で渦巻く尋常ではない『怒り』と『熱』を無言で代弁していた。
ネオンサインの瞬きが届かない、歓楽街の裏手。
人目につかない薄暗い路地裏へと強引に引きずり込まれたかと思うと。
――ドンッ、と。
結菜の背中が、冷たくてざらついたコンクリートの壁に乱暴に押し付けられた。
「きゃっ……」
直後、湊の長い腕が結菜の顔の横に突き立てられ、退路を完全に塞ぐ物理的な檻が完成する。
「んん……? なに、湊……怒ってんの?」
酔って状況を全く理解していない結菜は、とろんとした目で彼を見上げ、不満げに唇を尖らせた。
そんな無防備極まりない結菜の顎を、湊の長い指が、下から強引に、そして逃げ場を与えない確かな力で上向かせた。
「……俺に見下ろされたら、逃げられない、だっけ」
地を這うような、鼓膜を直接痺れさせるほど低く冷たい声。
だが、至近距離から結菜を見下ろす湊のガラス玉のような瞳には、いつもの気怠さや冷たさは微塵もなかった。そこには、結菜が先ほど居酒屋で暴露した通りの、ドス黒く煮詰まったような『大人の男の熱』が、間違いなく業火のように燃え盛っていたのだ。
「外でそんな無防備な顔して、俺とのことベラベラ喋って……」
湊の顔が、鼻先が触れるほどの距離まで近づいてくる。
彼の吐息が結菜の唇を掠め、古い紙とブラックコーヒーの匂いが、アルコールで麻痺した脳髄を容赦なく侵食し始めた。
「お前、明日起きて何も覚えてなかったら、マジで許さないからな」
「え……っ」
言い訳を挟む隙など、一秒も与えられなかった。
湊は、驚きに微かに開かれた結菜の唇を、深く、乱暴に塞いだ。
「……っ!? んっ、ぁ……湊っ……、んんっ……」
それは、普段の気怠げな彼からは想像もつかないほど、強引で暴力的な口付けだった。
結菜の口内に残るカシスオレンジの甘い匂いと、彼自身のひどく熱い体温が、暗い路地裏で濃密に絡み合う。逃げようと身を捩っても、冷たいコンクリートの壁と彼の分厚い胸板に挟まれ、一寸たりとも動くことができない。
結菜が暴露した『逃げられない』という言葉の答え合わせを、彼自身が容赦なく、そして執拗に唇から体に刻み込んでくる。
息継ぎのために、銀の糸を引いてわずかに唇が離れる。
酸素を求めて肩で息をする結菜の耳元で、湊が甘く、ひどく熱を帯びた声で囁いた。
「……お前が自分で言ったんだろ。今日も朝まで、絶対に逃がさねぇよ」
普段の結菜なら絶対に言わないような、居酒屋でのあけすけな暴露の言葉。それが、元・大企業の跡取りとしての理性を完全に吹き飛ばし、タガの外れた「一人の男」としての独占欲を限界突破させてしまったのだ。
秋の冷たい夜風など全く感じないほどに、二人の間だけが異常な熱を帯びていく。
有言実行の激しい夜(お仕置き)へと突入していく逃げ場のない甘い予感に、結菜は完全に理性をドロドロに溶かされ、ただ彼の広い背中に腕を回して、その熱い首筋にすがりつくことしかできなくなっていた――。




