大学生編3
「私、もうあんたの『お母さん』じゃないんだけど」
豚肉の脂がパチパチと爆ぜる音と、結菜の放った決定的な拒絶の言葉。
その余韻が狭い四畳半のアパートに重く沈殿する中、湊は宣言通り、結菜の作った豚肉の味噌炒めを無言で平らげ始めていた。
カチャリ、カチャリ。
陶器に箸が当たる、ひどく冷たくて規則的な音だけが、息の詰まるような空間に響き渡る。
普段なら「ピーマン苦い」だの「味が濃い」だのと文句を垂れながら食べる彼が、今日に限って一切の言葉を発しない。
咀嚼音すら立てず、ただ淡々と、しかし恐ろしいほどのペースで箸を進めているのだが、その間、湊の視線は一度も手元の茶碗に落ちることはなかった。
無造作に袖を捲り上げた白シャツから覗く、骨ばった手首としなやかな腕の筋肉。はだけた胸元で、彼が食べ物を飲み込むたびに喉仏がゆっくりと上下する。
そして、前髪の隙間から覗く、ガラス玉のように色素の薄い、ひんやりとした瞳。
それが、獲物を絶対に逃がさない飢えた獣のように、キッチンの隅で背を向けて固まっている結菜の全身を、射抜くようにじっと捉え続けていたのだ。
(どうしよう、あんなこと言っちゃった……。議論って、何をする気!?)
結菜の心臓が、警鐘のようにバクバクと早鐘を打ち始める。
逃げ出すことも、振り返ることもできず、結菜は出しっぱなしの水道の冷たい水に手を晒しながら、すでに綺麗になっているシンクをスポンジで無意味に磨き続けていた。
震える指先から力が抜け、洗剤の泡がポタポタとステンレスに滑り落ちる。 背中に突き刺さる彼の視線が、物理的な熱と重さを持って結菜の皮膚を焼いていた。
いつもならただの生活能力皆無のヒモであるはずの彼から、底知れない、男としての威圧感がドロドロと滲み出している。古い紙の匂いとブラックコーヒーの苦い香りが、四畳半の空気をじわじわと侵食し、逃げ場のない檻のように結菜を包み込んでいく。
嵐の前の静けさのような、ヒリヒリと肌を焼く極限の緊張感。
自分が決定的な引き金を引いてしまったのだという後悔とパニックで、結菜の呼吸は浅く、早くなっていた。
コトン、と。
空になった茶碗がローテーブルに置かれた音で、結菜の肩がビクンと大きく跳ねた。」
「……ごちそうさま」
ひどく低く、熱を帯びた掠れ声。
衣擦れの音がして、湊がのそりと立ち上がる気配がする。
フローリングを踏む、ゆっくりとした、しかし迷いのない足音が一歩、また一歩とキッチンへ近づいてくる。
結菜の背中との距離が、確実に、ゼロへと縮まろうとしていた――。
「わ、私、明日一限からだからもう寝るね!」
これ以上この危険な空間にいてはマズいと本能で悟り、結菜はスポンジをシンクに放り投げた。
そして逃げるように部屋の隅のクローゼットへ向かい、床に自分の布団を敷こうとした。
しかし。
背後で、カチンと湊が箸を置いた、その数秒後だった。
結菜の手がシーツに触れるより早く。
――ガシッ。
背後から伸びてきた湊の長い腕が、結菜の細い腰を容赦なく捕まえた。
「えっ……きゃっ!」
抵抗する間も与えられず、結菜の体は軽々と持ち上げられ、そのまま部屋の半分を占める狭いシングルベッドの上へと乱暴に押し倒された。
バフッ、とスプリングが深く沈み込む。 直後、湊が結菜の上から完全に覆い被さるようにして両腕を突き、逃げ場を物理的に塞いできた。
「逃げるなよ」
頭上から降ってきたのは、気怠い甘えなど微塵もない、鼓膜を痺れさせるほど低くて危険な声だった。
「……俺の夕飯の時間は終わった。ここから朝までは、俺とお前の関係性を法的に、かつ物理的に定義し直す時間だろ」
結菜を見下ろす湊の瞳には、かつて大企業の中枢を一人でハッキングで崩壊させた時のような、冷徹な理知と、それを焼き尽くすほどの危険な色気だけが燃え盛っていた。
少し乱れた前髪の隙間から覗くその眼差しは、言い逃れを一切許さない絶対的な支配者のそれだ。
「だ、だから! 私は色気もないし、ただの世話焼きの幼馴染で……都合のいいお母さん代わりなんでしょ!?」
結菜は顔を真っ赤にして、ベッドの上でもがくように自己卑下を続けた。昼間の図書館で見た、あの洗練された美人な先輩の姿がフラッシュバックし、惨めさが込み上げてくる。
だが、次期・悪徳弁護士であるらしい湊の頭脳は、結菜のその逃げ口上を冷徹な論理で次々と叩き斬っていった。
「異議あり」
湊の顔が、鼻先が触れるほどの距離まで近づいてくる。
吐息が交じり合うほどの至近距離で、彼の低い声が結菜の唇を掠めた。
「俺がただの幼馴染の『お母さん』に、毎日わざわざ自分の予定を合わせて飯をねだり、匂いを嗅ぎに首筋に顔を埋めると思うか?」
「そ、それは……あんたがワガママな幼児だから……っ」
「違うね。……お前は俺をただの生活能力のない子供扱いして、自分が傷つかないように、手の届く安全圏に俺を飼い殺そうとしてただけだろ」
――図星だった。
結菜はハッと息を呑み、言葉に詰まった。
湊は、結菜が「女として見られていない」と勝手に劣等感を抱いていたのではなく、結菜自身がまた彼が洗練された女性たちのいる遠い世界に行ってしまうのが怖くて、あえて自分から“お母さん”のポジションに逃げ込んでいたという核心を、容赦なく抉り出してきたのだ。
言い当てられた惨めさと、見透かされていたことへのどうしようもない焦燥感で、結菜の頭の中が真っ白にショートした。
そして、絶対に口にしてはいけない『過去のループの記憶』を、感情に任せて引き合いに出してしまったのだ。
「そんなことない! だって、前の世界で三十日間も四畳半に引きこもった時も! ラブホのベッドで一緒に寝た夜だって! あんたはただの一度も、私を女として見てなんてこなかったじゃない……ッ!」 ,
叫んだ瞬間。
結菜はサーッと血の気が引くのを感じた。
目の前にいる彼は、今の平和な世界線の彼だ。
あの暗殺者に怯え、ピンク色のネオンが回るラブホテルで身を隠した絶望の記憶など、彼が経験しているはずがないのだ。
ピタリ、と。
ベッドの上の時間が、完全に凍りついた。 静まり返る部屋の中、湊は結菜を見下ろしたまま、微動だにしない。だが、彼の天才的な法学部の頭脳は、結菜の口から飛び出した「三十日間の引きこもり」「ラブホのベッド」というワードから、瞬時に過去の状況の解答を導き出していた。
(過去のループの俺たちは、そんな極限の密室でこいつと過ごしていたのか。……そして、こいつが怯えていたから、死ぬ気で理性を保って手を出さなかったんだな)
自分を殺そうとする暗殺者の恐怖。その中で、ただの女子大生である結菜がどれほど精神をすり減らし、震えていたか。だからこそ、過去の自分は彼女を抱くことよりも、絶対的な安全な砦になることを選んだのだと。
――同時に。
湊の胸の奥底で、ドス黒い泥のような感情が、凄まじい勢いで爆発した 。 過去の自分たちは、結菜を守って綺麗に死に「悲劇のヒーロー」になっただけではない。
極限状態のラブホテルでさえ彼女の心を守り抜いたことで、結菜の記憶の中で『絶対に手を出さなかった、神聖で優しい湊』として永遠に神格化されているのだ。
それに比べて、何も経験していない今の自分は、彼女の中で「ただの都合のいいヒモ」扱い。死んだ自分自身への、気が狂うほどの嫉妬が、湊の理性のタガを完全に吹き飛ばした。 彼の首筋に、微かに青い血管が浮かび上がる。結菜を閉じ込めている両腕の筋肉が、ギリッと音を立てるほどに力んだ。 もはやそこには、気怠げな青年の姿はない。愛する女のすべてを自分の色で塗り潰そうとする、圧倒的な熱量を持った一人の「男」だけが存在していた。
「……なるほどな」
低く、地を這うような声だった。
湊のガラス玉のように色素の薄い瞳の奥で、カチリと。気だるげな「無職のヒモ」の仮面が完全に剥がれ落ち、そこにはかつてないほどの危険な大人の色気と、ドス黒く煮詰まったような剥き出しの嫉妬の炎がメラメラと灯っている。
彼は結菜の細い手首を片手で強引にまとめ上げ、頭上のシーツへ縫い付けるようにさらに深く押し付けた。
「ちょっ、湊……! 痛いってば……!」
「結菜。お前、目の前にいる俺を見ないで、また『死んだあいつら』の思い出ばっかり見てるのか」
顔に落ちる彼の影が、結菜の視界を完全に塞ぐ。
湊の長い指先が、結菜の顎を乱暴に、けれど逃げ場を与えない確かな力で挟み込み、強引に上を向かせた。
吐き捨てるように、けれど火傷しそうなほど熱を帯びた声が、結菜の震える唇のスレスレに落とされる。
「……死んだ俺たちと一緒にすんな。そいつらは聖人ぶって、お前をお母さん扱いして綺麗に死んでいったかもしれないけどな。俺は今、ここでお前に触れて生きてるんだよ」
「ちが、私は別に、そんな……っ」
「あの時は、お前が暗殺者に怯えて、PTSDで夜中もガタガタ震えてたからだろ」
結菜の反論を、湊の低く重い声が容赦なく塗り潰していく。
結菜の目が、限界まで見開かれた。
湊の口から語られたのは、結菜の惨めな勘違いを根底から覆す、あまりにも生々しい過去の真実だった。
「……俺は死ぬ気で理性を総動員して、お前のためのただの”安全な抱き枕”になってやってたんだよ。あのラブホのベッドで、俺がどれだけ余裕ぶって我慢してたか……お前、全然気づいてなかっただろ」
――ドクンッ!!
結菜の全身の血液が、一気に沸騰したように顔へと集まり、耳の奥で心臓が破裂しそうなほどの音を立てた。
彼が自分を女として見ていなかったのではない。極限状態で壊れかけていた結菜の精神を守るために、彼は自分の男としての欲求をすべて殺して我慢し、あえて無害な子供を演じてくれていただけだったのだ。
「あ……、ぇ……」
その事実を今更突きつけられ、結菜は顔を爆発するように赤く染め、声も出せずに金魚のように口をパクパクと動かした。四畳半の空気が急激に薄くなり、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。
「もう限界」
湊が、微かに自嘲するように鼻で笑う。しかしその瞳は、獲物を前にした肉食獣のように鋭く歪んでいた。
「……俺がただの幼馴染の子供として、過去の俺たちみたいに大人しく我慢してると思った?」
言い訳を挟む隙など、一秒も与えられなかった。
湊は、酸素を求めて微かに開いていた結菜の震える唇を、深く、乱暴に塞いだ。
「……っ!? んっ、ぁ……湊っ……、んんっ……」
かつてキッチンの壁に押し付けられた時の、死の記憶を上書きするための必死で痛々しい嫉妬のキスとは違う。
ただ純粋に、目の前にいる結菜という「女」を完全に支配し、隅々まで自分だけのものにするための、ひどく甘くて、暴力的な大人の男のキスだった。
逃げようと身を捩っても、彼に縫い付けられた手首はビクともしない。
唇を食い破るような激しい口付けの合間に、彼特有の古い紙とブラックコーヒーの苦い匂いが、結菜の鼻腔を容赦なく侵略してくる。舌が深く絡み合い、結菜の強固だった理性が、その圧倒的な熱と酸欠によって、ドロドロと音を立てて溶かされていくのが分かった。
「……ふぁっ、んぁ……っ、みなと、息……っ」
抗議するように彼の白シャツの胸ぐらを掴もうとした結菜の指先は、すでにすっかり力が抜け、ただ彼にすがりつくことしかできなくなっている。
彼の熱い大きな手が、白シャツ越しに結菜の背中を這うように撫で上げ、安物のスプリングシーツが、二人の重みで深く、深く沈み込む。
過去のループのどの湊もできなかった、結菜という「女」を完全に自分のものにするための行為。それを今、生き残った彼だけが、絶対的な独占欲と剥き出しの熱量を持って成し遂げようとしている。
「……お前が俺の保護者じゃなくて、俺の女だってこと」
息継ぎのために与えられたわずかな隙間。
銀の糸を引いて濡れた唇を離した湊が、荒い呼吸を繰り返す結菜の耳元で、甘く、ひどく低い声で囁いた。
その声の振動が直接鼓膜を震わせ、結菜の背筋にゾクゾクとした痺れが駆け抜ける。
「死んだ過去の記憶なんて全部消え失せるくらい……朝までじっくり体に刻み込んで、証明してやるよ」
結菜をずっと縛り付けていた「お母さん扱いされている」「女として見られていない」という惨めな呪縛。
それは、完全に子供の仮面を脱ぎ捨て、大人の男としての傲慢さと、底知れない狂気的な愛を露わにした彼の手によって、この甘く息苦しい熱帯夜の中へと、跡形もなく完全に溶かされていった。




