大学編2
結菜は、彼の視線から逃げるようにサッと目を逸らし、意味もなく手元のスマートフォンをいじり始めた。
秋の生温かい日差しが差し込む学食の中で、結菜の胸の内にだけ、鬱屈とした不満と、どうしようもなく女としての劣等感の黒い雲が、静かに、そして確実に膨れ上がり始めていた。
(……ダメだ、なんか息が詰まる)
結菜はこれ以上その感情に耐えきれず、「ごめん、次のレポートの資料探さなきゃいけないから、先行くね」と早口で告げ、逃げるように学食の喧騒を後にした。
向かったのは、文系キャンパスの巨大な図書館。
深秋の冷気が、高い窓から差し込み、空中に舞う無数の埃を黄金色に透かしている。
古い紙とインク、そして空調の乾いた匂いが沈殿する静寂の空間に、結菜の荒れた呼吸が少しだけ落ち着きを取り戻した。
抱えていた近代文学の参考文献の重みに耐えかねて、書架の陰でふと足を止めた、その時だった。
視線の先。
吹き抜けの窓際に置かれた重厚な木製テーブルに、無地の白シャツにカーディガンを羽織り、分厚い判例集を広げている湊の姿があった。
(……えっ。さっきまで学食にいたのに)
おそらく、彼もあの女子たちの喧騒に耐えきれず、早々にこちらへ避難してきたのだろう。
色素の薄い前髪が、真剣に活字を追うガラス玉のような瞳に影を落としている。大企業の呪縛を捨て、ただ「結菜を守るための悪徳弁護士」になるという狂気的な目標に向けて、彼は人が変わったように凄まじい集中力で法学の勉強にのめり込んでいた。
四畳半でのだらしない姿からは想像もつかないその静謐な横顔を、結菜が少しだけ誇らしく思い、歩み寄ろうとした時だった。
「――桐生くん。ここ、空いてる?」
コツ、と。
結菜の履いている安物のスニーカーとは違う、上品なヒールの音が静寂を打った。
湊の向かいの席にふわりと滑り込むように座ったのは、艶やかな黒髪を緩く巻いた女子学生。
(あ……あの人、さっき学食で湊の向かいに座ってた……)
キャンパスを歩けば誰もが振り返る、今年のミスコンの圧倒的な優勝候補の先輩だ。そういえば以前、湊が『学園祭の運営委員にミスターコンに出ろと付きまとわれて鬱陶しい』と顔をしかめていたのを思い出す。おそらく、その界隈の繋がりだろう。
結菜は思わず息を呑み、歩み出しかけた足を止めて書架の陰へと深く身を隠した。
「この間の民法の判例なんだけどさ。桐生くんの見解、すごく面白かったから、もう少し詳しく聞かせてもらえないかな? よかったらこの後、一緒に勉強会でもどう?」
声をかけた先輩は、よく湊を取り囲んでいるような「顔目当てのキャピキャピした女子たち」とは全く違う。
無駄な媚びを含まない、落ち着いたトーン。
あからさまな熱視線を向けることもなく、ただ知的なフレームの眼鏡の奥で「優秀な同学者」として湊をフラットに評価しているような、凛とした佇まい。
それは、結菜の脳内には全く存在しない専門用語が飛び交う、絶対に踏み込むことの許されない「知的な大人の世界」の会話だった。
湊は、手元の判例集からゆっくりと顔を上げた。
いつものように冷たく無視するかと思いきや、彼は気怠げにペンを回しながらも、「……あの判例の争点は、そもそも前提となる契約の瑕疵にあると思うんですけど」と、淀みない言葉を返し始めたのだ。
窓から差し込む秋の光に照らされた二人は、まるで一枚の絵画のように完璧だった。
洗練された知的な大人の女性と、常軌を逸した美貌を持つ天才肌の青年。法学部という同じエリートの道を歩む、ドラマに出てきそうな理想のカップル。
(……そうだ。昔は、こうだった)
タイムリープなんていう、血みどろの狂気の世界を知る前の、平和だった春の日。
結菜は、大企業の御曹司として完璧な防弾ガラスを纏う彼を見て、「住む世界が根本から違うのだ」と、彼を想うことすら烏滸がましいと自嘲し、諦めていたはずだった。
それが、幾十回もの死のループの中で、互いの体温と命だけを頼りに絶望の底を這いずり回るうちに。結菜の彼への愛は、強烈な殺意と、血の匂いに完全に塗り潰されてしまっていた。
『死なないで。私が絶対にあんたを守るから』
心がすり切れ、壊れて、崩壊したあの日々。
明日彼が生きていること。ただそれだけが奇跡で、未来のことなんて、彼がどんな人生を歩むかなんて、考える余裕すらなかった。
けれど、今は違うのだ。
敵はすべて消え去り、彼らは生き残り、終わりのない「平和な未来」が続いていく。
(……なんで。なんで私、こんなに苦しいの?)
結菜は、抱えていた分厚い参考文献を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
これまでも、彼が美人に囲まれているのは死ぬほど見てきた。
でも、今までの親衛隊なら「あいつら、湊の顔しか見てないし」と呆れて笑い飛ばすことができた。
けれど、目の前の彼女は違う。
彼女は、湊がこれから進もうとしている法曹界という真剣な未来の道を、隣で対等に歩くことができる人間なのだ。
それに引き換え、私はどうだ。
暗殺者に殺される恐怖から、他人の血を見るのが怖くなり、看護師という生涯の夢を諦めた自分。
文学部ではやりたいことも見つからず、ただ宙ぶらりんで息をしているだけ。
彼にしてあげられることといえば、安売りのひき肉をこねて、脱ぎ散らかされた服を洗う「オカン」のような世話焼きだけだ。
(私はただ、あいつの命を守るために必死だっただけ……)
あの完璧でお似合いな二人の姿を見つめながら、結菜の胸を激しい嫉妬と、それ以上の凄まじい自己嫌悪が切り裂いていく。
さっき学食でリナに無邪気に突きつけられた無料の家政婦という言葉が、呪いのように脳内に響く。 (……私には、あいつの未来に並んで歩けるような知性も、目標もないじゃない……っ)
圧倒的な劣等感と、惨めな自己嫌悪。
結菜は、二人の完璧な世界から逃げるように、音を立てずにその場から立ち去った。
* * *
その夜。
四畳半の古いアパートには、ごま油と豚肉を炒める匂いが充満し、換気扇の低いモーター音が単調なリズムを刻んでいた。
ガチャリ、と。
玄関のドアが開く音がして、革靴を無造作に脱ぎ捨てる音が響く。
「……結菜、腹減った。今日なに」
ネクタイを緩め、シワの寄った白シャツ姿の湊が、のそりとキッチンへ入ってくる。
結菜は、フライパンの上で肉を菜箸でひっくり返したまま、振り返りもしなかった。
「……豚肉の味噌炒め。そこにラップしてあるから、自分でご飯よそって」
声のトーンが、自分でも驚くほど低く、冷たかった。
だが、湊はその結菜の不機嫌さに気づく様子もなく、気怠げな足取りで結菜の背後にピタリと張り付いてきた。
いつものように、長い腕が結菜の腰に無造作に回され、その重い頭がコトンと結菜の肩に預けられる。
「……ピーマン入れんなよ。あと、今日六法全書重すぎて肩凝った。後で揉んで」
古い紙と、ブラックコーヒーの苦い匂い。
いつもなら、この体温に安堵し、文句を言いながらも甘やかしてしまっていた。
だが、今日だけは違う。
(……なんで、そんなに無防備に引っ付いてくるのよ)
昼間の図書館で見たあの完璧な二人の世界が、脳裏にフラッシュバックする 。
あの先輩に対しては、完璧な紳士として一定の距離を保ち、理知的な会話を交わしていた彼が 。
今の私には、脱ぎ散らかした服のままで、当たり前のように体を預けてきている。
それは、私が特別だからじゃない。
私が彼にとって、「女」として微塵も意識されていない、ただの都合のいい安全地帯だからだ。
(私を女として見てないなら……そんな風に、気安く触らないでよ。期待しちゃうじゃない……っ)
その残酷な事実が、結菜の腹の底で張り詰めていた悲しい恋心を、完全にプツリと切断した。
――パシッ!!!
乾いた音が、狭いキッチンに響き渡った。
結菜は、菜箸を持ったままの油まみれの手で、自分の腰に回されていた湊の腕を、思い切り払いのけたのだ。
かつて、旧講義棟の空き教室で、彼との馴れ合いを拒絶して復讐鬼になったあの時と、全く同じ強さで。
「……え?」
空中で弾かれた自分の手を、湊が信じられないものを見るような目で一瞥し、それから結菜の横顔を見下ろした。
そのガラス玉のような瞳に、明確な戸惑いの色が浮かぶ。
「……あんた、私がいなくても、法学部の綺麗な先輩たちにご飯奢ってもらえばいいじゃない」
フライパンの中で、豚肉の脂がパチパチと爆ぜる。
結菜は、コンロの火を見つめたまま、微かに震える声で吐き捨てた。
「あのミスコンの先輩とか、あんたとお似合いだったわよ。難しい判例の話もできるし、並んで歩いてても絵になるし。……わざわざこんな油臭い四畳半に帰ってきて、文句言いながら安飯食う必要ないでしょ」
「……は?」
湊は、結菜の言葉の意味をまったく処理しきれていない様子で、ひどく間の抜けた声を出した。
「何言ってんの。……あんなの、ただゼミの課題で聞かれたから五分くらい適当に答えただけで、名前すら覚えてないんだけど」
「名前なんかどうでもいいのよ!」
結菜は、カチャッとコンロの火を乱暴に止め、ようやく湊の方を振り返った。
エプロン姿の自分と、白シャツを着こなした彼。
その埋めがたい差が、視界をぐにゃりと歪ませる。
「私、もうあんたのお母さんじゃないんだけど。……命の恩人だからって、いつまでも都合のいい家政婦扱いしないでよ。あんたはもう、自分の世界の、釣り合う女の人のところに行けばいいでしょ……っ!」
言ってしまってから、結菜はギリッと奥歯を噛み締めた。
醜い。最低だ。
命懸けで彼を救ったのも、自分の意志だ。彼がこの部屋に帰ってくることを許しているのも、自分だ。それなのに、勝手に劣等感を抱いて、勝手に彼を突き放そうとしている。
重苦しい沈黙が、換気扇の音だけを残して室内に落ちた。
湊は、宙に浮いたままの手をゆっくりと下ろし、結菜の赤く染まった目元と、震える肩を無言で観察していた。
そのひんやりとした瞳の奥で、彼の特有のズレた思考回路と、法学部仕込みの論理的思考が、結菜の言葉の裏にある「本質」をゆっくりと炙り出していく。
「……あー」
やがて。
湊は、ひどく気怠げに、そしてわざとらしく大きなため息を吐いた。
結菜がビクッと肩を震わせるのをよそに、彼はのそりと手を伸ばし、コンロの横に置かれていたラップのかかったご飯の茶碗を無造作に掴み取った。
「とりあえず、飯食う。冷めるし」
「ちょっ、あんた人の話……ッ!」
激昂する結菜を完全に無視し、湊は茶碗を持ったまま、狭いキッチンの床にどさりと座り込んだ。
そして、結菜の油臭いエプロンの裾を長い指でクイッと強く引っ張り、下から見上げるようにして告げた。 その瞳は、いつもの気怠げなヒモ男のものではない。
飢え渇いた捕食者のような、ひどく不機嫌そうな、けれどどうしようもなく熱を帯びた目をしていた。
「俺、今日頭使いすぎて死ぬほど疲れてるんだけど。……結菜が嫉妬で喚き散らしてんのは分かったから、とりあえず俺の胃袋満たしてから、朝までじっくりその『お母さんじゃない証明』とやらを議論してやろうか?」
挑発的で、逃げ場のない彼の瞳。
結菜の心臓が、フライパンの油よりも激しく、バチバチと音を立てて跳ね上がった。




