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何度タイムリープしても死ぬ『完璧王子』の幼馴染を救うため、私は世話焼きオカンを辞めて悪魔になります。  作者: *しおり*


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大学編1

秋の冷気を含んだ風が、文系キャンパスの並木道を揺らし、乾いた木の葉がアスファルトの上を音を立てて転がっていく。


秋学期の初日。看護学部から文学部へ、異例の転学部を果たした結菜は、真新しい近代文学のテキストを胸に抱え、巨大な階段講義室の扉の前に立っていた。


(……大丈夫。あんな地獄を見てきたんだから、これくらいなんてことない)


一度深く呼吸をし、結菜は重い防音扉を押し開けた。


――その瞬間。

 数百人の学生たちの喧騒で満たされていた講義室が、水を打ったように静まり返った。


最前列の端から最後尾の特等席まで、すべての視線が、入り口に立つ「新参者」へと集中する。


「……あの子でしょ? 例の、医学部から来た……」

「そう、春の学食で大騒ぎになった……あの桐生湊を狂わせて、閉鎖病棟に入れられてたって女」

「リアル王子をたぶらかして、家まで崩壊させた魔性の女って噂だよ。実は相当ヤバい精神状態なんじゃないの?」

「なんか普通な感じに見えるけど........」


ピタリと止まった私語の代わりに、刃物のような囁き声が波のように結菜の鼓膜を打つ。

 結菜は感情を押し殺した無表情のまま、中段の空いている席へと歩みを進めた。彼女が腰を下ろすと、まるで目に見えない結界に触れたかのように、両隣と前後の学生たちがサッと荷物をまとめ、逃げるように別の席へと移動していく。


結菜の周りだけ、ぽっかりと空白の円ができた。

 異様な静寂の中、教授が教壇に立つ。結菜は、かつて十数回の死のループの中で浴びた、暗殺者たちの冷酷な殺意を思い出した。


(アスファルトの冷たさも、内臓を蹴り破られる激痛も、ここにはない。……それに比べれば、独りぼっちで無視されるくらい、なんてことないじゃない)


ノートの端にカリカリとペンを走らせながら、結菜は自らに言い聞かせた。けれど、ページの下に溜まる「疎外感」は、少しずつ、確実に彼女の心を削り取っていた。


* * *


文系キャンパスの巨大な図書館の最奥。

 古書の放つ独特のカビ臭さと、空調の乾いた冷気が漂う薄暗い閲覧席で、結菜は冷え切った弁当箱の隅にある卵焼きを無言で箸でつついた。

 かつてのように、サヤカやミオと他愛のない愚痴をこぼしながら囲む賑やかなランチタイムは、もうない。


『ねえ、あの子じゃない?』

『近寄らないのが一番だよ。急に発狂するかもしれないし』

『ワンチャン、友達になったら桐生くんに近づけるかもよ』


書架の隙間から、まるで羽虫の羽音のように粘り気のあるヒソヒソ話が鼓膜にへばりついてくる。

 結菜は、味が全くしない冷たいハンバーグを無理やり飲み込み、弁当箱の蓋をパチンと閉めた。


(……魔性の女、ね。あいつがどれだけ野菜嫌いで、脱いだ靴下も洗濯カゴに入れないだらしない男か、誰も知らないくせに)


 冷たくなったアルミの弁当箱から指先に伝わる温度に、やりきれない思いを噛み締める。

 三十日間、あの埃っぽい四畳半の密室で、いつ暗殺者にドアを破られるか分からない恐怖に耐え抜いた。それに比べれば、遠巻きに囁かれるだけの悪意など、物理的な痛みがないだけ何万倍もマシだ。


 そう頭では分かっているのに、普通の女子大生としての輪から完全に弾き出された疎外感は、結菜の心を薄いヤスリで削るように、少しずつ、確実にすり減らしていた。


* * *


転機が訪れたのは、キャンパスのイチョウ並木がむせ返るような黄金色に染まりきり、窓から差し込む陽光が長く伸びるようになった頃だった。


必修科目「日本文学基礎ゼミ」。

 二十人程度の少人数で行われるこの演習室は、文学部キャンパスの中でもちょっと古くて小汚い、良く言えば歴史がある。

 結菜はいつも通り、一番後ろの窓際の席で、ノートの端に無意味な幾何学模様を描き続けている。


「それでは、今日の後半はグループワークとします。適当に近くの席の人と、三〜四人の組を作ってください」


老齢の担当教員がそう告げた瞬間。

 演習室の空気が、ピシッと凍りつく音がした。

 ギギギ、ガタッ。周囲の学生たちが、一斉に椅子の脚を鳴らして結菜から距離を取る。誰も彼女と目を合わせようとせず、まるで結菜の座る机を中心にして、透明な巨大な円柱の結界がドスリと降りてきたようだった。


(……また、か)  

 結菜は小さく息を吐き出し、シャープペンシルを握る指の関節が白くなるほど力を込めた。別に一人でレポートを書き上げるくらい、どうってことはない。  

 けれど、ふと前の席に視線をやると、ショートヘアの女子学生と黒縁メガネの女子学生が、何かヒソヒソと話し合いながら、チラチラとこちらを窺っているのに気づいた。  

 思えば、この二人は数週間前の講義から、プリントを回す時やすれ違った時など、どこか結菜に話しかけたそうな、興味深げな視線を向けてくることが何度かあった。だが、その度に周囲の「関わるな」というピリついた空気に阻まれ、タイミングを逃しているようだった。

(……なんだろう。何か文句でも言われるのかな)  

 結菜がわずかに身構え、視線をノートに落として一人で作業を始めようとした、その時だった。


「噂とか、正直どうでもいいんだけど」


 パタン、と。  

 分厚い純文学の文庫本が、結菜の机の上に無造作に置かれた。  結菜がハッと顔を上げると、前の席に座っていたショートヘアの女子学生が、椅子の背もたれに腕を回し、あっけらかんとこちらを振り返っていた。

「それより、この太宰治の考察レジュメ、一緒にまとめてくれない?」

 その声には、周囲の学生たちが放つような警戒も、哀れみも一切なかった。

「私、マキ。あなたのこれまでのレポート、論理構成がしっかりしててすごいなって思ってたの。……噂のヤバい女じゃなくて、優秀なゼミ生として頼りにしていい?」

 マキと呼ばれた少女は、他人の評価など一ミリも興味がないと言わんばかりの、凪いだ湖面のような瞳で結菜を真っ直ぐに見つめていた。  

 結菜が呆気に取られて言葉を失っていると、マキの隣の席から、黒縁メガネをクイッと押し上げたもう一人の女子が、ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべて身を乗り出してきた。


「私、リナ! つーかさ、閉鎖病棟に入れられてたってマジ? どんなとこだった? やっぱり飯まずいの? っていうかさ、あのリアル王子と付き合ってんの!?」


 ――ヒッ。  

 周囲のゼミ生たちの誰かが、引きつったような息を呑む音が聞こえた。  

 触れてはいけない最大のタブー。誰もが恐れて避けていた爆弾の導火線に、初対面の人間が土足でズカズカと踏み込み、ライターの火を近づけたのだ。  

 結菜がキレて机を蹴り飛ばすか、あるいは発狂して暴れ出すのを、教室中の全員が固唾を飲んで待ち構えていた。


 しかし。  

 結菜の脳裏をよぎったのは、怒りでもパニックでもなかった。

(……本物の暗殺者の、あの金属プレートの足音に比べたら。こんな好奇心、春のそよ風より刺激がないわよ)

 結菜の肩から、無意識に入っていた強張りがスッと抜けていく。  

 腫れ物扱いせず、面白半分だとしても真っ直ぐに自分という人間にぶつかってきてくれた二人の態度が、不思議と心地よかった。

(あぁ……なんだ。この子たちとなら、仲良くなれそう)  

 沙耶香や美桜のような真っ直ぐで温かい親友たちとはまた違う、フラットで図太い、普通の女子大生としての新しい繋がり。  

 その予感に、冷え切っていた結菜の胸の奥がじんわりと温かくなる。  

 結菜はシャープペンシルをコロンと机に置き、頬杖をついてリナの目を真っ直ぐに見据えた。数週間ぶりに、心の底からの飾らない笑みがこぼれる。


「……ふっ、ふふっ。そうね……鉄格子があって、窓からの景色は四角かったわ。ご飯は、私の作る冷凍うどんの方が何倍もマシだった」


 よどみなく、そしてどこか懐かしむように答える結菜に、周囲の学生たちの顔が恐怖から驚愕へと変わっていく。  結菜はさらに言葉を継いだ。


「あと、あいつとは付き合ってない。……ただの生活能力皆無のヒモを、私が飼育してるだけ。野菜を食べないから、毎日格闘してるのよ。昨日もハンバーグのピーマン避けてたし」


 ――あいつ?  

 教室中の空気が、さらに別の意味で凍りついた。  

 誰も寄せ付けない、あの「動く現代アート」を。この地味な転部生は今、息をするように「あいつ」と呼んだのだ。

 しかも、ヒモ? ピーマンを避ける?


 その、本物の修羅場をくぐり抜けた女にしか出せない、肝の据わったサバサバとした切り返し。  

 マキとリナは、数秒間だけ呆気に取られたように目を瞬かせた。  

 そして。


「ぶはははははっ!! ちょっと待って、お腹痛い!!」  

 静まり返った教室に、リナの豪快な笑い声が弾けた。バンバンと机を叩き、涙目になりながら結菜を指差す。


「あのリアル王子を”あいつ”呼ばわり!? しかもヒモ!? やばい、結菜ウケる!! 『飼ってる』って最高じゃん!」

「結菜、めっちゃ面白い子だったのね。……あの絶対零度の冷たい目で、ピーマン避けてるの?」

 マキも、クスッと上品に肩を揺らしながら、興味津々に身を乗り出してきた。

「そうよ。いっちょ前に分厚い六法全書広げてる横で、器用にピーマンとパプリカだけお皿の端に寄せてんの。ほんと、ただの巨大な幼児なんだから」


 結菜が面倒くさそうにため息をつくと、リナがさらに爆笑する。

「やばい、ギャップ萌えすぎるでしょ! てか結菜、それ完全にオカンじゃん!」

「太宰よりよっぽど人間失格ね。でも、結菜は立派な飼育員だわ」


 リナの豪快な笑い声は、古いワックスの匂いが沈殿する静かな演習室に、遠慮なく響き渡った。

 そのあけすけな騒ぎに、遠巻きに結菜を避けていた周囲の学生たちが、ノートを取る手を止め、恐る恐る視線を向けてくる。

「……あのさ」  

 不意に、椅子の脚が床を擦るギギッという音が鳴った。  

 結菜の斜め前に座っていた、ゆるふわな巻き髪の女子学生が、おずおずと体を乗り出してきた。さっき、結菜が教室に入ってきた瞬間に、真っ先に荷物をまとめて逃げた子だ。


「桐生くんって、本当にヒモなの……? 毎日、お家で何してんの……?」

 恐る恐る、けれど抑えきれない好奇心で目を輝かせている。  

 結菜は一瞬だけ目を丸くしたが、彼女たちのその純粋な好奇心に毒気を抜かれたように、ふっと肩の力を抜いた。

「……ヒモっていうか、本当に生活能力がない、ただの手のかかる大きな子供だよ」  

 結菜はシャープペンシルを机にコロンと置き、心底呆れたように、けれどどこか疲労感の滲む『世話焼きオカン』の顔になって苦笑した。


「昼過ぎまで寝て、私が作ったオムライス食べて、あとはずっとゲームのコントローラー叩いてるよ。時々、分厚い六法全書を枕にして昼寝してるけど」

「ええええっ!? あの『動く現代アート』が!?」

 巻き髪の女子が素っ頓狂な悲鳴を上げる。  結菜は「信じられないでしょ?」と同意を求めるように、盛大にため息をついた。


「うん。野菜は避けるし、服は脱ぎっぱなしだし……。王子様なんて、外の世界だけの完全な幻だからね。私なんて、毎日あいつにピーマン食べさせるだけで一苦労なんだから」

 その、あまりにも泥臭くて所帯染みた『オカンの苦労話』。  

 それを皮切りに、結菜の周りに張られていた見えない結界が、パリンと音を立てて砕け散った。  

 魔性の女だと思っていた結菜が、実はただの「苦労性の世話焼き」だったという事実に、女子たちは一気に親近感を抱いたのだ。


「嘘でしょ、じゃあ部屋着とかスウェットなの!? あの王子様が!?」

「ていうか、閉鎖病棟で発狂してたって、本当にただの変な噂だったんだ……! うちら、結菜ちゃんのことヤバい人だと思ってて……ごめんね、避けちゃって」

「そうそう! 桐生グループを裏で操る黒幕なんじゃないかって、みんなでビビってたの!」


「黒幕って……そんなドラマみたいなことあるわけないじゃない」  

 次々と押し寄せる突拍子もない噂話の数々に、結菜は呆れ笑いを浮かべた。


「じゃあさ、じゃあさ! 結菜ちゃん、呪われてもいいから、今度その飼ってるヒモ、私たちにも紹介してよ! 遠くから拝むだけでいいから!」  


 巻き髪の女子が、目をキラキラさせながら身を乗り出してくる。  

 結菜は、手元のシャープペンシルをカチカチと鳴らしながら、本気で困ったように眉を下げた。


「……本当に、やめといた方がいいよ。期待を裏切って悪いけど、あいつ、私以外の人には微塵も興味がないから」

「えっ?」

「外だと愛想笑い一つしないで、『……誰?』って絶対零度で見下ろしてくるの。私が横にいて『ちゃんと挨拶しなさい!』って怒れば渋々頷くくらいで……。関わっても、絶対傷つくだけだから」


 心底面倒くさそうに、そして『被害者』を出さないための純粋な親切心から忠告する結菜。  

 しかし。


「……え、何それ最高!」

「嘘、普段は誰も寄せ付けないのに、結菜の言うことだけは渋々聞くってこと!? 飼い主にしか懐かない猛獣とか、逆に萌えるんだけど!!」  

 女子たちは怯むどころか、さらに目を輝かせて色めき立った。


「太宰よりよっぽど拗らせてるわね」と、マキまでもが楽しそうにクスッと笑う。

「ええっ!? なんでそうなるのよ……」  

 全く意図していない方向に盛り上がる女子たちを前に、結菜は完全に置いてけぼりになり、深々と頭を抱えた。


(……なんだ。みんな、ただの普通の女の子じゃない)


 秋の斜陽が、窓ガラスを透過して教室に差し込んでいる。チョークの粉が、光の帯の中でキラキラとゆっくり舞っていた。

 あんなに冷たくて息苦しかった空間が、嘘のように騒がしく、生温かい熱気に包まれている。


 結菜は、頬杖をついて窓の外のイチョウの木を見つめながら、口元が勝手に緩んでしまうのを必死に噛み殺していた。

 サヤカやミオのようなどこまでも真っ直ぐな親友たちとはまた違う。噂話が好きで、流されやすくて、けれど根は他愛のない、普通の女子大生たち。

 血の匂いも、暗殺者の足音もない。

 ただの「恋バナ」で盛り上がるこの平和な空気が、凍りついていた結菜の心を内側から溶かしていく。


「ちょっと結菜ちゃん、今度マキたちと学食行く時、私も混ぜてよ!」

「あ、ずるい! 私も近代文学の過去問ノート貸すから、一緒に……!」

「おっ、結菜の親衛隊結成か?」


リナがシャーペンをくるくると回しながら茶化し、マキが文庫本のページをパラリと捲りながら「騒がしいわね」と上品に微笑む。

 桐生湊という「リアル王子」のギャップ萌えと、結菜自身の飾らない図太さが相まって、女子たちの歓声はどんどんエスカレートしていく。


その時だった。


――パーンッ!!


 教壇の方から、黒板消しが教卓に乱暴に叩きつけられる鋭い音が響き渡った。

 

「そこの後ろの女子たち! まだグループワークの時間は始まっていませんよ! 私語を慎みなさい!」

 老齢の教授の雷が落ち、教室中の空気が一瞬でピリッと張り詰める。


「「「……す、すみませんっ」」」


 結菜を取り囲んでいた女子たちが、慌てて首をすくめ、蜘蛛の子を散らすように自分の席へと戻っていく。

 リナが舌をペロッと出し、マキが肩をすくめてテキストを開いた。


 結菜も、怒られた気まずさを装いながら、ノートの陰でそっと口元を手で覆った。

 怒られているのに、ちっとも怖くない。

 暗殺者の銃口を向けられたあの絶望に比べれば、教授の怒声など、羽毛で撫でられるよりも心地よかった。


 ただの女子大生として授業中に怒られ、周りの友達と顔を見合わせてこっそり笑い合う。

 そんな当たり前で、取るに足らない平和な日常の1ページが。

 何十回も死線を超え、彼と一緒に地獄の底から這い上がってきた今の結菜には、涙が出るほど愛おしく、そして眩しかった。


 湊の顔面偏差値や、家柄に付随するスキャンダル。

 そんな外側の虚飾をすべて剥ぎ取った後にある、結菜自身の図太い芯の強さと、飾らない面白さ。


 彼女たちは、結菜が纏わされていた魔性の女という分厚いメッキを、たった数回の会話であっけなく打ち砕いてしまったのだ。


 演習室の空気が、少しずつ、春の雪解けのように緩んでいくのが分かった。

 まだ遠巻きに見ている学生もいるが、もう結菜の周りにあの息苦しい空白の結界はない。


 サヤカやミオのようなどこまでも温かく真っ直ぐなお節介とはまた違う。

 少しひねくれていて、好奇心旺盛で、けれどどこまでもフラットに人間を見てくれる新しい仲間たち。


 窓の外。  

 高く澄んだ秋の青空を背景に、黄金色のイチョウの葉が風に舞っている。  

 結菜は、マキの文庫本と自分のノートを並べながら、久しぶりに心の底から深く、心地よい呼吸をした。   

 ただの女子大生としての、新しい「日常」が、ようやく確かな体温を伴って動き始めた瞬間だった。


 ……もっとも、その「日常」が完全に落ち着くまでには、少しばかりの時間を要した。  

 結菜が『リアル王子をヒモとして飼育している』という噂は、良くも悪くも一人歩きし始めたからだ。


 一時期は、「結菜についていけば桐生くんとお近づきになれるのでは」という下心丸出しの女子たちが、露骨に結菜に擦り寄ってくるようになった。  

 特に、結菜が寝坊して(というより、夜遅くまで湊の理不尽なワガママに付き合わされて)お弁当を作れず、「今日は学食で食べる」とこぼした日は最悪だった。

「結菜ちゃん、一緒に学食行こうよ!」「桐生くんも学食にいるかな!?」と、いつかの春の看護学部遠征ツアーの時以上の人数の女子たちが、金魚のフンのように結菜の後ろにひっついて文系キャンパスの学食へ大移動する異常事態が起きたのだ。  

 だが、そんな熱狂も長くは続かない。  

 いくら結菜の周りをうろついても、当の湊は結菜以外の人間を完璧なまでに透過し、絶対零度の営業スマイルで心のシャッターを閉ざし続けた。

 やがて、そんな難攻不落すぎる王子に愛想を尽かした女子大生たちは、潮が引くように結菜の周りから去っていった。  

 結局、最後に残ったのは、湊の顔面ではなく結菜という人間そのものの面白さに惹かれてくれた、マキとリナだけだった。



 文系キャンパスの巨大な学食は、秋の深まりを感じさせる少しひんやりとした風と、ガーリックや揚げ油の匂いが入り混じった特有の熱気で満ちていた。


 結菜は、プラスチックのフォークで、ランチプレートの端に転がっているミニトマトを無意味に何度も突き刺していた。

 向かいの席では、黒縁メガネのリナがスマートフォンの画面をスクロールしながら唐揚げを口に放り込み、隣ではショートヘアのマキが、分厚い純文学の文庫本から目を離さずにサンドイッチを齧っている。


「……にしてもさー。相変わらず、顔面偏差値バグってんね、あのリアル王子」


 リナが、ストローでアイスティーの氷をカラカラと回しながら、顎で学食の奥をしゃくった。

 結菜が視線を向けるまでもない。

 陽当たりの良い窓際の特等席。そこには、無地の白シャツに秋物の薄手のカーディガンを気怠げに羽織り、分厚い六法全書を開いている桐生湊の姿があった。


 実家と縁を切り、無職のヒモに成り下がったはずの彼だが、その動く現代アートと評された常軌を逸した美貌は、平和なキャンパスでさらに磨きがかかっていた。

 彼のテーブルの周囲には、相変わらず見えない防弾ガラスの壁があるかのように、遠巻きに熱狂的な視線を送る女子学生たちのバリケードが築かれている。


「……ただの野菜嫌いの巨大な幼児だよ。今朝も、ほうれん草のバター炒めだけ器用に残してたし」

 結菜はため息をつき、ようやくミニトマトを口に放り込んだ。  トマトの酸味が口の中に広がる中、向かいの席のリナが「出た!」と手を叩いて笑い出した。

「また野菜残したの!? この間はハンバーグのピーマン避けてたって言ってたじゃん!」

「そうなの! あいつね、私がちょっと目を離した隙に、見事に緑色のものだけをお皿の端にバリケードみたいに並べるのよ。いっちょ前に分厚い六法全書を広げながら、器用にね」

 結菜がウンザリした顔でフォークを振り回すと、隣でマキが文庫本のページをパラリとめくりながら、クスッと上品に笑った。

「あの絶対零度の冷たい目で、真剣にほうれん草を避けてるのね。……ほんと、太宰よりよっぽど人間失格だわ」

「でしょ!? 外の女子たちは動く現代アートだのリアル王子だのってキャーキャー言ってるけど、結菜の話聞いてたら、完全にただの生活能力皆無のヒモだよね」

 リナが唐揚げを口に放り込みながら、けらけらと笑う。  

 この数週間、結菜の口からあふれ出るリアル王子の情けない実態を散々聞かされてきた彼女たちにとって、湊のイメージはすでに”手の届かない王子様”から”結菜がいないと生きていけない、手のかかるペット”へと完全に書き換えられていた。


「だから言ってるじゃない。王子様なんて、外の世界だけの完全な幻だって」

 結菜がやれやれと肩をすくめると、リナは頬杖をつき、面白半分といった様子で結菜の顔を覗き込んできた。


「でもさー、いくら中身がポンコツでも、毎日あんな超絶イケメンにご飯作って、同じ部屋に帰ってるとか、マジで前世でどんな徳積んだの? 周りの女子たち、嫉妬でハンカチ噛みちぎってるよ」

「徳なんて積んでないわよ。前世で大罪を犯したから、あんな手のかかるワガママ男の飼育員をやらされてるの」

「出た、飼育員」

 心底面倒くさそうに吐き捨てた結菜の言葉に、マキが「立派な飼育員だわ」と楽しそうに目を細める。


 腫れ物扱いされていた数週間前が嘘のように、彼女たちとの関係はすっかり「普通の女子大生の友達」として定着していた。

 湊のことも、単なる「厄介なペット」くらいの認識で、フラットに面白がってくれているこの関係が、結菜にとってはひどく心地よかった。


 だが。

 リナが、何気なく、本当に悪気のないただの純粋な疑問として、口を滑らせた。


「でもさ、一緒に住んでるっていうか、入り浸られてるんでしょ? 結菜も最初は『付き合ってない』って言ってたけど……毎日一緒にいて、何も手出されてないわけ?」


ピタリ、と。

 結菜のフォークの動きが止まった。


「……え」

「だってさー、いくら幼馴染でも、あの色気だだ漏れの男と一つ屋根の下でしょ? 結菜、こんなに毎日ご飯作って尽くしてるのに。それなのに指一本触れられてないなら、それってさ……」

 リナは、空になったプラスチックのコップをテーブルの端に押しやりながら、残酷なほど無邪気に首を傾げた。

「ただの『都合のいいお母さん』とか、『無料の家政婦』扱いされてるだけじゃない?」

――グサッ。  その言葉が、鋭い氷の刃となって、結菜の胸の最も柔らかい部分を深々と抉り取った。


(……ここで初めて気づいたわけじゃない。ずっと、私自身が一番分かっていたことだ)

 結菜は、テーブルの下で自分の膝をギュッと強く握りしめた。  

 私と湊は、死線を潜り抜けた。

 お互いの命を背負い、絶対に手放せない大切な存在だという自負はある。  

 けれど、それはどこまでいっても親愛の情や家族のような安心感であって、そこに男女の甘い匂いは一ミリも存在しない。  

 もちろん、彼には中学生の時に大人に心を壊された凄惨なトラウマがある。

 だから、他者とそういう生々しい関係になることを嫌悪しているのだと、結菜はずっと自分に言い聞かせてきた。  

 でも、本当は。


(私がただ、女として全く魅力がないだけなんじゃないの……?)


 流行りのメイクも服の着こなしも分からず、いつもすっぴんで、癖っ毛は適当にまとめるだけ。

 お淑やかさなんて欠片もなく、毎日エプロン姿で「服を片付けなさい」「野菜を食べなさい」と小言を言っているだけの、ただの地味なオカン。  

 さっき学食で彼の向かいに座っていた、あのミスコン候補の先輩の艶やかな姿が脳裏をよぎり、結菜のコンプレックスを容赦なくえぐり出す。


「まあ、太宰も散々女を都合よく扱ったからね」  

 結菜が押し黙っていると、マキが文庫本から目を離さずに、クスッと冷徹な追撃を放った。

「男って、自分の世話を無条件で焼いてくれる安心な女には、わざわざリスクを負って”女”として手を出さない生き物らしいわよ。結菜は完全に、安全地帯の飼育員になっちゃってるのね」

「そ、そんなんじゃないわよ! 私とあいつは、そういうベタベタした関係じゃ……っ」  

 図星を突かれた結菜は慌てて否定するが、焦りのせいで声が変に裏返ってしまった。  

 その分かりやすすぎる反応に、リナがニヤニヤと身を乗り出してくる。


「えー? でも結菜、ちょっと顔赤いよ。ワンチャン狙ってんの? 本当は女として見られたいとか?」 「狙ってない!! あんなだらしない男、こっちから願い下げだっつーの!」


 結菜は顔を真っ赤にして声を荒げ、誤魔化すように残っていたミニトマトを乱暴に口に放り込んだ。  

 リナは「あはは、図星だ!」とケラケラ笑い、マキは「リナ、乙女心に土足で踏み込まないの」とたしなめながらも、面白そうに目を細めている。

 女子たちはすぐに「じゃあ結菜はどんな人がタイプなの?」などと別の話題へと移っていったが、結菜の耳にはもう、学食の喧騒すら遠い雑音のようにしか聞こえていなかった。


(都合のいい、お母さん……無料の家政婦……)  

 口の中のトマトの酸味が、急に砂を噛んでいるように味気なくなった。

 結菜は、テーブルの下で自分の膝をギュッと強く握りしめた。


 触れられていないわけでは、ない。

 あの雨の日の夕方。

 自分の死の幻影に狂おしいほどの嫉妬を剥き出しにした彼に、冷蔵庫の扉に押し付けられ、唇を食い破られるような、血の味がする激しいキスをされた。

 逃亡中のラブホテルの洗面所で、ドライヤーを探していた時。

 バスタオル一枚の自分を背後から抱きすくめ、首筋に顔を埋めてきた、あの息が詰まるような大人の男の色気と、ヒリヒリとした緊張感。


 あの時、彼は間違いなく、結菜を「女」としてその腕の中に閉じ込めようとしていた。 彼の熱い体温と、荒い呼吸が、今も肌に焼き付いている。

 だけど。

 桐生グループを崩壊させ、絶対的な死の恐怖から解放された今の平和な日常の中で。 彼は、あの時の危険な熱をすっかり鳴りを潜めてしまっていた。


『……結菜、飯まだ』

『……眠い。動くな、充電中』


 今の彼は、ただひたすらに結菜の狭いアパートで無防備に甘え、結菜の作ったご飯を食べ、結菜のベッドを占領して眠るだけの、巨大な幼児と化している。

 休日に結菜が「少しは外に出なさいよ」と怒っても、外に出たら結菜の匂いが消えるなどと適当な言い訳を並べて、ただ結菜の背中や肩にコトンと頭を預けてくるだけ。

 そこに、あのラブホテルの密室で感じたような「男と女」の緊張感は、微塵も存在しなかった。


(……当たり前だ。あいつには、過去のトラウマがあるんだから)


 中学生の時、大人に心身の尊厳を破壊された凄惨な記憶。他者との生々しい接触に嫌悪感を抱く彼が、私を女として組み敷くはずがない。あの雨の日のキスも、逃亡中の密着も、極限状態の死の恐怖で彼の心がバグを起こしていただけなのだ。


(あいつにとって、私は結局、ただの都合のいい安全地帯でしかないんだ)

 昼間の学食で湊の向かいに座っていた先輩の、艶やかな赤いネイルと、甘い香水の匂いが脳裏をよぎる。  

 それに引き換え、私からするのは、ドラッグストアの安物のシャンプーと、さっき炒めた豚肉の油の匂いだけ。

 流行りのメイクも知らず、エプロン姿でピーマンを食べなさいと小言を言っているだけの地味な女。


(私みたいな色気もないオカンが、あんな完璧な男に”女”として求められるわけがないじゃない……っ)


 彼が私に触れてこないのはトラウマのせいだと言い訳をしながらも、心の底では「単純に私が女として魅力がないだけだ」という特大の劣等感が、結菜の胸の最も柔らかい部分をズキズキと苛んでいた。


 それでも。

 ただの無料の家政婦扱いだとしても。

 彼が帰ってくるこの歪な関係だけは、這いつくばってでも手放したくなかったのだ。


(……あいつにとって、私は結局、何なの?)


 自分の心臓の音を聞かせて、過去の死体の記憶を上書きすると宣言したあのキスは。

 ただ、彼の死んだ自分自身への強烈な嫉妬と独占欲が暴走しただけの、突発的な行動でしかなかったのだろうか。

 私が彼を愛しているのと同じように、彼も私を「一人の女」として求めてくれているわけではないのかもしれない。


 ただ、自分のすべてを無条件で受け入れて世話をしてくれる、絶対的な安全地帯として。

 リナの言う通り、母親の愛情を知らずに育った彼にとっての、都合のいい「家政婦」や「お母さん」の代用品として、執着されているだけなのだとしたら。


「……っ」


 結菜は、ズキズキと痛む胸の奥を誤魔化すように、冷たくなったストレートティーを一気に喉に流し込んだ。

 遠くの席。

 相変わらず六法全書に視線を落としたままの湊が、ふと顔を上げ、人混みの隙間から正確に結菜の姿を捉えた。


 そのガラス玉のように色素の薄い瞳が、結菜を見つけて微かに細められる。

 いつもなら、それだけで胸が温かくなって、小さく手を振り返していたはずなのに。

 今の結菜には、彼が放つその無防備な信頼の視線すらも、自分が「女」として見られていない証明のように思えて、ひどく惨めで、悲しかった。


 結菜は、彼の視線から逃げるようにサッと目を逸らし、意味もなく手元のスマートフォンをいじり始めた。

 秋の生温かい日差しが差し込む学食の中で、結菜の胸の内にだけ、鬱屈とした不満と、どうしようもない女としての『劣等感』の黒い雲が、静かに、そして確実に膨れ上がり始めていた。

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