番外編4
秋風が心地よい、文系キャンパスのメインストリート。
色づき始めたイチョウの並木道を、分厚い近代文学のテキストを抱えた結菜が歩いていく。
医薬キャンパスから文学部へ転部して数ヶ月。ようやく新しい環境にも慣れてきたはずだったが、今日ばかりは、四方八方から突き刺さる好奇の視線とヒソヒソという囁き声に、居心地の悪さを隠しきれなかった。
「……ねえ、あの子じゃない? 例の”結菜”って子……」
「そう! 春に学食で、他学部の女子二人が桐生くんに『結菜が閉鎖病棟に入れられた!』って直談判しに来た時の……!」
「あの日、あの絶対零度だった桐生くんが血相変えて飛び出していって……その後すぐに桐生グループは崩壊して、彼も実家と縁切ったらしいよ……!」
「大企業の跡取りにすべてを捨てさせた女……一体どんな魔性の女なの!?」
すれ違う女子学生たちの、遠慮のないヒソヒソ話が耳に届く。
結菜がタイムリープの果てに心を壊して閉鎖病棟に隔離され、湊が彼女を救い出すためにすべてをかなぐり捨てたという「現在の世界線での事実」。
それが、この噂好きの文系キャンパスでは尾ひれがつきまくり、結菜は完全にリアル王子をたぶらかし、巨大企業を崩壊させた伝説の魔性の女として祭り上げられてしまっていた。
(魔性の女って……。ただの幼馴染なんだけど)
結菜は深いため息をつき、足早に歩みを進めた。
三十日間の密室での潜伏や、暗殺者の恐怖、血の海に沈んだ地下駐車場の記憶に比べれば、女子大生たちの噂話など平和すぎる悩みだ。けれど、こうも見知らぬ人間からジロジロと見られるのは、決して気分の良いものではなかった。
文学部棟の前のベンチ。
そこには、医薬キャンパスからわざわざ「遠征」してきているサヤカとミオが、手を振って待っていた。
「よっ、噂の的! 文系キャンパスの居心地はどう?」
サヤカが、ニヤニヤと笑いながら結菜の肩を小突く。
「もう、笑い事じゃないわよ。あの日、二人が学食で大騒ぎしたせいで、とんでもないことになってるんだから」
結菜が恨めしそうに睨むと、ミオがストローでアイスコーヒーをかき混ぜながらカラカラと笑った。
「仕方ないじゃん、あの日うちらも必死だったんだからさ。結菜が鉄格子の部屋に入れられたって聞いて、なりふり構ってられなかったんだよ」
その言葉の裏にある、彼女たちの純粋で強烈な善意。
かつてのループで、その優しさが彼女たちを凄惨な死へと追いやったことを思い出し、結菜の胸がチクリと痛む。
けれど、目の前で楽しそうに笑う二人は生きている。あの地獄のような記憶は、結菜と湊の中だけに封印され、この平和な世界線は確かに守り抜かれたのだ。
「で、その『元・王子』は? 最近キャンパスで見ないって、女子たちが騒いでるけど」
サヤカが、周囲の女子学生たちの視線を気にしながら尋ねてきた。
「ああ、あいつなら……」
結菜が答えようとした、その時だった。
「……結菜」
背後から、ひどく気怠げで、地を這うような低い声が響いた。
振り返ると、そこにはシワの寄った無地の白シャツを無造作に着こなし、分厚い六法全書を片手に抱えた桐生湊が立っていた。
大企業の跡取りとしての、誰も寄せ付けない防弾ガラスのようなオーラは完全に抜け落ちている。だが、その「動く現代アート」と評された常軌を逸した美貌は健在で、周囲を歩いていた女子学生たちが「桐生くんだ……!」「久しぶりに見た……!」と息を呑んで立ち止まった。
「湊! あんた、今日は午後から家で判例読むって言ってたじゃない」
結菜が呆れて声を上げると、湊は不機嫌そうに眉間を寄せた。
「……結菜が作った昼飯の弁当、俺の部屋に忘れてっただろ。腹減ったのに飯がないから、迎えに来た」
その言葉に、周囲の女子学生たちが一斉にざわめいた。
(えっ? 弁当? 迎えに来た?)
あの、他学部の洗練された先輩が話しかけても氷のような態度を崩さなかったリアル王子が、わざわざ手作り弁当のために彼女を迎えに来たという事実。
だが、湊は周囲の驚愕の視線など完全に透過し、結菜の隣に当然のようにドカッと座り込んだ。
そして。
「……なんか、ここ人多くて息苦しい。早く飯食わせてよ」
コトン、と。
大勢の面前で、かつての孤高の王子が、結菜の肩に自分の頭を重そうに預けてきたのだ。
それは、外の人間には絶対に見せない、結菜に対して完全に依存しきった子供のような姿だった。
四畳半の密室で、「お前の体温がないと落ち着かない」とすがりついてきた、あの時と同じ、無防備で甘えきった体温。
「なっ……ちょっ、湊! こんなとこでくっつかないでよ!」
結菜は顔を真っ赤にして彼を引き剥がそうとするが、湊は「動くな。充電中」と呟いて、結菜の首筋にすりすりと顔を埋めてくる。
微かに香る、古い紙とブラックコーヒーの苦い匂い。
周囲の学生たちは、息をするのも忘れたようにその光景を凝視していた。
噂の「魔性の女」が、あの桐生湊を完全に手懐け、お世話をしているという、信じられない現実。
「あーもう、わかったわよ! ほら、サヤカたちも一緒に学食行くよ!」
これ以上ここで見世物になるのはごめんだと、結菜は真っ赤になりながらも、彼を突き飛ばすことはしなかった。
立ち上がり、湊の右手首をガシリと掴んで強引に引っ張り上げる。
湊はされるがままに立ち上がり、気怠げな足取りで結菜の後をついて歩き出した。
サヤカとミオは、顔を見合わせてニヤニヤと笑いながらその後を追う。
周囲の学生たちは、モーゼの十戒のように、彼らの進む道をサァッと開けていった。
「……なあ、結菜」
歩きながら、湊が結菜の耳元で小さく囁いた。
その声は、甘えたような先ほどのものとは違い、氷のように冷たく、危険な響きを帯びていた。
「周りの奴ら、結菜のこと変な目で見てる。……俺、やっぱりあいつら全員、名誉毀損で法的に訴えて、社会的に抹殺しようか?」
相変わらずスケールの大きい、物騒すぎる悪徳弁護士志望の危険発言。
かつて、巨大企業をたった一人でハッキングで崩壊させた彼なら、本当にやりかねない。
結菜は呆れて大きく息を吐き出すと、繋いでいた彼の手首から指を滑らせ、その大きな掌を自分の手でギュッと強く握り返した。
ひんやりとした彼の手が、結菜の体温に触れて微かに驚いたように跳ねる。
「バカなこと言わないの。噂なんてどうでもいいわよ。……あんたの命も胃袋も、これからの未来も、全部私が管理するって決めたんだから」
それは、過去のループの学食で、彼を死の運命から救い出すために叫んだあの言葉。
結菜は今、この平和な青空の下で、彼への「永遠の誓い」として、もう一度その言葉を口にしたのだ。
どんな噂を立てられようと、彼がこれからどんな悪徳弁護士になろうと、一生この手を離さないという、絶対的な覚悟。
湊は、繋がれた手と結菜の横顔を交互に見つめ、少し驚いたように目を丸くした。
そして。
彼を縛り付けていたすべての呪いを溶かすような、誰にも見せないひどく穏やかで、幸せそうな笑みを浮かべた。
「……了解、保護者様」
秋の高く澄んだ青空の下。
イチョウの葉が舞い散るメインストリートを、不器用でワガママな元・王子様と、世界で一番強い世話焼きの幼馴染が、手を繋いで歩いていく。
彼らの歩む未来には、もう凄惨な血の匂いも、理不尽な死の恐怖も存在しない。
ただ、騒がしくて温かい親友たちの笑い声と、二人が共に分け合う平和な日常の体温だけが、いつまでも、いつまでも続いていくのだ。




