番外編3
秋の気配が深まってきた、文学部キャンパス周辺のお洒落なカフェ。
木漏れ日が差し込むテラス席には、香ばしいキャラメルマキアートの匂いと、心地よいジャズのBGMが流れている。
結菜は、サヤカとミオに挟まれるようにしてランチタイムを楽しんでいた。
事件の後、二人が宣言した「学部が違うからって、逃げられると思わないでよ!」「うちらの週一のランチ会とカラオケは、永久に『強制連行』だから!」という理不尽で温かい約束が、今も当たり前のように果たされている 。
「見て見て、この新しいネイル。秋っぽくて可愛いでしょ」
サヤカが得意げに指先を広げて見せる。綺麗に塗られたボルドー色のマニキュアが、初秋の光を反射してツヤツヤと光っていた。
「ほんとだ、大人っぽい! 結菜も次はこういうのどう?」
ミオが食後の温かいココアを両手で包み込みながら、美味しそうに笑う。
その光景を見た瞬間。
結菜の脳裏に、かつてのループの薄暗い地下駐車場で見た、どろりとした血に染まったピンク色のマニキュアと、血の海に転がっていた甘いココアの缶の記憶が、ノイズのように微かにフラッシュバックした 。
(……っ)
無意識に息を呑み、膝の上で手を握りしめようとした結菜だったが、目の前で楽しそうに笑い合う温かい二人の姿が、その暗い幻影をすぐに掻き消してくれた。
(大丈夫。私が守りたかった日常は、ちゃんとここにある)
結菜は深く安堵の息を吐き出し、心からの笑顔を浮かべて頷いた。
「うん、いいね。今度お揃いで買いに行こうよ」
楽しく談笑している最中。
エプロン代わりのカーディガンのポケットの中で、結菜のスマートフォンがブーッ、ブーッと小刻みに何度も震え始めた。
「ん?」
画面を見ると、通知欄が一つだけの名前で埋め尽くされている。悪徳弁護士を目指して絶賛ヒモ生活中の「元・リアル王子」こと、湊からのLINEの嵐だ。
『昼飯まだ』
『冷蔵庫に何もない』
『いつ帰るの』
『あと10分で帰るって言ったのに』
たった数分の間に送りつけられた、スタンプも絵文字もない素っ気ないメッセージの連打 。
結菜は呆れて天を仰ぎ、凄まじい速度でフリック入力を開始した。
『出かける前にオムライス作っておいたでしょ! チンして食べなさいよ!』
そのやり取りを横から覗き込んでいたサヤカとミオが、吹き出しそうになるのを必死に堪えている。
「ちょっと結菜、あんた完全にオカンじゃん!」
「ていうか湊くん、本当にあのリアル王子なの? 生活能力皆無すぎない?」
二人は、かつて大騒ぎになっていた「動く現代アート」のあまりにも情けない実態にドン引きしつつも、面白がってケラケラと笑った。
「ごめん、予定の帰宅時間十分過ぎちゃった。うるさいから、私そろそろ帰るね」
結菜が苦笑いしながら席を立とうとした、その瞬間だった。
カランコロン、と。
カフェのドアベルが、軽やかな音を立てて鳴った。
入り口に立っていたのは、無地の白シャツを気怠げに着こなした、長身の青年だった。
ただの無職(弁護士志望)のはずなのに、その「動く現代アート」と評された常軌を逸した美貌と、どこか人を小馬鹿にしたような冷たい伏し目のせいで、店内の女性客たちが一斉にざわめき、視線を釘付けにされる 。
しかし湊は、周囲の熱視線など完全に透過し、一直線に結菜たちのテラス席へと歩み寄ってきた。
「……遅い」
湊は結菜を見下ろし、ひどく不機嫌そうな低い声で告げた 。
「はぁ!? あんた、なんでここが分かったのよ!」
結菜が顔を真っ赤にして怒鳴ると、サヤカとミオが目を丸くして身を乗り出した。
「えっ、ちょっと待って。GPSでも付けてんの!?」
「いやいや、過保護超えてホラーなんだけど!」
ドン引きする親友たちに対し、湊は悪びれる様子もなく、気怠げにポケットに手を突っ込んだまま言い放つ。
「……こいつが予定の時間に帰ってこないと、また暗殺者に攫われたかと思って落ち着かないんだよ」
もっともらしい、しかし半分はただのワガママな言い訳。あの四畳半の密室で何度も聞いた、「お前の体温がないと落ち着かない」という甘えの変形バージョンだ 。
「もう暗殺者なんてどこにもいないでしょ! あんたはただ、自分でご飯をチンするのが面倒くさいだけでしょ!」
プリプリと怒りながら、結菜は鞄を手に取って立ち上がった。
「じゃあねサヤカ、ミオ。来週のランチ会は、ちゃんと時間空けとくから!」
結菜が手を振り、湊の背中をグイグイと押してカフェの出口へと向かおうとする。
そのすれ違いざま。
湊は、結菜には聞こえないように、そして周囲の客にも聞こえないような極めて小さな声で、サヤカとミオに向けてぽつりと呟いた。
「……こいつを笑わせてくれて、ありがとな」
「え……?」
サヤカとミオは、ハッと息を呑み、目を丸くした。
あの閉鎖病棟の特別室で、「二度とこいつの視界に入るな」と絶対的な権力者の顔で冷酷に二人を突き放した彼が 。
結菜の平和な日常を彩ってくれる彼女たちの存在を、心の中では誰よりも感謝し、その温かさを認めていたのだ。
「……なに、今の」
「……なんか、腹立つけど許しちゃうね」
顔を見合わせて、クスッと笑い合う二人。
窓の外では、秋の澄んだ青空の下。
「早く歩きなさいよ! あんたのせいで恥かいたじゃない!」
「結菜の歩幅が狭いだけだろ。……今日の夜飯、ハンバーグな。ピーマンは入れるなよ」
「ピーマンは絶対に入れますー!」
口喧嘩をしながら並んで歩く二人の後ろ姿が、いつまでも、いつまでも平和に続いていく。
血の匂いも、死の恐怖もない。
ただの不器用な幼馴染同士の、愛おしい日常の風景として。




