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何度タイムリープしても死ぬ『完璧王子』の幼馴染を救うため、私は世話焼きオカンを辞めて悪魔になります。  作者: *しおり*


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番外編2

網戸を叩く初夏の雨音が、古びた四畳半のアパートに重く、そして規則的に響いている。


桐生グループという巨大な呪縛を完全に葬り去り、湊が実家の家督を捨てて「ただの無職の大学生(現在は悪徳弁護士志望)」として結菜の部屋に転がり込んでから、数ヶ月。

 死の恐怖に怯えることのない、あまりにも平和で、生温かい日常がそこにはあった。


ローテーブルで分厚い判例集を読んでいた湊は、マグカップのコーヒーを飲み干し、ふと顔を上げた。

 数メートル先のキッチンで、結菜が夕食の支度をしている。

 その背中を見つめていた湊の眉間が、微かに、しかし確実に不快感に歪んだ。


振り返った結菜の視線が、湊を捉えている。

 だが、湊には分かっていた。彼女のその焦点の合わない瞳は、目の前のソファに座る自分を「透過」しているのだと。

 結菜の網膜には今、平和な部屋の風景ではなく、雨に濡れたアスファルトに横たわる血まみれの白シャツや、防弾ガラスの向こうで崩れ落ちる男の姿が映っている。


「……結菜。お前、今どこ見てんの」

「えっ?」


低く、地を這うような湊の声に、結菜の肩がビクンと跳ねた。

 瞬きを繰り返し、急速に焦点を目の前の湊へと合わせる。


「う、ううん。なんでもない。ちょっと玉ねぎが目に染みただけ」


結菜は引きつった愛想笑いを浮かべ、逃げるように再びまな板へと向き直った。

 トントン、と包丁の音が再開される。

 湊は、空になったマグカップの取っ手を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。


――胸の奥で、ドス黒い、名状しがたい泥のような感情が渦を巻いている。


湊は、持ち前の冷徹な頭脳で、結菜の抱えるトラウマの正体を完璧に理解していた。

 十数回に及ぶタイムリープ。彼女の記憶の中には、彼女を庇って惨殺された「十数人分の桐生湊」の死体が焼き付いている。

 トラックの前に身を投げ出した俺。蜂の巣にされた俺。鉄パイプに押し潰された俺。ガラスの向こう側で、血の海に沈みながら彼女に微笑みかけた俺。


彼らは皆、結菜のために一切の躊躇なく命を投げ出した。

 その結果、結菜の魂の中で、彼らは〈究極の自己犠牲を体現した、絶対に手の届かない悲劇の王子様〉として、永遠に神格化されてしまっているのだ。


(……俺は今、ここで生きているのに)


湊は奥歯をギリッと噛み締めた。

 今、結菜の目の前で息をしているのは自分だ。だが、結菜が夜中にうなされ、一番愛し、一番涙を流して焦がれているのは、目の前の自分ではない。「綺麗に死んでいった、あの時の俺たち」なのだ。

 自分自身でありながら、記憶を共有していない、別次元の英雄たち。

 彼らが結菜の魂の最も深い部分を独占しているという事実に、湊は「死んだ自分自身への強烈な嫉妬」という、狂気じみた感情に苛まれ続けていた。


* * *


雨脚が、次第に強くなっていく。

 換気扇の低い唸り音と、生肉をこねる粘り気のある音がキッチンを満たしていた。


「……」


ボウルの中で合い挽き肉と玉ねぎを混ぜ合わせながら、結菜の視界がふいに歪んだ。

 雨の日の、ハンバーグ。

『ピーマン抜きのハンバーグ、食いたかったな』

 あの凄惨な血の海の中で、最期に彼が残した掠れた声が、フラッシュバックする。

 生温かいひき肉の感触が、あの日の彼の、冷たくなっていく頬の感触と重なった。


ポロ、ポロポロと。

 結菜の目から、自分でも無意識のうちに大粒の涙が溢れ出し、ボウルの縁へと落ちていく。


ドンッ!!


「……っ!?」


背後で、椅子が乱暴に蹴り倒される音がした。

 振り返る暇もなかった。結菜の腕が、背後から伸びてきた大きな手に強引に掴まれ、強烈な力で引き寄せられる。

 ボウルがシンクにひっくり返る嫌な音が響いた。


「みな、と……っ?」


ひき肉の脂で汚れた結菜の手首を握りしめ、湊が結菜を見下ろしていた。

 いつも気怠げで、どこか達観していたガラス玉のような瞳。そこに被せられていた「リアル王子」の防弾ガラスは粉々に砕け散り、剥き出しの焦燥と、ドス黒い怒りの炎が燃え盛っていた。


「……また、あいつらのこと思い出して泣いてるのか」

「あいつらって……何言ってるの、湊。ちょっと玉ねぎが……」

「嘘をつけ!!」


怒声が、狭いアパートの空気をビリビリと震わせた。

 結菜は息を呑み、目を見開いた。湊がこんなにも激しく感情を爆発させる姿など、ただの一度も見たことがなかった。


「お前を庇ってトラックに轢かれた俺! 蜂の巣にされた俺! ガラスの向こうで死んだ俺! お前はいつも、そいつらばっかり見てる!」


湊の長い指が、結菜の肩に食い込む。

 痛い。しかし、それ以上に、湊の顔が泣き出しそうに歪んでいることに、結菜は激しい衝撃を受けていた。


「俺は今、お前の目の前で生きて、息をしてるのに! お前の中で、俺は一生『綺麗に死んでいった悲劇のヒーロー』には勝てないのか!?」

「ちが、そんなこと……っ!」

「死んだ俺たちにずっと魂を囚われたまま、今の俺をただの”代用品”みたいに扱うな……ッ!」


悲痛な叫びだった。

 彼はずっと、苦しんでいたのだ。自分が経験していない「彼自身の死」という幻影に、結菜の心が縛り付けられていることに。

 一番近くで結菜の体温に触れながら、自分は一生、彼女のトラウマの中の”彼ら”には敵わないのではないかと、絶望していたことに。


「代用品なんかじゃない! あの時の湊も、今のあんたも、全部……私を救ってくれた、同じあんたなのよ!」


結菜は涙を振り乱して首を横に振り、湊の胸にすがりつこうとした。

 しかし、湊は結菜のその言葉すら拒絶するように、結菜の肩を掴んだまま冷蔵庫の硬い扉へと強引に押し付けた。


――そして、乱暴に唇を塞いだ。


「……んっ、ぁ……っ!」


それは、甘さなど微塵もない、暴力的なまでの感情の叩きつけだった。

 結菜の唇を食い破るような、強烈で深い口付け。微かに血の味が広がり、結菜の口内を湊の熱い舌が容赦なく侵略してくる。


(あ、ああ……っ)


数十回のループ。あれだけの死線と地獄を共に潜り抜け、互いの体温に縋って夜を明かしてきたというのに。

 これが、二人の『ファーストキス』だった。


悲劇の死を迎えたどの世界の湊も、結菜の唇を奪うことなどできなかった。結菜に触れる前に、命を散らしてきたからだ。

 今の彼だけが、生き残ったこの泥臭い世界の彼だけが、結菜の唇を貪り、その熱で過去の純潔な記憶を乱暴に塗り潰していく。


息が続かなくなり、結菜が湊の胸を弱々しく叩く。

 銀の糸を引いて唇が離れると、湊は荒い呼吸を繰り返し、そのまま結菜の脂まみれの手を掴み取った。

 そして、自分の左胸――白シャツ越しの、心臓の真上へと強く押し当てた。


ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。


「……っ」

「……分かるか」


結菜の首筋に深く顔を埋め、湊が絞り出すように囁く。

 手のひらから伝わってくるのは、ひどく早鐘を打つ、不規則で、泥臭くて、熱を帯びた命の鼓動。


「死んで、綺麗な思い出になった奴らは……こんなに心臓、早く鳴らないだろ」

「みな、と……っ」

「過去の俺たちが残した呪いごと、お前を全部俺のものにする。……代用品でもなんでもいい。お前の網膜に焼き付いた死体なんて全部消え失せるくらい、これからの人生で、俺が何万回でも生きていることを見せつけてやるから」


それは、悪徳弁護士を目指す彼らしい、あまりにも執念深く、歪で、呪いのようなプロポーズだった。


結菜の目から、再び涙がこぼれ落ちる。

 だがそれは、過去の死に囚われた冷たい涙ではなかった。今、目の前で嫉妬に狂い、不格好に自分を抱きしめている「生きている彼」の熱に当てられた、どうしようもなく温かい涙だった。


結菜は、ひき肉で汚れた手など気にすることなく、湊の広い背中に腕を回し、そのシャツをきつく握りしめた。

 過去のトラウマが、明日すぐに消えるわけではない。結菜はこれからも、雨の日の匂いや不意の物音で、死んだ彼らの幻影を見るだろう。

 しかしその度に、目の前の彼が酷い嫉妬を剥き出しにして、乱暴なキスと生温かい心音で、結菜の記憶を何度でも「現在」へと引き戻し、上書きし続けてくれるはずだ。


雨音と、ひどく熱い二つの心臓の音だけが、古い四畳半の部屋に、いつまでも重なり合って響き続けていた。

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