番外編
すべてが終わってから一週間後。
結菜は、どうにか日常を取り戻そうと、大学の看護実習へと復帰していた。
消毒液のツンとした匂いが充満する、白く無機質な実習室。
今日は学生同士でペアを組み、模擬の採血を行う日だった。結菜は震える手にゴム手袋をはめ、シリンジを握りしめていた。
「結菜、大丈夫? 顔色悪いよ」
ペアの女子学生が心配そうに覗き込んでくる。結菜は「平気」と作り笑いを浮かべ、彼女の腕に駆血帯を巻いた。
だが、アルコール綿で皮膚を拭き、細い針先を静脈に滑り込ませた瞬間だった。
――チクッ、という感覚と共に、シリンジの管に赤い血液がジワリと逆流してくる。
「あ……」
その『赤色』を見た瞬間。結菜の視界が、ぐにゃりと強制的に反転した。
実習室の白い壁が、コンクリートのくすんだ色に塗り替わっていく。
ツンとした消毒液の匂いが、サヤカのピンク色のマニキュアが溶け出した、どろりとした血と鉄の悪臭へと変わる。
隣のグループが金属製のトレイを落とした『ガシャンッ』という音が、結菜の鼓膜で『ひしゃげた鉄パイプが湊の背中を打ち据える鈍い音』へと変換されて鳴り響いた。
「ひ、ヒュッ……ハァッ、あ……っ!」
「結菜!? ちょっと、誰か先生呼んできて!」
シリンジが床に転がり落ちる。
結菜は自分の喉を掻きむしり、過呼吸を起こしてその場に崩れ落ちた。
ダメだ。
あの凄惨な地獄のループを生き抜いた代償は、結菜の精神を根本から作り変えてしまっていた。他人の命を預かることも、その生々しい血を見ることも、もう耐えられない。
(誰かを救いたかったのに……もう、血を見るのが怖いよ……っ)
実習室の冷たい床で震えながら、結菜は幼い頃からずっと見続けてきた『看護師』という光の道が、音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。
* * *
真っ昼間の、四畳半のアパート。
開け放たれた窓から初夏の風が吹き込み、薄いカーテンを揺らしている。
ピコピコという電子音と、コントローラーのボタンを連打するカチャカチャという音が、静かな部屋に響いていた。
実家と完全に縁を切り、大企業の跡取りという呪縛から解放された湊は、宣言通り結菜の部屋に転がり込み、「完璧な無職の大学生」を謳歌し尽くしていた。
昼過ぎまで寝て、結菜が作ってラップをかけておいたご飯を食べ、ゲームやネットサーフィンをして過ごす自堕落な日々。大学の単位など、とうの昔に放り投げている。
ガチャリ。
玄関のドアが開き、重い足音が部屋に入ってきた。
湊は画面から目を離さず、気怠げに声をかける。
「……遅い。昼飯のオムライス、ケチャップ足りなかったんだけど」
だが、返事はない。
代わりに聞こえてきたのは、ドサリと何かが床に落ちる音と、鼻をすする微かな水音だった。
「……おい」
湊は舌打ちをしてゲームを一時停止し、のそりと振り返った。
そこには、真っ赤に泣き腫らした目で、大学指定の白衣が乱雑に突っ込まれた紙袋を抱え、へたり込んでいる結菜の姿があった。
「……転学届、出してきた」
ぽつりと、結菜の震える唇から零れ落ちた言葉。
湊の目が、スッと細められる。
「私、もう血を見るのが……怖い。ちょっと赤いものを見ただけで、あの駐車場を思い出して……過呼吸になっちゃうの。……看護師になれない」
ポロポロと、大粒の涙が結菜の膝を濡らしていく。
「頑張ってきたのに……ずっと、夢だったのに。湊を助けられた代わりに、私の中から、なんにもなくなっちゃった……っ」
夢を失い、空っぽになってしまった絶望。
声を上げて泣きじゃくる結菜を、湊は無言で見下ろしていた。
そして、ゆっくりと歩み寄ると、その小さな体を自分の腕の中に引き寄せた。慰めの言葉も、同情もない。ただ、結菜の震える背中を、不器用な大きな手で優しく、何度も何度も撫で続けるだけだった。
* * *
結菜が泣き疲れて落ち着き、赤くなった目をこすりながら麦茶を飲んでいると。
ローテーブルの向かいで自分のノートPCを開いていた湊が、画面を見たまま、ひどく唐突に口を開いた。
「……俺、司法試験受けるわ。弁護士になる」
ぶふっ、と結菜は麦茶を吹き出しそうになった。
「……は?」
「だから。弁護士」
「え、ちょっと待って。あんた、ハッカーじゃなかったの!? あんなに凄まじい軍事レベルのウイルス組んでたのに、そっち系のIT企業に就職するとかじゃないの!?」
涙目だったことも忘れ、結菜はぽかんと湊を見上げた。
湊はタイピングの手を止め、心底面倒くさそうにため息をついた。
「ハッキングなんてただの趣味だし。暗い部屋で一人でカタカタやるの、もう飽きた」
「飽きたって、あんたねぇ……」
「それに。俺の親父や専務みたいな腐った連中を、一番合法的に、かつ徹底的に搾取して潰せるのは、法律の穴を悪用する悪徳弁護士だろ」
湊のガラス玉のような瞳の奥に、かつての冷徹な光が瞬いた。
――実は彼が、法学部の特等席で重厚な判例ばかりを読み漁っていたのは、元々実家の『裏の事情や裁判記録』の矛盾を突いて、親父たちを内部から告発するためだったのだ。
そして今。表舞台の「法律」という最強の武器を自らの手にすれば、もう二度と結菜が理不尽な権力に怯え、血を見るような事態にはならない。彼は、無職のヒモを装いながら、すでに結菜を守るための新しい盤面を描き始めていたのだ。
「……でも、弁護士になるって、すっごく勉強しなきゃいけないし、お金だってかかるし……」
戸惑う結菜に対し、湊はPCをパタンと閉じ、のそりと結菜の隣に移動してきた。
そして、いつもの不機嫌そうな、けれどとびきり甘い、逃げ場のない声で告げた。
「だから言っただろ。俺の予定も命も、全部お前が管理しろって」
湊の長い腕が結菜の腰に回され、その顔が結菜の首筋にすりすりと埋められる。
古い紙とブラックコーヒーの匂いが、結菜をすっぽりと包み込んだ。
「……俺が悪徳弁護士になって、死ぬほど稼いでやるから。お前はもう、血なんか見なくていいし、無理に夢なんか持たなくていい」
「湊……」
「お前は一生、この安全な部屋で俺の飯だけ作って、俺に養われろ。……俺の専属の『保護者』になるのが、お前の新しい職業」
首筋に当たる彼の熱い息と、強引すぎる理屈に、結菜は呆気にとられた。
だが、すぐに気づく。
この男は、「夢を失って空っぽになった結菜」に、『自分(湊)を生かす』という、絶対に揺るがない新しい存在理由を、わざと与えようとしてくれているのだと。
「……ほんっと、手のかかる男」
結菜は、呆れたように、けれど心の底から安堵したように笑いながら、彼の広い背中に自分の腕を回した。
看護師という、人の命を救う光の道は閉ざされてしまったかもしれない。
でも。
この狭い四畳半で、やがて悪徳弁護士として世の権力を蹂躙していくであろうこの厄介な男の、唯一の手綱を握り続けること。文系学部に移って、自分でも新しく興味の持てそうな何かを、ゆっくり探していくこと。
それこそが、あの終わりのない地獄を共に生き抜いた自分にしかできない、新しい人生なのだ。
「仕方ないわね。あんたの胃袋は、私が一生管理してあげる」
結菜の言葉に、湊は首筋に顔を埋めたまま「ん」とだけ短く応えた。
初夏の陽光が、新しい道を歩み始めた二人の影を、いつまでも優しく重なり合わせていた。




