友達
大学周辺の喧騒から少し離れた、裏路地にひっそりと佇むアンティーク調のカフェ。
焙煎されたばかりのコーヒー豆の深い香りと、キャラメルシロップの甘ったるい匂いが、控えめに流れるボサノバのBGMと溶け合っている。
窓際の丸テーブル。
結菜は、目の前に置かれたアールグレイのアイスティーを見つめたまま、微動だにしなかった。グラスの表面にびっしりとついた水滴が、ツツーッと一本の線を描いてコースターへと染み込んでいく。
「……」
向かいの席には、サヤカとミオが座っている。
二人は何も言わず、ただ結菜が口を開くのを待っていた。カフェの空調の微かな風が、結菜の少し短くなった髪の毛を揺らす。
事件から、しばらくの時が経っていた。
巨大な権力の解体、警察組織の大規模な粛清。ニュースを騒がせたそれらの嵐が過ぎ去り、結菜が看護学部から文学部への転部手続きをようやく終えた、初夏の終わりのことだった。
「……あの時は」
氷がカラン、と溶けて崩れる音を合図に、結菜はようやく重い口を開いた。
グラスを握りしめる両手に、ギュッと力を込める。冷たさで指先が白くなっていることにも気づかないまま、結菜は深く、深く頭を下げた。
「ひどいこと言って、本当に、ごめんなさい」
テーブルの木目に、自分の声が吸い込まれていく。
あの講義室で、自分を心から心配してくれた二人に向かって放った、冷酷な拒絶の言葉。
『あんたたちとの表面上の付き合い、鬱陶しかったの』。
命を守るための嘘だったとはいえ、その言葉は、ずっと結菜の胸の奥に重いヘドロのようにこびりついて離れなかった。
「サヤカとミオのこと、表面上の付き合いだなんて……鬱陶しいだなんて。そんなこと、ただの一度も思ったことなかったのに」
消え入りそうな声で紡ぐと、頭上からストローで氷をカラカラと回す、ひどく間の抜けた音が降ってきた。
「……湊の、実家の」
結菜は顔を上げられないまま、震える声で独白を続ける。タイムリープのことや、黒田に内臓を蹴り破られて屋上から突き落とされた事実、目の前で湊が肉塊になった惨劇は、一般人である彼女たちには絶対に言えない。
「会社を乗っ取ろうとする、悪い大人たちに命を狙われてたの。本当に、いつ殺されてもおかしくないくらい危険で……。二人を巻き込むくらいなら、嫌われて絶交された方がマシだと思った」
「……」
「でも……私、本当に血を見るのが怖くなっちゃって。……看護師になる夢も諦めて、文学部に転部することになって。……全部終わったら、一番に二人に『ごめんね』って言いたかった」
ポタリ、と。
結菜の目からこぼれ落ちた雫が、テーブルに小さな染みを作った。
看護師という、幼い頃からの夢。それを諦めざるを得なかった喪失感と、何よりも大切な親友を傷つけた罪悪感。
重苦しい沈黙が、テーブルを包む。
やがて。
「……だと思った」
ミオの、呆れたような、ひどくあっけらかんとした声が静寂を破った。
「え……?」
結菜がゆっくりと顔を上げると、ミオは頬杖をつきながら、残ったアイスカフェラテの氷をストローでつつき回していた。
「だってさ、あのリアル王子が、いきなりうちらのアパートに黒服のSP何人も引き連れてきてさ。『三週間、海外の五つ星ホテルにタダでご招待します。絶対安全な場所から一歩も出るな』って、有無を言わさずうちらを飛行機に押し込んで強制連行したんだよ?」
「……えっ」
結菜は目を丸くした。
湊が、そんな裏工作をしていたなんて全く知らなかった。あの三十日間の密室潜伏の最中、彼が裏で手を回し、結菜の大切な親友たちを物理的に『絶対安全圏』へと隔離していたのだ。
「そんな映画みたいなこと起きる時点で、なんかヤバい裏事情があるんだろうなって思ってたよ。……結菜が一人で抱え込んでるのも、なんとなく分かってたし」
ミオは、結菜が言葉を濁した『その先の残酷な真実』には、あえて一歩も踏み込もうとしなかった。ただの女子大生の情報網では到底立ち打ちできない、本物の地獄がそこにあったのだと察し、笑って受け流してくれたのだ。
その横で。
ズッ、と乱暴に鼻をすする音がした。
「……っ、バカ」
サヤカだ。
彼女は両手で顔を覆い、大粒の涙をポロポロとテーブルに落としていた。泣き崩れたメイクも気にせず、彼女はガタッと椅子を鳴らして立ち上がると、結菜の隣の席にドスリと座り込んだ。
「え、サヤカ……」
直後、サヤカの細い腕が、結菜の小さな肩を思い切り引き寄せ、ギュッと抱きしめた。
フローラル系の柔軟剤と、少し甘い香水の匂い。
講義の合間にいつも嗅いでいた、優しくて温かい、平和な日常の匂いだった。
「水臭すぎるでしょ……っ! うちら、そんなことで結菜を見捨てるわけないじゃん!」
サヤカの声は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
背中に回された手のひらが、結菜のシャツをきつく握りしめている。
「結菜がどんな冷たい態度とったって、うちらは絶対あんたの味方なんだから! 一人で勝手に悪者になって、勝手に遠く行かないでよ……っ!」
それは、かつて結菜がブロックする直前にLINEで送ってくれていた、あの温かい善意の言葉そのものだった。
あの時は読むことすら苦しかったその言葉が、今は、凍りついていた結菜の心を内側から溶かしていく。
「あ、ぁ……っ」
結菜の喉の奥から、せき止めていたものが決壊するような、不格好な嗚咽が漏れた。
ずっと、ずっと怖かった。
三十日間、湊の体温だけを頼りに死の恐怖と戦い続けた。狂気に身を染め、暗殺者の娘を交渉材料にするような悪魔に堕ちた自分が、再びこの温かい光の当たる場所に戻ってきてもいいのかと、ずっと怯えていたのだ。
「ごめん、ごめんね……っ。私、本当はすごく怖かった……!」
結菜はグラスから両手を離し、サヤカの背中にしがみついて、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
カフェの他の客が怪訝な顔でこちらを見ているが、そんなことはもうどうでもよかった。
「知ってる。……よく一人で、湊くん守って頑張ったね」
ミオが席を立ち、泣きじゃくる結菜の頭を、ポンポンと優しく撫でた。
その手のひらの温もりが、結菜がようやく『ただの女子大生』に戻れたことを証明していた。
* * *
ひとしきり泣いて、テーブルの上の紙ナプキンが涙と鼻水で山のようになった頃。
結菜は赤く腫らした目で、ようやく本来の笑顔を取り戻していた。
「……ズズッ。ていうかさ」
サヤカが赤くなった鼻をティッシュで豪快にかみながら、ビシッと結菜の鼻先を指差した。
「いい、結菜! あんたが文学部に行こうが、これからは白衣じゃなくてお洒落な服着ようが、湊くんと住む世界が違おうが関係ないからね!」
「えっ」
「うちらの週一のランチ会とカラオケは、永久に『強制連行』だから! 学部が違うからって、逃げられると思わないでよ!」
サヤカの理不尽で、あまりにも愛に溢れた絶対宣言。
ミオも「そうそう」とストローを噛みながら同意する。
「文学部キャンパスの周りって、お洒落で美味しいカフェ多いらしいじゃん。今のうちにリサーチしといてよね、案内係」
「……ふふっ」
二人の底抜けの明るさと、何も変わらない、むしろ前よりも図太くなったお節介。
結菜の胸を満たしていた重い鉛のような罪悪感は、いつの間にか綺麗に消え去っていた。
「……うんっ!」
結菜は涙で濡れた頬を袖で乱暴に拭うと、とびきりの笑顔で力強く頷いた。
巨大な権力の闇も、凄惨な死の記憶も、すべては過去の彼方に置き去りにしてきた。
文学部という新しい場所で。
不器用でワガママな幼馴染と、こんなにも騒がしくて温かい、世界で一番の親友たちと共に。
結菜の、本当の意味での『生き直す』ための人生が、今、静かに、そして確かに歩み始めたのだ。




