エピローグ
初夏の夕暮れ時。
網戸越しに吹き込む生温かい風が、狭くて古い四畳半のアパートの空気をゆっくりと掻き回していた。
西日がオレンジ色の四角い影をフローリングに落とし、部屋の中はどこかノスタルジックな、ひどく穏やかな光に包まれている。
トントントン、と。
キッチンに立つ結菜の手元から、玉ねぎを微塵切りにする小気味よい音が響く。
換気扇の低いモーター音が、そのリズムを単調なベース音のように支えていた。
ボウルの中でひき肉と玉ねぎをこね合わせ、両手でキャッチボールをするように空気を抜いていく。ジュワッ、と熱したフライパンに肉種を落とすと、食欲をそそる脂の焼ける匂いが、一気に部屋中に広がった。
かつてのループで、何度も作ろうとして、ついに一度も彼に食べさせることができなかった「ハンバーグ」。
フライパンの縁でソースが煮詰まる音を聞きながら、結菜はふと、フライ返しを持つ手をピタリと止めた。
――ジュウウウ、という肉の焼ける音が、遠のく。
代わりに結菜の脳裏を侵食したのは、鼓膜を圧迫するような絶対的な『無音』の世界。
分厚い防音ガラスの向こう側。
青白いサーバーの光に照らされながら、無数の銃弾を背中に浴び、真っ白なシャツを赤黒く染め上げて血の海に沈んでいく湊の姿。
崩れ落ちる寸前、彼は結菜を安心させるために、あの完璧な王子様の笑顔を貼り付けたまま、最期に口の動きだけでこう伝えたのだ。
『ピーマン抜きの、ハンバーグ。……食いたかったな』
「……っ」
胸の奥を、素手で直接抉られたような鋭い痛みが走る。
フライパンの柄を握る結菜の指先が白くうっ血し、視界が急激に涙で滲みそうになった、その時だった。
「……うるさい。寝てるんだけど」
背後から、ひどく気怠げで、不機嫌な声が降ってきた。
幽霊でも幻聴でもない。確かに肺に酸素を満たし、声帯を震わせている、生きた人間の声。
結菜がハッと振り返ると、部屋の半分を占めるシングルベッドの上に、湊がのそりと身を起こすところだった。
血に染まっていない無地の白シャツ。銃弾の穴も、あり得ない方向に折れ曲がった手足もない。
彼は結菜のシャンプーの匂いが染み付いた布団の中で、ただの寝起きの悪い青年として、長い前髪を鬱陶しそうに掻き上げていた。
「……湊」
本社ビルでのカチコミの末、堂島専務を完全に社会的に抹殺した彼は、宣言通り、桐生グループという大企業の家督をすべて放棄した。
彼はもう、誰も寄せ付けない「完璧なリアル王子」でもなければ、強大な権力を持つ「大企業の跡取り」でもない。ただ結菜の部屋に入り浸り、結菜のベッドを占領している「生活能力皆無の無職の大学生」だ。
「……ねえ。本当に、実家と縁切っちゃったの? あんた、これからどうやって生きていく気よ」
結菜は、滲みかけた涙を誤魔化すように、呆れたような声を出してフライパンの火を弱めた。
湊は長い脚をベッドから下ろし、結菜の言葉に鼻で笑う。
「は? お前が『あんたの命も予定も全部管理する』って、学食で大勢の前で言ったんだろ。……俺の胃袋、一生お前が面倒見ろよ」
大企業の御曹司というステータスをドブに捨てた男が、堂々と「養ってくれ」と宣言している。そのあまりの厚顔無恥っぷりに、結菜は小さくため息をついた。
だが、そのため息の裏には、どうしようもないほどの愛おしさがこびりついていた。
ブーッ、ブーッ。
エプロンのポケットの中で、スマートフォンが明るく点灯し、小刻みに震えた。
結菜が手を拭いて画面を見ると、そこにはメッセージアプリの通知が並んでいる。
『結菜! 明日の講義、代返お願い! ガチで間に合わない!』
『また寝坊でしょ。ほんとサヤカってばダメだよねー笑。結菜、私のもついでにお願い♡』
サヤカと、ミオからのLINEだった。
その文字を見た瞬間、結菜の視界がぐにゃりと歪んだ。
――薄暗い地下駐車場。
――だらしなく開いたミニバンのドアから垂れ下がった、サヤカの腕。綺麗だったピンク色のマニキュアが、どろりとした赤黒い血に染まっていた光景。
――コンクリートの床を転がる、ミオが買ってくれた甘いココアの缶と、混ざり合う鉄の悪臭。
あの子たちを二度と地獄に巻き込まないために。
あの四畳半の密室で、血の涙を流すような思いでブロックボタンをタップし、翌日の講義室で「あんたたちといると疲れる」と、一番彼女たちが傷つく暴言を吐いて絶縁した、あの絶望の夜。
それが今。
ただの『他愛のない、普通の女子大生の日常』として、当たり前のように続いている。
親友たちは生きていて、恋の話や、単位の愚痴を言い合いながら、明日もあの講義室で笑い合えるのだ。
「あ……ぁ、っ……」
結菜はスマートフォンの画面を両手で握りしめたまま、ついにこらえきれず、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
声を抑えようとしても、奥歯を噛み締めても、安堵と救済の涙が次々と頬を伝い落ちていく。
コン、と。
素足がフローリングを踏む、静かな足音が背後に近づいてきた。
次の瞬間。
「……っ」
結菜の背中が、湊の硬い胸板にすっぽりと包み込まれた。
逃亡生活の夜、暗殺者の足音に怯えながら四畳半で何度もそうしてきたように、彼が背後から深く、逃げ場のない抱擁で結菜を捕まえる。
湊の顔が、結菜の首筋に深く埋められた。
だが、もうあの時のように、いつドアが破られるか分からないというヒリヒリとした死の緊張感は、どこにもない。
ただ純粋に、結菜の体温を求め、彼女の存在を確かめるための、ひどく甘くて深いハグだった。
彼から漂う、古い紙とブラックコーヒーの苦い匂い。
そして、結菜の背中越しに伝わってくる、ドクン、ドクンと力強く脈打つ、生きている彼の心臓の音。
その絶対的な生の鼓動が、結菜の魂の奥底にこびりついていた死の記憶を、優しく溶かし、洗い流していく。
「……何泣いてんの。ハンバーグ焦げるぞ」
首筋に顔を埋めたまま、湊が気怠げな声で呟いた。
結菜は、自分の腰に回された彼の大きな手に、震える両手をそっと重ねる。
「……泣いてない。玉ねぎが目に染みただけ」
「嘘ばっか」
湊は、結菜の肩越しに手を伸ばし、その長い指先で結菜の頬を伝う涙をそっと掬い取った。
そして、結菜の耳元で、あの土管の中から泣いていた彼を引っ張り出した時と全く同じように。不器用で、ひどく優しい声で囁いた。
「……ただいま、結菜。俺の帰る場所は、お前の隣だけだ」
その言葉に、結菜はもう一度だけ小さくしゃくり上げると、彼の手の甲に自分の頬をすり寄せた。
幾千の絶望のループを繰り返し、何度も何度も彼を失った。
それでも、ようやく辿り着いたのだ。彼が死なない、誰も死なない、この『ただいま』が言える世界に。
「……おかえり、湊」
結菜は涙を乱暴に袖で拭うと、フライパンの火を止め、用意しておいたお皿に二つのハンバーグを盛り付けた。
デミグラスソースの香りが、四畳半の部屋を幸せな空気で満たしていく。
「ほら、できたわよ。冷めないうちに食べなさい」
「ん」
結菜がローテーブルに皿を並べると、湊はのそりと向かいに座り、割り箸を割った。
だが、ハンバーグに箸を突き立てようとした瞬間、彼の動きがピタリと止まる。
「……おい。これ、ピーマン入ってんだけど」
ハンバーグの断面から覗く、鮮やかな緑色。
湊がひどく嫌そうな顔をして結菜を睨みつけると、結菜は腕を組み、かつての口うるさい幼馴染の顔でふんぞり返った。
「当たり前でしょ。あんたはもうただの”大学生”なんだから、ワガママなんて許しません。これからは私が養うんだから、あんたの健康管理も私の仕事なの」
「……」
湊は文句を言い返そうと口を開きかけたが、ふと何かを思い出したように視線を落とした。
――かつてのループの夜。三十日間の潜伏の終わりが見えた時、彼が結菜の首筋に顔を埋めて言った約束。
『今回は特別に、ピーマン入ってても食ってやるから』
湊は、観念したように長く、深い溜息をついた。
「……マジで最悪」
心底嫌そうな、ひどく気怠げな声。
そう文句を言いながらも、湊はピーマンごとハンバーグを大きく切り取り、そのまま口に運んだ。
そして、大企業のフルコースでも高級レストランのディナーでもなく。結菜が作ってくれた、この四畳半で食べる『世界で一番美味しいご飯』を、ゆっくりと咀嚼し始める。
初夏の生温かい風が、網戸を揺らし、部屋の中を通り抜けていく。
遠くから聞こえる微かな車の走行音と、夕暮れの街のざわめき。
幾千の地獄のループを乗り越え、血反吐を吐き、すべてを失い、そしてすべてを取り戻した二人が、向かい合ってただの「日常」のご飯を食べる。
その何気なくも、途方もない奇跡のような光景を夕陽が優しく照らし出し、物語の幕は、確かな体温と共に静かに下りていった。




