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何度タイムリープしても死ぬ『完璧王子』の幼馴染を救うため、私は世話焼きオカンを辞めて悪魔になります。  作者: *しおり*


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15

講義室で突如狂乱し、絶叫を上げて飛び出していった結菜。


残されたサヤカとミオは、ただ事ではないとその背中を追おうとしたが、結菜の足取りは速く、すぐに見失ってしまった。

その後、彼女の行方を必死に探していた二人のもとに、最悪の知らせが届いたのは数時間後のことだった。


ミオが持ち前のハッキングまがいのネット調査能力を駆使し、大学の裏掲示板やSNS、さらに警察の無線傍受に近い裏ルートまで総動員して情報をかき集めた結果。結菜は最寄りの警察署に駆け込んで泣き叫び、そのまま郊外の精神病院の閉鎖病棟へと隔離されてしまったのだという。


「……ミオ、これ、本当なの?」


空き教室に駆け込んだサヤカが、ミオのノートPCの画面を見て息を呑んだ。


「間違いない。警察で結菜が錯乱状態で叫んでいた言葉……『堂島専務』、そして『黒田』が暗殺者だっていう証言記録の断片」



ミオは爪を噛みながら、画面に並ぶ文字列を鋭い眼差しで睨みつけた。


「堂島専務って、テレビ局のスポンサーに必ず名前がある、あの巨大企業『桐生グループ』の重役よ 。結菜がそんな大企業の闇と何の関係があるっていうの?」

「わかんない。でも……」


サヤカはギリッと奥歯を噛み締めた。


「結菜が頭をおかしくするなんて、絶対にあり得ない。あの子は、誰よりも真面目で、優しくて、私たちのことをいっつも気遣ってくれてたじゃない! あの子が発狂するなんて……絶対に、何かとんでもない事件に巻き込まれたんだよ!」


サヤカの目に、怒りと悲しみの涙が滲む。ミオは無言で頷き、キーボードを叩いて一つの画像を画面に大写しにした。


「桐生グループ。そして、うちの大学の文系キャンパスで今話題になってる『リアル王子』……名前は、桐生湊 」

画面に映し出された、ひんやりとした色素の薄い瞳を持つ男の写真。


「……結菜を助けられるのは、この御曹司しかいない」



* * *



昼休みの文系キャンパスの巨大な学食は、数百人の学生が発する熱気と喧騒に包まれていた。

窓際の特等席。そこだけが周囲の喧騒から切り離されたように静謐だった。

重厚な法学の専門書を足元に置き、無地の白シャツの袖を無造作に捲り上げた桐生湊がそこにいる。向かいの席には、洗練された先輩らしき女性が陣取り、艶やかなネイルの指先を交えながら熱っぽく彼に話しかけていた。


彼を取り囲む女子たちは皆、熱狂的な視線を送るものの、誰一人としてその真っ白なシャツの袖に気安く触れることはできていない。見えない境界線――まるで分厚い防弾ガラスの向こう側に隔離されているような、絶対的な壁がそこには存在していた。


「ちょっと、通して!」


その強固な壁を、怒りに満ちた声が物理的にこじ開けた。


「きゃっ!」「なによ、ちょっと!」


突然の乱入者に、取り巻きの女子たちがざわめく。こんなに堂々と声をかけにいくなんて先駆けは許さない、暗黙のルール違反だ、と非難の視線が突き刺さる中、息を切らしたサヤカとミオが、ズカズカと湊のテーブルの前へと踏み込んできた。


「ちょっと、あなたが桐生湊!?」

サヤカが、テーブルに両手をついて身を乗り出した。


「リアル王子」と聞いてはいたが、至近距離で見る彼の容姿には確かに息を呑むものがあった。だが、今の彼女たちの胸にある親友を救いたいというミーハー心ゼロの緊迫感は、そんなものを完全に掻き消していた。


湊は、フォークを動かす手を止め、ゆっくりと顔を上げた。

ガラス玉のように色素の薄い、ひんやりとした瞳が二人を捉える 。その目には、鬱陶しい羽虫でも見るような冷ややかな光が宿っていた。


完璧な営業スマイルすら浮かべず、彼はひどく気怠げに、冷たく言い放つ。

「……誰? 悪いけど、今取り込み中なんだけど」

 

冷酷に突き放そうとする湊に対し、ミオが一歩前に出て、バンッと自分のスマートフォンをテーブルに叩きつけた。


「結菜っていう、私たちの親友、知ってるわよね?」


その名前が出た瞬間。湊の長い睫毛が、微かに、だが確実に揺れた。ミオの鋭い視線が彼を射抜く。


「結菜が、今日、閉鎖病棟に入れられたのよ」


周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。向かいに座っていた先輩女子が


「へ? へいさ……?」と間の抜けた声を漏らす。


サヤカが涙目で、しかし持ち前の強い姉御肌の気迫でそれに続いた 。


「結菜が、四限目の講義室で突然発狂したの! そのあと警察に駆け込んで、『堂島専務が暗殺者を雇ってる』『黒田って男が殺そうとしてる』って泣き叫んで……っ! そのまま、鉄格子の部屋に閉じ込められたんだから!」

「……堂島専務。黒田」

その二つの単語が湊の鼓膜を打った瞬間、彼が纏っていた気怠げな空気が完全に消え去った。


周囲の喧騒が遠のき、湊の脳内で、法学部トップクラスの冷徹な理知と天才的な頭脳が、バラバラだったピースを恐ろしい速度で繋ぎ合わせていく。


(結菜が発狂した? 閉鎖病棟? 堂島専務が暗殺者を雇っている?)


(……あり得ない。ただの看護学生であるあいつが、親父のダミー会社の裏の処理係である『黒田』の名前を知っているはずがない )


それは、湊自身でさえ実家の極秘資料の奥深くに触れなければ知り得ない、最深部の闇の名前だ。


湊の瞳孔が、スッと細められた。


(幻覚じゃない。あいつの叫びは、妄想なんかじゃない。あいつは確実に、俺の実家の闇に接触したんだ)


彼女の行動原理は、いつだって一つしかなかった。

あの世話焼きで、お節介で、鬱陶しいほどに真っ直ぐな幼馴染が、あそこまで常軌を逸した行動に出る理由。


(あいつは、俺を救うために……俺の代わりに実家の闇を調べようとして、専務の差し金に脅されたか、あるいは……想像を絶するような恐怖を味わわされて、精神を壊されたんだ)


彼の中にある「結菜はタイムリープを繰り返している」という荒唐無稽な真実までは、今の湊には導き出せない。

しかし、「結菜が何らかの致命的な事件に巻き込まれ、自分のために動いて潰された」という論理的な帰結は、大企業の重圧から逃れるための唯一の安全地帯であった彼女の存在を、理不尽な暴力が蹂躙したという絶対的な事実を突きつけていた。

ガタッ、と。

湊は無言のまま、椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がった。


「え、湊くん? どこ行くの?」

状況が飲み込めず、向かいに座っていた先輩が甘ったるい香水の匂いを漂わせながら引き止めようと手を伸ばす 。

しかし、湊は一切の視線を向けず、絶対零度の声で冷酷に言い放った。


「どいて」

先輩がヒッと息を呑んで手を引っ込める。


湊は、呆然とする取り巻きの女子たちを完全に透過し、サヤカとミオの方へと向き直った。

その顔には、先ほどまでの「一切の隙もない、完璧で美しいリアル王子の営業スマイル」など微塵もなかった。


かつて、結菜の狭いアパートの四畳半で見せていた、獲物を狙う獣のような鋭く危険な瞳。大切なものを奪われた男の、純度百パーセントの殺意と激怒がそこにあった。


「案内しろ」湊は、低く、地鳴りのような声で二人に告げた。

「その閉鎖病棟のセキュリティ、俺が全部叩き割ってやる」


郊外へと向かうタクシーの車内。

 合成皮革のシートの匂いと、微かに染み付いた芳香剤の香りが充満する密室で、後部座席の空気はヒリヒリと張り詰めていた。


「……ちょっと桐生くん。さっきから黙ってるけど、結菜とは本当にただの幼馴染なの?」


助手席に座る湊の背中へ向けて、サヤカが身を乗り出して容赦のない尋問を浴びせた。

 隣でミオも、スマートフォンの画面で裏掲示板の情報を漁りながら、鋭い視線を投げかける。


「あんな地味で、いっつも課題に追われてるしっかり者の結菜が、あんたみたいな住む世界の違う大企業の御曹司と、どうやって繋がってんのよ。学食でわざと無視してたんでしょ」

「……」


湊は窓外を流れる初夏の夜景から視線を外し、ゆっくりと振り返った。

 その顔には、先ほどまで文系キャンパスで纏っていた『完璧な営業スマイル』や、誰も寄せ付けない防弾ガラスのようなオーラは完全に消え去っていた。


「……ただの、幼馴染だよ」


ひどく気怠げに、だが一切の嘘をごまかす気のない真顔で、湊はポツリとこぼした。


「でも、俺は結菜の作った飯を毎日食わせてもらってる。あいつの飯じゃないと味がしないから。……親が家にいない家庭環境だったから、昔から俺は結菜の家に入り浸ってたんだ」

「え……?」

「大学では、結菜の方から『知り合いだってバラさないで』って固く口止めされてたから、接触しなかっただけだ」


サヤカとミオは、完全に虚を突かれて顔を見合わせた。

 動く現代アート。誰も触れられない高嶺の花のリアル王子。

 その正体が、実は『生活能力が皆無で、結菜にご飯を作ってもらわないと生きていけない、手のかかるポンコツ男』だというあまりにも情けないカミングアウト。


「あんた、それ……結菜がいないと何もできないってことじゃない」

「そうだよ。あいつがいないと、俺は自分のスーツのクリーニングすら出せない」


呆れるサヤカの言葉を、湊は恥じる様子もなくあっさりと肯定した。

 だが、そのガラス玉のように色素の薄い瞳の奥には、彼がどれほどまでに結菜を『世界で唯一の帰る場所』として渇望し、大事にしているかが、痛いほどの熱量を持って渦巻いていた。


(……なんだ、この男)


サヤカとミオは、息を呑んだ。

 ダメ男極まりない発言なのに、彼の瞳に宿る純度百パーセントの執着と底知れない覚悟を見てしまえば、疑う余地などなかった。

 こいつなら、絶対に結菜を助け出してくれる。


「……病院に着くわよ。準備して」


ミオの声で、タクシーが郊外の巨大な精神病院の正門前へと滑り込んだ。


* * *


深夜の精神病院、閉鎖病棟。

 当然ながら面会謝絶であり、冷たい鉄格子と分厚い電子錠の扉が、部外者の侵入を冷酷に拒絶していた。


「面会時間外です。それに、第三病棟はご家族の方でも……」

「桐生グループの、桐生湊だ。今すぐそこを開けろ」


受付で立ちはだかる夜間警備員と当直の医師に対し、湊は自らが最も嫌悪する実家の『権力』を躊躇なく振りかざした。

 絶対零度の声と、大企業の跡取りとしての圧倒的な威圧感。大人たちが「桐生……!?」と狼狽し、顔色を変えてたじろぐ。


その隙を突き、ミオが背後でスマートフォンを高速でタップしながら囁いた。


「桐生くん、第三病棟の最奥……特別隔離室。監視カメラの死角は北側の廊下よ。夜間スタッフの巡回まで、あと三分!」

「上等だ。……電子錠のロック、俺が十秒で書き換える」


湊は受付のカウンターに自らのノートPCを乱暴に開き、インターフェースケーブルを院内の端末ポートに物理的に接続した。

 大人たちが制止する間もなく、彼の長い指が恐ろしい速度でキーボードを叩き、強固なはずの医療用セキュリティシステムを紙屑のように突破していく。


ピーッ、という電子音が鳴り、重厚な閉鎖病棟の扉がゆっくりと開け放たれた。


「行くぞ」


湊はノートPCを小脇に抱え、情報屋として完璧なナビゲートを続けるミオとサヤカを伴い、結菜が囚われている最奥の病室へと一直線に進んでいった。


* * *


無機質で、不気味なほど真っ白な病室。

 結菜は分厚い拘束衣を着せられ、硬いベッドに何重ものベルトで縛り付けられていた。


十数回のループ。

 惨殺を繰り返し、愛する男が目の前で肉塊に変わる光景を何度も見せつけられ、彼女の心は完全に壊れ果てていた。

 鉄格子の隙間から見える夜空を、焦点の合わない虚ろな目で見つめる。


(……これで、いい)


もう、戦わなくていい。

 この絶対的な孤独の中で、腐っていくだけだ。彼が死んでいくニュースを、ただここで待っていればいい。


――ガチャンッ。


その時、絶対に開くはずのない電子錠が、乱暴な音を立てて解除された。


「……」


結菜は、首だけをゆっくりとドアの方へ向けた。

 そこに立っていたのは、息を切らし、肩で風を切るようにして踏み込んできた、白シャツの長身。


「……みな、と?」


幻覚だ。

 薬を打たれすぎたせいで、都合のいい幻を見ているのだ。あんなに私を冷たく突き放そうとしていた彼が、こんな場所にいるはずがない。

 虚ろな瞳で呟く結菜に対し、湊は無言のまま大股でベッドへと歩み寄った。


そして。

 結菜の体を戒めている分厚い革のベルトやバックルを、素手で引きちぎらんばかりの恐ろしい力で乱暴に外し、ベッドから彼女の体を強引に引き剥がした。


「え……っ」


次の瞬間、結菜の小さな体は、折れんばかりの強い力で湊の腕の中にすっぽりと抱きしめられていた。


「……何勝手に諦めてんだよ」


耳元で、ひどく掠れた、怒りとも悲鳴ともつかない震える声が降ってくる。


「俺の帰る場所は、お前の隣だけだって……言っただろ」


背中を包み込む、彼の大きな手のひら。

 頬に触れる、シワの寄った白シャツの感触。

 そして何より、鼻腔をいっぱいに満たす、彼特有の古い紙とブラックコーヒーの苦い匂い。


幻覚じゃない。

 彼が、生きている彼が、私を助けに来てくれたのだ。


「ああ……っ、あ、あああぁぁぁっ……!」


完全に枯れ果てたと思っていた結菜の目から、堰を切ったように大粒の熱い涙が溢れ出した。

 拘束衣から抜け出した両腕で、彼の広い背中に狂ったようにしがみつき、子供のように声を上げて泣きじゃくる。


湊は、結菜の背中を何度も強く撫で、彼女の涙で自分のシャツが濡れるのも構わずに抱きしめ続けた。

 やがて、結菜の嗚咽が少しだけ落ち着いたのを見計らい、湊はそっと彼女の顔を上げさせた。

 その親指で、結菜の頬に伝わる涙を優しく拭う。


だが、そのガラス玉のような瞳に宿っていたのは、甘い優しさだけではない。

 結菜をこんな目に遭わせた者たちへの、絶対的な『殺意』が、静かに、そして業火のように燃え盛っていた。


「……お前が警察で叫んだ、『堂島専務』と『黒田』」


湊は、結菜の目を真っ直ぐに捉え、ひどく冷徹で、頼もしい共犯者の声で告げた。


「俺の命を狙ってる奴らのことだろ。……一人で抱え込むな。何があったのか、後で全部俺に教えろ」

「湊……っ」


完全に心が折れ、光を失っていた結菜の瞳に、再び強い意志の炎が灯り始める。


ふと、病室の入り口に視線をやると、そこには息を切らしたサヤカとミオが立っていた。

 二人は、ベッドの上で強く抱きしめ合う結菜と湊の姿を見て、ハッと息を呑み、そして顔を見合わせて優しく微笑んだ。


「……なんか、本当に物語の王子様みたいだね」

「うん。……今のうちらが出る幕じゃ、ないかもね」


サヤカが小さく呟き、ミオがそっと病室のドアを半分だけ閉めて、二人を外から見守るように背を向けた。


頼もしい情報屋の親友たち。

 そして、圧倒的な知能と権力で結菜を庇護する、天才ハッカーの王子様。

 すべてを失った地獄の底で、最強の『チーム結菜』が結成された瞬間だった。桐生グループの巨大な闇を根こそぎ叩き潰すための、最凶の反撃のループが、今ここから始まる。



無機質で真っ白な閉鎖病棟の特別室。


湊の生温かい体温と、微かに香る古い紙とコーヒーの匂いに包まれ、結菜はようやく自分が「現実」に引き戻されたことを理解した。


病室の入り口では、息を切らしたサヤカとミオが、安堵の涙を浮かべながら二人を見守っている。


「……結菜、本当に無事でよかった! うちらも、何でも手伝うから! 一緒にあいつらぶっ飛ばそうよ!」「そうだよ、裏掲示板のネットワークでも何でも使うから!」


鼻をすすりながら、力強く宣言してくれる親友たち。


その底抜けに温かい善意に触れた瞬間、結菜の脳裏に、凄惨な『過去』の記憶がフラッシュバックした。――あの薄暗い地下駐車場で、綺麗に塗られていたサヤカのピンク色のマニキュアが無惨に剥げ落ち、どろりとした赤黒い血に染まっていた光景。


――ミオがいつも買ってくれていた甘いココアの缶が、血の海を転がっていた光景。


「……ダメ」結菜の口から、ひどく掠れた、だが絶対的な拒絶の声が漏れた。


サヤカとミオが、ピタリと動きを止める。

「え……結菜?」


「帰って。……お願いだから、二人は普通の日常に帰って。もう、二度と私に関わらないで」


結菜は湊の腕の中から身をよじって振り向き、血の滲むような思いで親友たちを睨みつけた。


自分の「助けて」という一言が、ただの普通の女子大生だった彼女たちを地獄の底へ引きずり込み、肉塊に変えてしまったのだ。

あの圧倒的な罪悪感とトラウマが、結菜の精神を今も締め付けている。


「な、なんで……っ、うちら、親友じゃん!」

「……親友だからよ。あんたたちが傷つくところなんて、もう一秒たりとも見たくないの」


結菜の悲痛な叫びに、サヤカたちは言葉を失った。その時、結菜の背中を庇うようにして、湊がゆっくりと立ち上がった。


「……こいつの言う通りだ。お前らは帰れ」外で見せる「完璧な王子様」の営業スマイルなど微塵もない、絶対零度の声。


大企業の闇と血なまぐさい暗闘の世界に、これ以上一般人を巻き込むわけにはいかない。

湊は、結菜の抱える途方もない恐怖と覚悟をすべて察した上で、彼女の意志を冷酷なまでに尊重した。


「……ここまで案内してくれたことには、感謝する。だが、ここから先は俺と結菜、二人だけの盤面だ。……二度と、こいつの視界に入るな」


圧倒的な威圧感。それは、彼が忌み嫌っていた「桐生グループの跡取り」としての絶対的な権力者の顔だった。

サヤカとミオは、その尋常ではない気迫に圧倒され、後ずさる。そして、結菜の決意が絶対に覆らないことを悟り、唇を噛み締めながら病室を後にした。遠ざかる足音。病室に静寂が戻ると、結菜は糸が切れたようにその場に崩れ落ちそうになった。それを、湊の強靭な腕が下からガシリと抱き留める。


「……よく言った。お前はもう、誰も巻き込まなくていい」

「……湊、」

「で、どうする。警察に証拠のUSBを渡しても、専務の息がかかった警官にあっさりと握り潰されたんだろ 。高度情報処理センターの地下でハッキングを試みても、分厚い防弾ガラスの向こうで俺が蜂の巣にされて死んだ 。誰も知らない隣県の駅へ逃げようとしても、ホームで特急電車の前に突き落とされた 」


湊の天才的な頭脳は、結菜の断片的な証言から、これまでのループで『考え得るすべての生存ルートが潰されている』という絶望的な事実を完全に把握していた。


コソコソ逃げ隠れするゲリラ戦も、遠隔からの情報戦も、桐生グループの圧倒的な監視網と暴力の前ではすべてすり潰される。


「……逃げるのは、もうやめる」


結菜は、湊の白シャツの胸ぐらをきつく握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。完全に壊れきっていたはずのその瞳に、もう涙はない。あるのは、すべての退路を断たれた人間だけが持つ、純度百パーセントの狂気と殺意だった。


「本丸に行くわよ」

「……本丸?」


「桐生グループ本社ビル。その最上階。……堂島専務の目の前で、本社のコアシステムを物理的に完全に破壊して、あいつの息の根を直接止めるのよ」


遠隔からの攻撃が途中で物理的に遮断されるなら、元凶である専務の懐に直接飛び込むしかない。

夜間に裏口から忍び込めば、ただの不審者として私兵に処理される。ならば。


「あんたの『顔』を使うの。桐生湊っていう、絶対的な身分を」


結菜の言葉に、湊は短く息を吐き出し、喉の奥で低く笑った。


「……なるほど。白昼堂々、正面玄関から『次期社長』として乗り込めば、末端の警備員や社員は俺に指一本触れられない。暗殺者たちも、大勢の社員の目がある白昼の本社ロビーでは、手出しのしようがないってわけか」

「ええ。専務である堂島は、お父さんの右腕として会社を牛耳っている 。でも、肩書きの『血筋』で言えば、あんたの方が上よ。……あんたの絶対的な権力(顔パス)を盾にして、最上階まで一気に突き進む」


「イカれてるな。だが……悪くない」


湊は、結菜の背中に回した腕にギリッと力を込めた。


「俺の命も、桐生の権力も、全部お前の好きに使え。……その代わり、道案内は任せたぞ、指揮官殿」



* * *



翌日。

白昼の都心。突き抜けるような初夏の青空に向かってそびえ立つ、総ガラス張りの巨大な高層ビル。

桐生グループ本社。


自動ドアが開き、空調の効きすぎた冷たい空気が、ロビーの大理石の床を滑るように流れてくる。その広大なエントランスに、二人の影が足を踏み入れた。

コツ、コツ。上質な革靴が、大理石を叩く冷徹な音が響く。無地の白シャツに、細身の黒いスラックス。

その上に、最高級の仕立ての漆黒のジャケットを羽織った桐生湊。


そしてその斜め後ろを、鋭い猛禽類のような目で周囲を警戒する結菜が影のようにピタリと追随している。


「……な、なんだあれ」

「おい、あの方って……桐生社長の……」


すれ違う社員たちが、次々と足を止め、息を呑んで道を譲る。

普段の気怠げでだらしない姿は微塵もない。大企業の跡取りとしての重圧を完璧に纏い、人を小馬鹿にしたような冷酷な伏し目で前だけを見据えるその姿は、まさに絶対的な支配者そのものだった。


「お待ちください! アポのない方は……っ!」


セキュリティゲートの前で、数人の屈強な警備員が慌てて立ちはだかる。しかし、湊は歩みを一歩も緩めず、冷え切ったガラス玉のような瞳で警備員たちを射抜いた。


「どけ。俺の顔を知らないとは言わせないぞ」絶対零度の声。


「次期社長」という圧倒的な血の権力の前では、末端の警備員など無力だ。


彼らが「し、しかし……」と怯み、無線機を握る手が止まったその一瞬の隙を突き、湊と結菜はセキュリティゲートを強行突破した。


(……来る!)


結菜の脳内レーダーが、強烈な警告音を鳴らした。

十数回のループで体に刻み込まれた、死の記憶。エレベーターホールへ向かう通路の死角、観葉植物の陰から、不自然に膨らんだスーツを着た男が飛び出してくる。


専務が社内に配置している私兵だ。

「湊、右の柱の陰!」

「了解」


結菜の的確な指示。湊は立ち止まることなく、歩く軌道を僅かに左へずらす。

私兵が懐に手を伸ばして接触しようとした瞬間、湊は冷酷にその男を睨みつけ、すれ違いざまに肩を激しくぶつけて弾き飛ばした。


「俺の体に気安く触れるな。」


周囲には、何十人もの一般社員の目がある。白昼堂々の本社ビルで、「次期社長」に直接的な暴力を振るうことなど、いくら専務の私兵でも不可能だ。

男が体勢を崩して舌打ちをする横を、二人は無傷で通り抜ける。


「……結菜、次だ。エレベーターはどれを使う」

「中央の役員専用エレベーターはダメ。前回のループで、ワイヤーに細工がしてあるのを見た。……左端の、貨物搬入用を使うわよ」


逃げる・隠れるを完全に捨て去った、狂気の正面突破。

湊の絶対的な身分の盾と、結菜の『死の記憶』。この最強の矛と盾が組み合わさった時、桐生グループの誇る鉄壁のセキュリティは、紙細工のように次々と破られていく。


「……さあ、行くわよ。堂島専務のところへ」


貨物用エレベーターの冷たいステンレスの箱の中。上昇を告げるGを感じながら、結菜は湊のジャケットの裾をきつく握りしめた。もう誰も死なせない。この手で、すべての元凶の息の根を止める。最上階へ向けて、二人の反撃の狼煙が、今、決定的に上がった。

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