13
深夜二時。理工学キャンパスを包む湿った空気には、刈り取られたばかりの夏草の匂いと、微かな機械油の香りが混じっていた。
三十日間。湊が四畳半の密室で、外界との接触を断ち切ってキーボードを叩き続けている間。結菜はただ黙って彼の背中を守っていたわけではない。
かつて、あの騒がしいカラオケボックスでミオが得意げに見せてくれた「監視カメラの死角マップ」と「職員専用の裏ルート」。その解像度の低い記憶だけを頼りに、結菜は夜な夜なこのキャンパスへ忍び込み、自らの足で実地調査を繰り返してきた。
サヤカたちの温かいLINEをブロックし、一切の助けを拒絶した代償。それは、睡眠時間を削り、警備員の懐中電灯が描く放物線の秒数を数え、コンクリートの壁に身を潜める孤独な孤独な『戦争』の時間だった。
校舎の裏手。黒い服に身を包んだ結菜の手には、アパートの工具箱から持ち出した重い鉄製のレンチが握られている。ずっしりとしたその冷たさが、今の結菜には何よりも心強かった。
「……ストップ」
高度情報処理センターへ続く渡り廊下の手前。結菜が低く鋭い声で囁き、湊の胸元を片手で制して暗がりへと押し留める。
結菜の視線の先。そこには、壁の角に設置された真新しい防犯カメラがあった。ミオの古いマップには存在しなかった、最近増設されたイレギュラーな障害。
「結菜、あれは俺がスマホからローカルに侵入して映像をループさせる。三分待て」
「三分も待てない。……システムに痕跡が残る」
言うが早いか、結菜は渡り廊下の縁に音もなく飛び乗り、カメラの真下へと身を翻した。
「おい、結菜……!」
湊の制止を無視し、結菜は躊躇なく右手のレンチを振り上げた。
――ガキィッ!!
静寂を切り裂く鈍い破壊音。火花が散り、砕け散ったレンズの破片がパラパラと結菜の頬を掠める。首をへし折られたようにだらりと垂れ下がるカメラを冷たく見下ろし、結菜は顔に飛んだガラス片を拭いもせず、振り返った。
「走るわよ」
かつて「ただの世話焼きの幼馴染」だった彼女はもういない。湊を死地から救い出すためなら、物理的な破壊も、ましてやそれ以上のことも躊躇わない。その目は、獲物を仕留める直前の飢えた猛獣のように鋭く、凪いでいた。
* * *
センターの地下へ続く、窓のない無機質な階段。
二人が息を潜めて下っていくと、下層からコツ、コツという規則的な足音と、壁を這うような懐中電灯の光が近づいてきた。
(……ズレてる)
結菜の脳内時計が警告を発する。この三十日間で計算し尽くした巡回ルートから、わずか数分のズレ。
逃げ場のない一直線の階段。このままでは確実に鉢合わせる。
その瞬間、結菜の瞳にドス黒い殺意が宿った。
彼女は背中に庇っていた湊の前に音もなく進み出ると、レンチを握る手にギリッと力を込め、暗がりの中で身を屈めた。
(ここで見つかったら、すべてが終わる。……なら、気絶させるしかない)
近づいてくるのは、専務の暗殺者ではない。家族の写真を財布に忍ばせているような、何の罪もないただの大学の警備員だ。
だが、今の結菜にとって、湊の命を脅かす障害はすべて等しく排除の対象だった。結菜は、引き返せない一線を完全に越えようとしていた。
光が階段を照らし出し、男の影が壁に長く伸びる。
結菜が暗闇から飛び出そうとした、その刹那。
――ガシッ。
背後から、湊の大きな手が結菜の手首を、折れそうなほど力強く掴んだ。
「……湊?」
振り返った結菜の目に映ったのは、いつもの冷徹なハッカーの顔ではなかった。
湊は暗闇の中で、ひどく悲痛な、今にも泣き出しそうなほど歪んだ瞳で結菜を見つめていた。
(……やめろ。俺のために、お前を人殺しにはさせない)
言葉にならない彼の叫びが、繋がれた手首から伝わってくる。
湊は結菜を無理やり自分の腕の中に引き寄せ、踊り場の深い暗がりへとその小さな体を隠した。
と同時に、彼の手から小さなコインが放物線を描き、下の階の廊下の奥へと転がっていく。
チリン、という澄んだ金属音。
「……ん? 誰かいるのか?」
警備員の足音と光が、階段を上るのをやめ、廊下の奥へと吸い寄せられていく。
その隙を突き、湊は結菜の手首を引いたまま、音もなく階段を駆け下りた。
深夜の地下通路。 警備員の足音が完全に遠ざかり、一時的な安全圏へ駆け込んだ瞬間だった。
三十日間、極限の緊張の中で一人夜のキャンパスを這いずり回り、睡眠を削り続けてきた結菜の体に、突如として限界のツケが回ってきた。
ガクッ、と。 膝から急激に力が抜け、結菜の体が硬いコンクリートの床へ真っ逆さまに傾く。
極度の疲労だけではない。地下特有の冷たく湿った空気と微かな排気ガスの匂いが、あの第三ループの『血の海に沈んだ地下駐車場』の記憶をフラッシュバックさせ、結菜の視界を赤黒く明滅させていたのだ。
(あ……倒れる)
握っていたレンチを取り落としそうになった、その刹那。
無言のまま、強靭な腕が結菜の腰をガシリと抱き留めた。
「……ッ」
湊だった。
彼は結菜の体が床に叩きつけられる寸前で、自分の体をクッションにするようにして下から抱き止めていた。
結菜は荒い息を吐きながら、ハッと顔を上げる。 暗闇の中、湊は何も言わなかった。
「大丈夫か」という気遣いの言葉すらない。結菜が自ら課した『情を移さない』『馴れ合いはしない』というルールを、彼もまた死ぬ気で守り抜いているからだ。
だが、結菜の腰を抱き留めるその腕の力は、骨が軋むほどに力強かった。 震える結菜の体重をすべて引き受け、絶対に倒れさせないという、強固な意志の表れ。
『俺がいる。お前一人で全部背負わなくていい』 言葉はない。
けれど、そのひどく熱い腕の力と、至近距離から伝わってくる彼の規則的な心臓の音が、結菜の脳内を侵食していた血の匂いを一瞬で打ち払った。
結菜がふらつきながらも自力で立ち上がったのを確認すると、湊はすぐに腕を離した。 そして再び無言のまま、今度は彼の方から結菜の背中を庇うように立ち位置を変え、地下の最深部へと歩みを進めた。
彼の大きな背中を見つめながら、結菜はレンチを握り直し、滲みそうになる涙を必死に奥歯で噛み殺してその後を追った。
深夜の地下通路。
湊は走りながらも、一度も結菜の手を離さなかった。
彼の大きな掌から伝わるのは、以前のループで求めていた甘い体温ではない。それは、自分のために「悪魔」になろうとする結菜を、この世に繋ぎ止めようとする必死の抵抗だった。
「……着いた」
地下最深部。結菜の言葉の先には、「高度情報処理センター・メインサーバールーム」と書かれた分厚い鋼鉄の扉が、威圧的に立ち塞がっていた。
空調の効きすぎた冷たい空気が、汗ばんだ結菜の首筋を撫でる。
結菜は荒い息を吐きながら振り返った。
「湊、あんたの出番よ。物理キーのロックを……」
結菜の言葉は、最後まで続かなかった。
薄暗い非常灯の下。湊のガラス玉のような瞳が、結菜の持つ「レンチを握りしめて白くうっ血した手」を、ひどく静かに見つめていたからだ。
「……湊?」
「……お前、さっき本気であの警備員を殴ろうとしただろ」
湊の声は、静かだった。だが、その冷え切った響きの奥には、結菜が自分のために人間性を捨てていくことへの、耐え難いほどの痛みが滲み出していた。
「……当たり前でしょ。あんたを守るためなら、私……」
「もういい」
湊は、結菜の手から強引にレンチを奪い取り、コンクリートの床に投げ捨てた。
ガランッ、と。ひどく冷たく、無機質な音が地下通路に反響する。
「もういいよ、結菜。……よくここまで、俺を連れてきてくれた」
湊は結菜の頭を不器用に一度だけ撫でると、ハッキングツールを接続したスマートフォンを取り出し、重い鋼鉄の扉のインターフェースへと繋いだ。
数秒後、プシュゥゥという圧縮空気の抜ける音と共に、分厚い扉がゆっくりと開け放たれる。
無数の巨大なサーバーラックが整然と並び、青白い光が規則的に明滅する、圧倒的なスケールの空間。そのさらに奥には、システム管理者用の「分厚い防音・防弾ガラスで覆われたセーフルーム」が見えた。
* * *
メイン端末の前に立ち、湊が持参したノートPCを接続する。
黒いコマンドプロンプトが滝のように流れ、全世界のネットワークと主要メディアの電波ジャック、そして専務の不正データのアップロードが同時に開始された。
画面の中央に、無機質なプログレスバーが表示される。
『送信中……10%……30%……』
順調に見えたその時。
背後の鋼鉄の扉の向こうから、破壊音と「コツ、コツ」という硬い金属プレートの足音が響き始めた。
(……来た。暗殺者……っ!)
結菜の心臓が、恐怖で跳ね上がる。
同時に、湊のPCからけたたましい警告音が鳴り響いた。
「チッ……敵の逆ハッキングだ。物理的に回線を切断しようとしてる」
湊は血走った目で画面を睨みつけ、両手でキーボードを恐ろしい速度で叩き始めた。彼がここで防壁を構築し続けなければ、送信は途中でストップしてしまう。
ドゴォォォォンッ!!
鋼鉄の扉が、プラスチックの玩具のように吹き飛ばされた。
硝煙の匂いと、強烈なミントタブレットの悪臭。サプレッサー付きの銃を構えた暗殺者たちが、無言でサーバールームへと雪崩れ込んでくる。
結菜が叫ぼうとした、その瞬間だった。
「……ッ、湊!?」
湊は結菜の腕を乱暴に掴み、背後にあるシステム管理者用の『セーフルーム』へと彼女を力任せに突き飛ばした。
床を転がった結菜が弾かれたように顔を上げた時、分厚い防音・防弾ガラスの扉が、重々しい音を立てて閉まりかけていた。
その、扉が完全に閉ざされるコンマ一秒前の、わずかな隙間。 外の世界から、普段の気怠げな彼からは想像もつかない、感情を剥き出しにした必死の絶叫が滑り込んできた。
「生きろッ、結菜ァッ!!」
鼓膜を震わせたその『生声』は、大企業の跡取りでも、冷徹なハッカーでもない、ただ一人の愛する人間を失うことを何よりも恐れた、彼自身の魂の叫びだった。
――ガシャンッ。 直後、外から物理ロックがかけられる重い音が響き、扉が完全に閉ざされた。
「……湊ッ!? 開けて、何して……ッ!!」 結菜は跳ね起き、分厚いガラスを狂ったように両手で叩き、絶叫した。
だが、完全な防音仕様のセーフルームには、外の凄まじい銃声も、自分の悲痛な叫び声も一切響かない。ただ、鼓膜を圧迫するような絶対的な『無音』だけが、結菜を包み込んでいた。
たった一秒前まで聞こえていた、彼の熱い生声。 それが今はもう、永遠に手の届かない遠い世界のものになってしまったかのように、恐ろしいほどの静寂が広がっている。
ガラスの向こう側。 湊は結菜に背を向けたまま、メイン端末の前に立ち塞がっていた。
――パスッ、プスッ。 くぐもった発砲音の微かな振動だけが、足元から伝わってくる。
押し寄せる暗殺者たちの銃弾が容赦なく湊の体を穿ち、無地の白シャツに次々と赤黒い花が咲いていく。
それでも、彼は倒れなかった。背中に無数の銃弾を浴びながら、血まみれの指でエンターキーを執念深く叩き続けていた。
やがて、巨大なモニターに「送信完了」の文字が点灯し、暗殺者たちが撤退していく。
膝から崩れ落ちそうになった湊が、ゆっくりと、防弾ガラス越しの結菜を振り返った。
白シャツは赤黒い血で重く染まり、口の端からもおびただしい量の鮮血が滴り落ちている。
結菜はガラスにすがりついたまま、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして首を横に振った。死なないで、置いていかないでと、無音の世界で泣き叫ぶ。
そんな結菜を見て、湊の血に染まった唇が、ゆっくりと弧を描いた。 それは、結菜だけが知っている不器用な顔でも、先ほど魂を震わせて叫んだ必死な顔でもなかった。
彼が心を許さない他人にだけ見せる、あの学食で周囲の女子を熱狂させていた『一切の隙もない、完璧で美しいリアル王子の営業スマイル』だった。
結菜には、痛いほど分かった。自分に死の恐怖や痛みを感じさせないために。彼女の心にこれ以上傷をつけないために。彼はあえて、結菜から一番遠い「完璧な王子様」の仮面を被って死んでいくのだと。
その残酷なまでの優しさが、結菜の精神をズタズタに引き裂き、嬲り殺していく。
防音ガラスに隔てられた無音の世界で。 崩れ落ちる寸前の湊の唇が、ゆっくりと動いた。音は聞こえない。
だが、結菜にはその言葉が、さっきの『生声』よりも鮮明に理解できた。
『ピーマン抜きの、ハンバーグ。……食いたかったな』
決して叶うことのない、あの四畳半での未来の約束。
その言葉を最期に、完璧な笑顔を浮かべていた湊の体は、糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、血の海に沈んだ。
彼の色素の薄い瞳が、静かに閉じられる。二度と、開くことはなかった。
* * *
プシューッ、という電子音と共に、セーフルームのロックが自動的に解除された。
結菜は転がり出るようにして、血の海と化したサーバールームの床に這いつくばった。
遠くから、無数の警察のサイレンが鳴り響いているのが聞こえる。全世界が桐生グループの巨悪を知り、警察もマスコミも一斉に動き出したのだ。大勝利のファンファーレ。
だが、結菜は血溜まりの中で、冷たくなっていく湊の骸をただきつく抱きしめた。
彼から漂う彼の温もりの匂いは、濃密な血の鉄の匂いに完全に掻き消されている。
「……あ、あ」 結菜の口から、乾いた笑い声のようなものが漏れた。
彼を縛り付けていた巨大な権力は崩壊した。サヤカたちを冷酷に突き放し、誰一人巻き込まずに、自分たちだけで復讐を果たした。
なのに、結菜の胸の中にあるのは、勝利の喜びなどではない。
臓器をすべて素手でえぐり取られたような、気が狂いそうなほどの『絶対的な空虚』だった。
結菜はふらふらと立ち上がり、血まみれの足取りで、高度情報処理センターの屋上へと向かった。
初夏の夜風が、血に濡れた服を冷たく揺らす。 フェンスに手をかけ、眼下を見下ろすと、大勝利に沸き、ネオンが眩しく瞬く世界が広がっていた。
今頃、世界中のネットワークとテレビ画面は、自分と湊が命を削って送信した専務たちの暴露データで埋め尽くされているはずだ。
(……お母さん、お父さん) ふと、最初のループで電話越しに自分のために泣いてくれた、優しい両親の顔が浮かぼうとした。
だが、その顔はひどく薄ぼんやりとしたノイズの奥へとすぐに掻き消されてしまった。
この数ヶ月の出来事が、あまりにも濃密すぎたのだ。 血の海の地下駐車場で親友たちが肉塊に変わったあの光景。
サヤカとミオに向けて、自ら血の涙を流しながら放った冷酷な絶交の言葉。
ピンク色のネオンが回る密室で、お互いの匂いを確かめ合うように抱き締め合った彼の体温。
そして先ほど、無音の防音ガラスの向こう側で、彼が自分を安心させるために浮かべた
あの完璧な王子様の笑顔。
それらの血と狂気と、狂おしいほどの愛の記憶が、それ以前の「普通の女子大生としての日常」や「親の無償の愛情」を、完全に上書きし、焼き尽くしてしまっていた。
(ごめんね、サヤカ、ミオ。……あんたたちは生きて、笑ってて)
地上数十メートルの虚空の縁に立ち、結菜は小さく呟いた。 自分が彼と導いたこの「正しい世界」で、親友たちは平和な明日を生きていける。
自分たちの戦いは、完全な勝利を収めたのだ。その結果を、世界がどう変わっていくのかを、この目で見届ける権利が結菜にはあった。 けれど、結菜にとってその輝かしい結果は、無価値なゴミ溜めと同義だった。
「……世界を救っても。あんたがいない世界で、私だけが生きてるなんて……絶対におかしい」
一番欲しかった彼の体温だけが、この世界のどこにもないのだから
(ピーマン抜きのハンバーグ……結局、一回も作れなかったな)
圧倒的な空虚を抱えたまま、結菜の虚ろな瞳から、光という光が完全に消え失せた。
「……待ってて、湊」
結菜は、世界で一番美しい王子様の後を追うように、自らその体を、底知れない夜の闇へと投げ出した。




