34.君が笑うから─(思慕)
──これ制服で行かないほうがいいわよねえ?
寮に急いで戻った私は、数少ない外出着の中から一番マシなのを手に取り、着替える。
うん。冬服買おう。
ヤバッ!
時間!
急いで靴に履き替え、指定場所に向かう。
こんな昼間に、しかも今日は平日。
皆はまだ授業を受けているのに。
オーデションを受ける人は、今日は公休日となっていた。
午後からオリエンテーションがある予定が……
先生の説明が3分で終わってしまったからだ。
高科先生がちょっと気の毒にも……
先生、早っ!
「お邪魔します?」
「おめでとう」
助手席に座った途端。
え?
ちょ、せ、せん、せい。
それは、いきなりの出来事だった。
こ、こんなところで……
もし誰かに見られたら。
ん─
塞がれた唇に割って入るように奥まで先生が激しくなる。
頭の中が真っ白になりかけた時、優しく耳元で囁いた。
「もう逃げるなよ」
「……はい」
いきなりに驚いた私は俯きながら小さな声で答えた。
何も無かったような顔をして、顔色一つ変えずにサングラスを手にし、綺麗な長い指で髪を掻上げながら瞳を覆い掛ける姿は、ズルいぐらい格好良く見えた。
「好き?」
「……それ今更いるか?」
「言って欲しいもん」
「今度ベッドの中でな?」
「ぇ?」
「籍入れるまで待てってか?」
「⋯⋯」
「待ってやるよ、なら」
「ぇ?」
それって⋯⋯
今、籍いれるって言った?
え?
え? 本当に?
え?
その後のって……
驚き過ぎて、良く聞き取れなかったけれど……
それって……
「まあ、取り敢えずは卒業しなさい。今は襲わないって誓います。だから安心しろ」
「襲うって……」
「だから、しないって」
「いや、そうじゃなくてですねぇ……」
「何だよ? ちゃんと待つって言ったろ」
「いや、そうじゃなくて。待たなくても良いといいますか……何と申し上げたら良いのでしょうか……」
「ハハハハッ。阿呆かお前。自分から安売りする女が何処にいるんだよ。卒業するまでは抱きません」
「……ごめんなさい。じゃあ卒業したら良いんですか?」
先生の顔を見る。
笑っていた先生の顔が少しだけ真面目な顔に変わる。
「そこは重視してないから。焦る必要ないよ。まぁ俺が我慢出来なくなれば、分からんけどな?」
先生が? 我慢出来なくなることなんてあるの?
「ちゃんと心が大人になるまで待つから」
先生が優しく頭を撫でた。
その手が愛しいのと、私が先生の全てを欲しいと想う気持ちが溢れ出す。
手が離れた瞬間、先生の顔を見上げる。
「運転中」
「……すいません」
「何処でそんなことを覚えてきたのか」
サングラスを外し、突然覆われるように先生の顔が近づいた。
軽く触れた唇に縋るように、先生の頬に手を添え、自分から再び押しあてた。
──プップッーー
時間切れの合図と共に、先生が逃げていく。
「飯食いに行くぞ」
「……はい」
微妙な空気に包まれた車内に、私はほんの少し居心地の悪さを感じていた。
「知ってるか? 俺が欲情する瞬間って、お前のゾクゾクした音を聴いた時だよ」
ちょっとだけ意地悪な顔をして笑う先生に、悔しいけれどその顔が優しすぎて怒れなかった。
「それズルいです……」
「俺、お前に全財産掛けてるんだぞ? 頼むぞソリスト様」
「ぇ? ええぇえええ?」
笑いながら今サラリと、とんでもないこと言いませんでしたか?
「う、嘘ですよね?」
何も答えない先生の顔を見て、驚愕した。
「まぁ、転けたら学院の講師に雇って貰うから、お前一人ぐらいなら養ってやるよ」
「う、嘘ですよねえ?」
「良い音を出すことだけに集中すれば良いよ。それ以上は何も考えるな」
「もしかして、それって私、責任重大?」
驚愕な事実を聞いて、そんな重大な役目を私みたいなド素人で大丈夫なのかと? 不安になる。
「寿司でいいか?」
「へ?」
「嫌なのか?」
「あ、いえ。そのようなことは」
えっと? 今、寿司より大事な話しをしてませんでした? 私達って?
◇
回らないお寿司屋さん初めて来たかも。
これ値段って書いてないの?
店内を見渡すがメニューが何処にも無い。
これどうやって注文するの?
先生の顔を見る。
「好きなの言えばいいよ」
「ぇ? へ?」
「食えないのないんだよな?」
「はい。御座いません」
「重乃さん、適当に任せるわ」
「分かりました」
何ですかこれ!
目の前に並んだ高級鮮魚の競演。
「食えよ?」
「は、はい。頂きます」
お、おいしぃいいいい!!
神が召し上がる食事は、このような美味なるものなのですね!
このような高貴なものが、この世にあることを知り得ただけで、私はもう本望でございます。
先生普通に食べてますが、神って寿司も食べるのですね。
御神 教本に付け足す必要が御座いますね。
「毎回思うけど、何で飯食うときそんな顔になるんだよ?」
「ぇ? 変な顔してますか?」
は、恥ずかしい……
顔に出てたなんて。
「ところで先生いつ戻るんですか? って今度何処に?」
「明日。フランスで公演したら、その後少し時間空くと思うから来月かな?」
「クリスマスは?」
「音楽家にクリスマスと年末に休みがあると思うか?」
「そっか……」
一年で一番忙しい時期ですよね……
「前になんとかするから。それで我慢しろ」
「本当ですか?」
「俺ってそんなに信用ないか?」
今まで先生が約束破ったことってそういえば……
一回だけ伸びたことはあったけれど。
それ以外は全て守ってくれていた?
う、嘘!
それって、もしかしてもの凄く貴重なことでは?
上着の内ポケットから何やら? スマホを取り出して私の目の前に置いた。
?
これって? スケジュール?
「見ても?」
何も答えることはなかったが、恐る恐る手に取る。
「ぇ? 嘘!!」
分刻みでぎっしり埋まっているカレンダーを見て固まった。
「先生っていつ寝ているんですか?」
「移動中」
「ぇ? それ以外は?」
「長く記憶がないわ。布団の上で寝たのいつだろ」
「帰って寝ます?」
ある程度は予想していたが、こんなにも詰め込まれているとは思っても見なかった。
それなのに、こうしてわざわざ。
そんな先生を私は裏切った。
「三月まではな。受けた仕事は仕方ないから」
「ごめんなさい……」
「それまで頑張れるか?」
「はい! 今度こそ逃げないって約束します!」
「頼むぞ。勘弁しろよ? 今度やったら本当に切るからな?」
苦笑いする先生の顔に、私は怒られるかもしれないけれど嬉しかった。
ちゃんと心配してくれたことに。そんな酷いことはもう二度としない。
こんなにも大事にしてくれている人に。
「何処か行きたいところあるのか? このあと」
「あ、冬服を少し……あ、でもお休みの日に一人で行くんで大丈夫です!」
「出るぞ」
「はい」




