32.鬼の復活
久しぶりに帰って来た自分の部屋を見渡す。
何も変わっていない。
でも一つだけ以前と明らかに変わったことがある。
今も残る先生の吐息と、仄かに香るタバコの匂いとムスクの薫りが入り混じった大人の香り。
頬が熱くなるのを感じ、洗面所に向かう。
う、嘘……
首筋に残る先生が残した印。
恥ずかしさより嬉しさが勝っていた。
テーブルに置いた封筒を眺める。
勉強しなきゃ……
「む、無理だ……わかんなあああい! 数学無理! 英語むりいい!!」
最悪だ……
◇
「嘘……あのまま寝てしまった。最悪!」
自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。
久しぶりにジャージに急いで着替えた。
今まで何ヶ月もサボっていたカリキュラムをまた一から頑張らないと……
「ぜぇ。はぁ、ぜぇハァ。し、死ねる……よく私これやってたわね……」
膝がプルプル震える感覚。
懐かしいようなこの感覚に、自然と私は笑っていた。
もう逃げない。
絶対に。
◇
「お、おはよぅござぃますぅ?」
職員室に向かい、高科先生か天野先生を探す。
「高科先生ならご自分の部屋にいらしたわよ?」
「有難う御座います!」
確か、声楽科の先生よねえ? 何で私のことが分かったんだろう?
まぁいっか。
「おはよぅございます?」
──ガラガラ
「おかえり」
高科先生!
「ごめんなさい! 先生!」
思わず走って先生に飛びつこうとした瞬間、声がした。
「ごめんなさいじゃないわ! どれだけ心配したと思ってるんだよ!」
「天野……無事帰って来たんだから、もう良いじゃないか。ちゃんと反省してるんだろ? 桜井も?」
「いえ、天野先生の言う通りです。本当にすいませんでした」
二人に私は深々と頭を下げた。
こんなにも私のことを心配してくれた人がいたと言うのに……
本当に自分は酷いことをしたんだと、改めて実感した。
「あの……本当に厚かましい話しなんですが……天野先生って数学得意だったりします?」
「は?」
「……やっぱり無理ですよねぇ」
やっぱり音楽の先生だしなぁ。
「誰が無理って言った?」
「え?」
「桜井知らなかったのか? 天野は元々国立医学部だよ」
「ぇえええええええええ?」
「お前驚き過ぎだろう……」
「何でそんな御方が音楽に? ジュリアノですよねえ?」
「ずっと本当は音大に行きたかったのに、親の言うことを聞いて医大受けたけど、結局半年で止めてジュリアノ受け直した」
凄すぎる。医大捨てて音楽って……
かっこ良すぎじゃないですか!!
「あ! だから先生が、天野が待ってるぞって言ったのか!!」
「はぁ? 御神先生本当に俺らタダで使いすぎでしょう!」
「残業代請求します?」
「おう! たんまり請求してくれ!!」
◇
「だから何回言ったらわかるの? 因数分解ってこれ1年のでしょう斜めに掛けるんだって!」
「……」
「次こっち!」
「は、はい……」
天野先生怖!
恐怖の天野塾で午前が終わってしまった……
「これ宿題ね。今日の復習分。明日までに全部やること!」
「嘘ですよねぇ? 無理ですよねえ? これ一人で?」
「黙らっしゃい!」
「ひぃいい」
──ガラガラッ
「お? いい感じに絞られたぽいねえ」
「高科せんせいいいいいいいいい!!」
「これ、カプリースの楽譜ね」
「あとパッセージの練習用の教本」
「13時にレッスン室取ったから、読譜なくていきなりでカプリースならいけるでしょ?」
「ぇ? あのですねぇ面接で弾いて以来ですね、一回もですね……」
「だったら、昼ご飯食べながら読譜しときなさいね。13時に会いましょう!」
鬼過ぎる……
ヤバイ! 昼ご飯の時間!!
学食って12時過ぎたら人増えるんだった!
今までのスローライフが……ガラガラと崩れて行った。
怠け過ぎた数ヶ月のツケが、今反動のように返ってきている。
「あら? 桜井さんじゃない? 体調もう良くなったの? 長く見なかったから心配してたのよ?」
「白井さん?」
「恭子で良いわよ。此処座って良いかしら?」
「あ、はい」
「カプリース?」
「あ、はい……昼からレッスンなんです」
「オーデションの?」
「一応……」
「そう……」
言わない方が良かったかしら?
そうよねぇ。直接高科先生に課題曲を指導して貰えるんですもの。
そんな恵まれた環境の人って沢山はいないわよねぇ。
本来、課題曲は自己練習だもの……
「お互い頑張りましょうね」
「ぇ?」
「私もビオラで受けるのよ。私は、家路を選択したの」
「ああ! そうなんですね!」
私も家路が良かったんですけどね本当は。
鬼が勝手に決めてしまってですね。
とは、流石に言えなかった。
──ヴゥーヴゥウーヴゥー
「あ、ごめんなさい電話かも!」
『神様』
私は咄嗟に席を立ち、急いで通話ボタンを押す。
『ちゃんとサボらずに、学校行ったか?』
『はい!』
『どうだ? 久しぶりの学校は』
『死にかけてます。朝から数学2時間、英語2時間』
『天野か?』
『怖すぎです……』
『お前が悪い』
『そうですけど……』
『プレゼント届いたか?』
『え? 何のですか?』
『クロイツァー』
『あれ先生の指示だったんですか? さっき高科先生が』
『シュラだけだとなぁ』
『42曲あるから一日10曲でまあいいや。残りはオマケしてやるよ』
『は? あれって毎日少しづつするんじゃないんですか?』
『三日しかないしな。で、カプリースは? 進んだのか?』
『聞いてました? 話し? 朝4時間数学と英語で潰れてます!』
『で?』
『ぇ?』
『お前やる気あんのかよ?』
『……頑張ります!』
『昼からのレッスン動画送って来い』
『見てくれるんですか?』
『言うなよ』
『大好き!』
『阿呆』
『じゃあな。そろそろ休憩終わる』
『せんせ? 好き?』
『受かるまでは言いません』
『酷いですううううううう。ケチぃ』
『切るぞもう』
『はい……』
受かったら言ってくれるってことかなぁ?
がんばろっと!
バイオリンより、数学と英語だわ……
こっちの方が泣きそう……




