30.追憶
田園風景が続く田舎町に、不釣り合いとも思える漆黒の大きな高級車が、小さな古ぼけた喫茶店前に静かに停車した。
中から黒いスーツを着た男性二人に囲まれるようにして、初老の男が車から降り立つ。
「会長、足下にお気を付け下さい」
黒スーツの若い男が、手を差し出す。
舗装もしていない砂利と土の空き地に立った立派な身なりの男は、その手を払いのけた。
「外で待っていろ」
初老の男は、一人で喫茶店のドアノブに手を掛け、中に入る。
「いらっしゃいませ~~ どうぞ此方に」
恰幅の良い朗らかな女性が声を掛けてきた。
「いや、此方でお世話になっている? 娘の家の者でして。この度は娘が大変迷惑を掛けていると聞きまして。本日はそのお詫びとお礼に参りました」
男の名は、御神 幸造。日本でも有数な大企業グループの総帥を務める男。
百貨店から鉄道、学校や音楽ホール以外にも数多くの事業を国内だけではなく海外にも展開している大企業のトップである男が、小さな田舎町にプライベートで訪れたこと自体も驚くべき行動だったが、それ以上に驚いたのは、この小さな喫茶店主の夫婦に深々と頭を下げたことだった。
「つまらない物では御座いますが私の好物で、是非にと思いまして。して娘は何方に今?」
「あ、花音ちゃんかい? 娘さんかい? 良い子だねえ。今日は老人ホームへボランティアに行っているよ」
「そうでしたか。実は恥ずかしい話しで親子喧嘩でして。ご迷惑とは思いますが、もう少しだけ置いてやって頂けませんか? 必ずもう少ししたら迎えに来ると約束しますから。一応これが私の連絡先です」
『Mikami-co.ltd. ceo. mikami kohzoh 御神グループ会長 御神 幸造』
花音の父親と聞き、厨房から店主の男も出てきていた。
娘を放置して連絡すらよこして来ない親がもし現れたら、殴ってやろうと思っていたからだ。
父と名乗った男の存在があまりにも大きすぎたことに、店主夫妻は驚いた。
渡された名刺の一番下に書かれていた名前。一度は耳にしたことがある有名企業の名前だった。
「挨拶が遅れて大変申し訳ございませんでした。四方手を尽くしやっと此方様を探し当てた次第でして。その上厚かましいお願いで。もう暫くだけ此方に置いてやって頂けないでしょうか?」
男は再度、深々と二人に頭を下げた。
「あ、頭を上げて下さい!」
「元々うちで引き取っても良いと思ってたんですよ? ねぇアンタ?」
「ああ、御神さん? 何があったかは知らないが、俺達はあの子を放り出したりはしないから安心しな? あの子が家に帰りたいと言うまではうちで責任持って預かるって約束するよ」
「有り難う御座います。ただ、本日此方に私が来たことは娘には内緒にして頂きたく」
「訳ありってことだな? 分かったよ。あそこの道を真っ直ぐ行ったところに赤い屋根の老人ホームがあって、そこで今日はバイオリンを披露しているはずさ」
「有り難う御座います。では突然申し訳ございませんでした」
男が去った後、店主夫婦は「手土産」として男が持って来た菓子折の重さに驚き、急いで中を改めた。
丁寧な達筆の礼状と厚めな封筒。机に立ち上がる程の量に二人は驚愕した。
「あ、アンタこれ……」
「あの子が家に帰る時にバイト代として渡してやろう」
◇
黒塗りの大きな高級車は、次の目的地へと向かっていた。
「会長そろそろお時間が」
「構わぬ。先方に連絡しとけ」
黒スーツの男の制止を振り切って、待つことなく自分で車のドアを開けたかと思うと、スタスタと目標に向け一直線に歩いて行く男。
何処かに似た男がもう一人。
見た目は母の方にそっくりではあったが、やはり紛れもなく親子であった。
後を急いで走って追いかけて行く二人の男性の姿は、Mカンパニーのマネージャーの男と、偶然にも? そっくりな雰囲気の男達であった。
「お邪魔して宜しいかな?」
「あら? 初めてですか? はじめまして桜井 花音です。此方でたまにこうして弾かして貰っています。バイオリンがお好きなんですか?」
「リクエストを一曲お願いしても良いかな? お嬢さん?」
「私が弾ける曲でしたら喜んで?」
「チャイコフスキーの花のワルツをお願いしても宜しいかな? 思い出の曲でして」
花のワルツ……
選りに選って……今一番弾きたくなかった曲。
男性の顔を見ると、柔らかな優しい顔。
何故か忘れたはず? の先生の顔が脳裏に浮かぶ。
先生と一緒に演奏した最後の舞台の思い出の曲。
私にとって一生大切な宝の曲。
その曲を、思い出の曲と言ったこの男性の願いを叶えてあげることが、今の私に出来るのだろうか?
「音楽に身分も国籍も性別も関係ない。世界で唯一の共通語だ」
先生の言葉を思い出す。
音に私の理由や背景なんか関係ない。
偉大なる先輩違が残してくれた宝物を演奏できることに感謝しないとね。
御神 貴志の舞台で毎回最初に行われる儀式とも言われる行動。
指揮台に立ち、天井を仰ぎ敬意を払ってから始まるステージ。
奏でさせて戴いていることへの敬意として、誠心誠意を込めて演奏する。
それが先生のスタイルだ。
断る理由なんてなかった。
「では次は、花のワルツをお届けしますね」
「なるほどな。貴志が本気になるのが分かるな。まるで貴子に会っているようだ」
男は明るい曲調には似合わない涙を流していた。
彼にとって、それは決して許される愛ではなかった。
まだ専務時代だった頃、長期でアメリカに出張に行っていた時、ふらりと入った酒場でピアノを弾いていた日系の女性。
一人孤独の中で任された仕事の重圧さと、御神を継ぐ者の不安さから酒に逃げた夜、優しく寄り添うように奏でるピアノの音に男は流されるように酔いしれた。
一夜の過ちで終わるはずだった。
それが……
一人で黙って育てようと決意していた女は、余命1年と宣告された時、小さな息子の顔を見て彼の将来の為、父親の男に初めて連絡したのだった。
「おじさん? 大丈夫ですか? ごめんなさい私下手くそで……」
娘がしきりに謝ってくる姿に男は涙を拭き、精一杯微笑んだ。
「いや、とても良い演奏だった。すまないね当時を思い出してしまって。今日はとても良い日になった。君のおかげであの頃に戻れたよ。感動したよ有り難う」
涙を拭きながら、握手を求めてきた男性の手を握る。
音楽ってこういうことなんだ。
誰かの思い出にも帰れて、誰かの希望にもなれて、言葉が通じなくても「音」でその瞬間は繋がることができる世界。
奏でる機会を与えてくれた先生に改めて感謝した。
それなのに私は……




