28.革命のエチュード
夏の眩しい陽が差し込む中、汗の音さえ響くのでは? と思うぐらい張り詰めた長い沈黙が続く中、天野は押し寄せる不安のあまり、ついに言葉を発した。
「大丈夫ですよね? 桜井」
大丈夫だ。の言葉が欲しくて、先輩の男に縋るような目で聞いた。
「どうだろうねぇ。流石に今回はなぁ」
──バシッ
貴志とは違って冷静で温和、あまり他人の行動に関わらない天野が初めて感情を露わにし、新聞を投げつけた。
その思いは、俺も天野と同じだった。
何故そこまでする必要が?
それなら信じられる「何か」を与えてやってからでも良かったのでは?
腹立たしい気持ちと、奴なりの愛し方が悲恋過ぎて何とも言えない気持ちに高科はなっていた。
「これからが、本当の正念場だ。天野くん頼んだよ?」
「高科先生こそ、ちゃんと見張ってて下さいよ?」
「高科先生……いや。何でもないです」
「ん? 何だよ? 言えよ気持ち悪い。天野」
天野の表情が強張り、その瞼が小刻みに震えている。
「大丈夫ですよね? 消えたり……あ、いや。何でもない」
天野が真夏でも半袖を着ない理由。
彼の手首にあった薄い傷跡。
幸い音楽の神様は彼から音楽を取り上げることはしなかった。
天野の言葉に俺は胸騒ぎがして、急いで教室を出る。
「寮見てくる!」
「講堂見てきます!」
◇
あの場所で、あのままいることに息が出来なくなり逃げ出した。
気づけば行く当てもなく、何故か電車に飛び乗っていた。
きっとあそこにいれば、嫌でも連日目にする先生の名前と、その側に立つことを許された女性の名前。
その現実から私は逃げたかった。
「何処だろう? ここ?」
ふと車窓から見える景色に、何故か私は笑っていた。
「夢の時間を経験できただけで、私は幸せな子よね」
先生から貰った金のピアスを外す。
投げ捨てようと窓を開けるが、無情にも窓がほんのすこし下部だけしか開かなかった。
「先生の馬鹿……」
止めどなく流れてくる涙を拭かなくても良い。
誰の目も気にすることなく泣ける自由に、私は感謝した。
車窓から飛び込んでくる景色の壮大さに、笑ってしまった。
どこまでも続く青空と、ずっと続く田園風景。
他に何もない。そしてその景色はまだ変わらない。
それでも鳥は生きていて、大空を誇らし気に舞っている。
人が勝手に創った「嫉妬」や「妬み」や「挫折」の世界。
そんなものが関係しない大きな世界で自由に舞う鳥の姿を見て、自然と頬に先程とは違う涙が零れていた。
「もう一度、音楽が好きだったあの頃。「音」を聴くだけでお腹いっぱいになり、嫌なことも悲しいことも全て忘れられたあの頃に戻って見ようかな」
恵まれ過ぎていた環境で「才能」の競演を見ることが「当たり前」に何処かでなっていた。
でも、私が好きになった「音楽」は「競争」でも「嫉妬」でも「比較」でもない。
ただ美しい「音」に惹かれたからだ。
御神 貴志が紡ぐ「音」の世界に囚われたからだ。
大好きな先生の「音」まで消し忘れてしまいそうになった愚かな自分に笑っていた。
座席横に置いた黒いケースを眺める。
何も持たずにただ逃げるように出て来たはずが、何故かこのバイオリンだけを抱えていたことに笑った。
もっと持って来るものは他に沢山あったのにね。
気づけばバイオリンと、先生から預けられたスマホだけを手にしていた。
「馬鹿な私」
◇
「いたか?」
「いや、校内全て探したけれど、いません。学長には?」
天野が息を切らせながら、不安そうな目で俺を見る。
「さっき連絡した」
「御神先生には?」
「ずっと電話しているけど繋がらない。メールもしているけど」
「こんな時に限って……桜井は? 繋がったんですか?」
「いや、電源切れてるって……」
「馬鹿が……」
◇
「何だこの通知の量?」
<着信21件>
高科? 由紀も?
急ぎメールを見てみる。
『桜井が消えた。今朝の新聞で知って俺から説明したが、その後、終業式前に消えた。今、手分けして捜している最中だ。すまない──高科』
想定しなかったと言えば嘘になる。
その危険性がなかった訳ではないのに、俺は強引に踏み切った。
「何してるんだよ馬鹿が」
その言葉は彼女に向けたのか? 自分自身に向けたのか?
無情にも飛行機は、日本とは真逆に向かって飛んでいた。
何万キロも離れた上空で無事を祈ることしか出来ない自分に、憤りと焦る気持ちで暗闇を飛ぶ機体の窓を開け、あの日二人で見た空を思い出す。
『早急に一人、居場所を捜して欲しい。捜し出した後も動向を監視するように指示して欲しい』
御神の家に引き取られて以来、初めて戸籍上の「父」にメールをし、御神の力を頼った。
『珍しいな。お前から連絡してくるとは。名前は?』
返信の早さと、何も理由を聞いて来なかったことに驚いた。
『桜井 花音 音楽学校高等部』
『大事な人なのか?』
『はい』
『分かった』
「無事でいてくれ……」
悲痛な叫びとも言える願いが思わず声に漏れていたことに、男は気づいてすらなかった。
それから直ぐに、御神財閥によって日本中の捜索が行われたが、花音の姿を見つけることは、なかなか出来なかった。
時間だけが過ぎて行くことに焦りと不安が高まる中、貴志をはじめ皆が彼女の安否を心配し、眠れぬ夜を過ごしていた。
◇
捜索願いを? と、皆が考え出していた頃、貴志の元に数枚の画像が送られてきた。
「何処だこれ?」
小さな古ぼけた喫茶店で、老夫婦と一緒に笑っている少女の写真と、老人施設でバイオリンを弾いている姿の女性。
「やめてなかったんだな。バイオリン」
一緒に添付されている報告書を読む。
そこに書いてあった内容に、思わず笑っていた。
「あいつの厚かましさ凄いなハハハッ」
そこに書かれていた驚きの内容とは。
「~~夕方食事に行った際に、泊めて欲しいと老夫婦に懇願し、そのままこの老夫婦の元で現在は暮らしている様子」
老夫婦への礼状を認めながら、無事見つかったことへの安堵と彼女の強さに感謝した。
気づけば、母親が亡くなった知らせを受けた時以来、自然と頬に冷たいものが一筋流れていた。




