19.嵐の前の静けさ
──それからほんの数日後、本場ドイツの老舗メーカーより、一体が何十万もするクマのぬいぐるみが大量に「魔王」から花音宛てに国際宅急便が届いたのは言う間でもなかった。
送料だけでも、ゆうに花音が以前に買った中古のバイオリンの本来の値段を超えていた。
「流石にいくらなんでもこんなには……」
箱の中にぎっしり入った「高級クマのぬいぐるみ」の値段を知らない花音は高科の顔を見る。
「奴に金の使い方、誰か教えてやれよ」
数あるクマの中に混ざっていた、本場老舗のブランドメーカーオリジナルのぬいぐるみ。それ一体で音楽学校の一般的な教員の給料の数ヶ月分に相当する値段であった。
高科は箱の中に「他と同じように」突っ込まれている高級品を見ながら、呆れて笑っていた。
「ん?」
ズボンのポケットに入れたスマホの振動に気づき、送信者を確認する。
『手出すなよ。俺のに』
「ハハハッ。可愛い!」
「え? どうしたんですか? 高科先生? 誰が可愛いんですか? まさかワタシ?」
クリクリ瞳を見開き、自分の顔を信頼しきって見上げてくる少女に対し、生意気な弟分を、高科はたまには乱してみたくなった。
それは意地悪や嫉妬ではなく、可愛い妹を初めて本気で大事にしている弟分に対して「やっとちゃんとした人間」になった不器用な男への愛と、自分と同じ過ちだけは犯して欲しくないと思う、高科なりの愛であった。
「桜井、これ持って」
「え?」
「記念撮影しようか?」
「あ! 良いですねぇ」
チョロい、チョロすぎる……
違う意味で妹の将来が心配になり、また胃が痛くなる兄だった。
狼にいつ食われてもおかしくない世間知らずな妹に視線を向ける。
「俺これ借りようっと」
箱の中に入っていた「高級ブランドオリジナルベア」のぬいぐるみをわざと手に取る。
「あ、桜井もう少し寄って? 良い? 撮るよ?」
「はぁあい」
わざと近寄らせ、普段は絶対しない自分の手を少女の肩に回した。
「笑って~~貴志に元気で仲良く頑張ってる姿を見せて安心させてやるから」
悪魔は俺か?
高科はほんの少しだけ、反省しながらも続ける。
「良いんじゃない? これ」
「本当だ! このクマがくっついている感じが可愛い!」
「先生喜ぶかなあ?」
ああ、間違いなくな。
明日から俺、職探ししないといけなくなるかもな……
「よし。送信完了。じゃあ今日はちょっと早いけど、そろそろ片付けて帰るか? あ、クマ片付けときなさい取り敢えず」
「はい!」
早いね。
ポケットのスマホの振動が、思いの外早かったことに高科が笑った。
彼が送信した画像と一緒に送った内容。
『ゆっくりしていたら貰うよ?』
『やれるものならやってみろよ』
想定通りの内容だったことに笑ったが、その早さに余計笑った。
いや、改めて安心した。
◇
「what’s wrong ?」(何かあった?)
「 nothing 」(いや何も)
それだけ短く答え、無表情で男は飲みかけの珈琲をそのまま置き、年配の男性と共に外で待つ車に乗り込んだ。
「楽しみだな」
車の中で楽しそうに笑っていた顔は、彫刻のような冷たく美しい微笑みだった。
◇
今日は、当日伴奏を担当してくれる天野先生も一緒に交えての練習だった。
「そこもう少しゆっくりが良いかもなあ。天野ちゃん宜しく~~」
「何でまた俺なんですか? 花のワルツ程度なら高科先生でも余裕でしょう?」
「そしたら誰が桜井にバイオリン教えるんだよ? 天野ちゃん?」
「……伴奏者そろそろ探しません?」
天野は、自分のピアノ科の生徒が今回沢山出演する為、それで忙しい毎日を送っていた。
「魔王のご指名ですが? 御同窓の天野くん?」
「……」
そうよねぇ。高科先生はともかくとして、天野先生に練習用の伴奏まで毎回して貰うのはねぇ?
「やっぱり伴奏者ちゃんと探した方がいいですよねえ?」
「無理です」
「やらせて頂きます。僕は姫の下僕で御座います」
「ぇ?」
そもそもアイツの注文通りに弾ける、いや姫の下僕として姫を精一杯光らすことができる伴奏者なんか生徒の中にいるはずがないだろ。
天野以外にな。
同期に奴がいたから目立たなかったが、ジュリアノ主席卒業の腕は確かだよ。
日本になんか留まっているのがおかしいぐらいだ。
「今回さぁ御神先生って珍しく原曲で良いんですねえ?」
その言葉に高科先生の顔を見る。静かに頷いたのを確認したので、先生から預かった「絵本」を天野先生に見せた。
「なるほどね」
天野先生はそれ以上何も言わなかった。
先生の見た目と噂から、この世界に長年いた天野先生が知らないはずがないと高科先生も判断したからだろう。
「まぁ当時は相当、洗礼受けたって有名だしね。そのお陰で僕らは楽が出来たってのもあるけどね」
「ぇ?」
高科先生の顔を見る。
静かに微笑んだ。
日本では天才、神童と持て囃されたかもしれないが、世界最高峰の音楽院だ。
未だ西洋人至上主義が根強く残る古典で、アジア人が素直に受け入れられたはずがない。
「御神 貴志」の活躍により、天野先生や高科先生の留学の門戸が広がったのは間違いなかったはずだ。
「まあその時の恩があるしね。それに今も御神先生が一線にいてくれるから、僕らに仕事があるわけだしねぇ」
日本の音楽家、いや日本にいる音楽家を目指す者、音楽会を全てを背負って立ち、走り続けている先生に、私はなんとなく胸が締め付けられた。
「有名になって俺を養ってくれ」
先生があの時、笑いながら言った言葉。
あれは単に冗談だけで言ったのではなかったのかも。
先生……
──ヴーヴゥー
『神様』
二人が無言で頷いたの通話を押す。
『好きなこと一つだけ叶えてやる』
『ぇ? 突然? どうしたんですか?』
『ごめん。今月帰れそうにない』
『……はい』
静かな先生の声に、我慢していた涙が溢れてきた。
高科先生と天野先生がそっと部屋を出て行った。
あと二週間で会えると思って、その日を楽しみにとだけ頑張っていた。
そんな私へ突然、神からのお告げは、無情にも「死刑」とも言える宣告だった。
『夜宴には戻る。約束する。ごめん』
『はい……』
『何か欲しいもの決まったら連絡してこい』
欲しいもの?
何も要らない。
先生が居てくれたら。
『御神 貴志、先生が欲しいです』
『高いぞ』
否定しなかった。
『出世払いでお願いします!』
『考えておいてやるわ』
『どっちをですか?』
『Ich liebe dich』(イッヒ・リーベ・ディッヒ)─愛している (独)』
『え? 何て? 何語!?』
『時が来たらな』
『え? どう言う意味なんですか?』
『おやすみ。って意味』
『ひどーい!』
『さぼってないで練習しなさい』
『やってるもん! 頑張ってるもん! 先生に会えると思って! 頑張ってるもん! 馬鹿!』
『切るぞ』
『……ごめんなさい』
『夜宴の次の日、何とか空けるから、それで今回は許せ。ごめん』
『絶対?』
『……最善を尽くします』
『先生……好きでいてもいいですか?』
怖くてずっと聞けなかった言葉を、はじめて口にした……
『YES。時間だ。頑張れよ』
『はい──』
『じゃあな。花音』
──ツーツーツー
い、今、先生、な、名前で?
花音って呼んだ?
え?
嘘!
はじめて名前で呼んでくれただけで泣き崩れてしまうほど、想いが溢れていた。
◇
「……いつかはやらないとなあ」
こうなることが分かっていたのに、あの日、海辺で自分を抑えることが出来ず抱きしめ、触れてしまったことに男は自分を責めていた。
そして後悔より、これからの彼女の試練を危惧していた。
音楽を捨て自分に走って来そうな少女の才能を、自分のせいで潰してしまうかもしれない可能性が現実のものになる日が着実に近づいていることに。
「また泣かすことになるのか……」
その顔は彼にしては珍しいものだった。
常に冷静沈着、冷血無慈悲と言われる「魔王」とはかけ離れた、迷いと不安に悩む顔であった。
火をつけただけで、吸うことなく灰皿に置いたままのタバコの燃えかすが、ポトリと灰皿に落ちた時、髪を掻き上げながら、灰皿に強く押し付け立ち上がった。
その顔は、能面のように冷たいものだったが、何かに決意したのがはっきり分かる鋭い視線だった




